究極の選択
最愛の人と、自らと。
片方が幸せを掴めば、片方は必ず不幸になる。
もしも、そんな状況に陥ったとしたら。
貴方は、どちらを選びますか──?
それは、酷く美しく、魅入られそうなほど輝かしく、触れるのを躊躇うほどに可憐で──そして、恐怖すら感じる凄まじい力を宿していた。
「美しいでしょう? 貴女をイメージしてわたくしがデザインしましたのよ。是非貴女に着けていただきたくて、卒業パーティーに間に合うよう急いで作らせましたわ」
シンプルなケースの中、小ぶりながら極上のピンクダイヤモンドを彩る繊細極まりない銀細工を施された、高価という言葉だけでは到底足りるはずもない美しいブレスレットが、今こうして私の目の前にある。
一介の男爵令嬢には到底相応しくないそれを、プレゼントと称して差し出したのは、この屋敷の主である筆頭貴族の令嬢コルネリア様。第一王子エイダン殿下──半月後に王立学園を卒業した後、王太子となることが決まっている人物の、正式な婚約者である女性だった。
十八歳という年齢よりも大人びた、絶世と名高い美貌に浮かんだ優しい笑みはやはり美しく──けれどそれは、ブレスレットと同じくらい恐ろしい何かを宿していた。
……ぞくり、と悪寒が走るのを感じながら、私は何とか口を開く。
「た……確かに、とても美しくて素敵です。でも、こんな明らかに高価すぎるものを、理由もなくいただくわけにはいきません」
「まあ、そんなつれないことをおっしゃらないで、クララベル様。それに理由と言うならば、貴女は卒業パーティーで、誰よりも美しく着飾る必要があるでしょう?──何せ、エイダン様にエスコートしていただくのですものね」
──変わらない口調、変わらない笑顔で紡がれた言葉のはずなのに。
私の耳にはまるで、死刑宣告のように響いた。
さっと青ざめたに違いない私を見ながら、コルネリア様はころころと無邪気に──無邪気そうに笑う。
「つい三日前のことでしたわ。エイダン様ったら、酷く真剣な顔でおっしゃいましたのよ。『君には申し訳ないが、婚約を破棄してほしい。僕はクララベルを愛していて、正妃に迎えたいんだ。君の経歴には傷をつけてしまうけれど、必ず良い縁談を見つけると誓うよ。──だからこれからは、クララベルの恋人として振る舞うのを許してほしい』と。流石に驚きましたので、返事は保留にさせていただきましたけれど」
「も、申し訳ありません! 信じていただけないかも知れませんが、私はエスコートはお断りしたんです! 婚約破棄だけでも大変な事なのに、卒業パーティーという公の場で私をエスコートするなんて、コルネリア様を更に侮辱するようなものだと。でも殿下は頑として聞き入れてくださらず……」
「ええ、そうでしょうね。聡明な貴女のことですもの。立太子間近とは言え、いいえ間近であるからこそ、エイダン様のお立場を脅かすようなことは慎むべきだと思っているでしょう。わたくしも同感ですわ。それなのにエイダン様ときたら……」
ほう、と嘆息するコルネリア様はやはりとても綺麗で、心から殿下を想っているようだ。
──本音を言えば、私もエイダン殿下をお慕いしている。だから、エスコートの申し出も、正妃になってほしいと言われたことも嬉しかった。
……でも。私が好きになった殿下は、幼い頃からの婚約者に対して婚約破棄を告げて間もないのに、新たな恋人を公の場に連れ出そうとするような、そんな不誠実で愚かな御方ではなかったはずだ。なのに何故──
(……あれ?)
ふと疑問を感じた。
確かに卒業パーティーはあと半月後だ。そして、エイダン殿下がコルネリア様にエスコートができないと頭を下げたのが三日前。
……それからすぐにデザインに取りかかったとしても、ほんの三日でこんなにも繊細なつくりのアクセサリーが作れるわけがない。宝石には詳しくないけれど、貴重なピンクダイヤモンドを用意することさえ難しい期間ではないだろうか。
なのにどうしてコルネリア様は、このブレスレットを贈る理由を、パーティーで殿下にエスコートされるのだから、などと言ったのだろう……
黙り込んだ私に、コルネリア様も私の疑問を悟ったのだろう。すました顔でこう言った。
「あら、悟られてしまったかしら。確かにわたくしは、エイダン様の告白のずっと以前から、このブレスレット制作に携わっていましたわ。パーティーの話を持ち出したのは、貴女に素直に受け取っていただきたかったからです」
「そんな、何故ですか? こう申し上げるのも失礼ですが、私はコルネリア様の、言わば恋敵です。なのにプレゼントだなんて、それもこんなに綺麗で高価なものを贈るのは、普通は有り得ないと思います」
「そうかしら。恋敵にこそプレゼントをすることもありますのよ?」
穏やかに優しく、けれどどこまでも楽しげに微笑むコルネリア様は、第三者にとってはこの上ない眼福であるに違いない。
けれど私は、どうしても笑顔を返せずにいた。
……恋敵に贈るプレゼントなど、どう考えても物騒な予感しかしない。
微妙な表情になっているに違いない私に構わず、やがて口元だけに笑みを残したコルネリア様がこう問いかけてきた。
「クララベル様、一つご意見を伺わせてくださいな。貴女の目から見て、エイダン殿下に、以前とは明らかにお変わりになったと思う点はおありかしら?」
「それは……はい。本来の殿下なら、いくら私を好いてくださっているとしても、いきなり正妃にしようなどとはなさらないはずです。筆頭貴族のご令嬢であるコルネリア様を蔑ろにするなど、いくら王子殿下でも、いえ王子殿下だからこそ絶対にしてはならないことですから。正妃はあくまでもコルネリア様で、私は側妃として留めておくのが、どこにとっても最適解だというのは分かりきった事実です。それなのに……」
「その通りですわね。でも今の殿下は、その程度のこともお分かりにならないようで……困ったものだわ」
突然の問いに戸惑ったものの本音を話せば、コルネリア様はまたも溜め息をついた。
私の戸惑いはまだ消えない。──この会話の行き先がどこに繋がるのか、全く読めず掴めないからだ。最初はただ単純に、エイダン殿下から離れるように言われるものとばかり思っていたのに、そう簡単ではなさそうだというくらいしか分からない。
この場の主導権は間違いなくコルネリア様にあり、私はそれを受けて立つしかなさそうだ。
そして、コルネリア様はまた違う話題を提示する。
「世間話をいたしましょうか。魅了魔法というものについて、クララベル様はご存知?」
「魅了魔法……ですか。以前、書物で読んだことはあります」
脳内から過去の記憶を引っ張り出す。
他のごく一般的な、精霊の力を借りて意識的に行使する魔法とは違い、魅了魔法は術者の意識に関係なく周囲の異性に影響を及ぼす、体質に近いものらしい。術者が好意を抱く相手にはより強く効くのは間違いないが、意思が働くのはその程度に過ぎないそうだ。
古来から魅了魔法使いはトラブルを起こすことが多く、規模の大きい話になると、三つの国の王が一人の魅了魔法使いの女性を巡り、それぞれの国全体を巻き込んで血で血を洗う争いを繰り広げたという。
そこまでは行かないとしても、スパイやハニートラップには持ってこいの能力であるため、各国では魅了魔法使いへの様々な対策が今でも研究され続けているはずだ。
私が思い出したことを述べると、コルネリア様はとても満足げにうなずく。
「流石は特待生というところですわね。そのことで他に覚えていらっしゃることは?」
「ええと、確か……魅了魔法の効果は麻薬のようなもので、長期間さらされると術者への傾倒が進む一方、徐々に精神面に異常をきたし……それまでとは、明らかに違う行動をとる。その後は、人が違ったように、なり……やがて、術者に依存し。最悪、廃人にまで至る、とか──」
思い付くままに並べていきながら、私の声は途切れ途切れになり、酷く震えて聞き取りづらいものとなった。
顔から血の気が引いたのを、嫌と言うほど自覚する。
──まさか。そんなことあり得ない。あるはずもないし、何よりあってほしくなかった。
でもそれなら何故、コルネリア様は私にこんなことを尋ねたのか。コルネリア様ならよくご存知であろうことを、何故わざわざ私に問い、口にさせる必要があったのか。
それはつまり、私が──
「……コルネリア、様。わた、し。私は……」
否定してほしいと、すがり付くような目を向ける私に、コルネリア様は困った様子で、けれどやはり顔には微笑みが浮かんだままだった。
「ごめんなさいね、クララベル様。わたくし、貴女のことは嫌いではないの。むしろ友人になりたかったわ。でも──」
と、コルネリア様が目を逸らした先。
そこには、あの美しいブレスレットがあった。
「……この、ブレスレットは」
「確かにわたくしがデザインして、オーダーメイドで作らせた物ですわ。──でもそれだけではなくて、魅了魔法封じの術式を施しています」
「魅了魔法、封じ」
「ええ。きっと今──いいえ、先ほどからずっと、クララベル様はこのブレスレットに対して、本能的に負の感情を抱いているでしょう? それは間違いなく、貴女が魅了魔法の使い手だという証なのですわ」
コルネリア様の言う通り、確かに私はこのブレスレットに、言い様のない恐怖を感じている。その理由を知ってからは尚更だった。
──だって、私は知っている。魅了魔法を封じられた術者が、一体どんな風に扱われるのかを。
「……かの、三国間の戦争は……ある国の宮廷魔術師が作った、魔術具により、女性が魅了魔法を封じられたことで、終息したと。そしてその女性は……愛されていたはずの三人の王に、なぶり殺しにされたのだと……」
「そのようですわね。魅了魔法が封じられることで、それまでに蓄積された好意が多ければ多いほど急激に反転し、憎悪や殺意に転ずるというのが、現在最有力の説です」
震える声で独り言のように紡いだ私の言葉にも、コルネリア様の微笑は決して崩れず揺らぎもしない。
──つう、と。私の頬を涙が伝った。
「コルネリア様は……卒業パーティーに、これを着けるようにおっしゃいました。つまりそれは……私に、公衆の面前で殿下に殺されろと、そういう主旨なのでしょうか……?」
あまりにも辛かった。辛すぎて、コルネリア様の方を見られなくなるほどに。
コルネリア様には当然、嫌われていると思っていた。それは仕方ないと思う。でもまさか、殺されることを望まれているなんて──
「まさか。わたくしは貴女を嫌ってなどいないと、先ほども言ったばかりでしょう。──でもね」
話しながら立ち上がり、ゆったりとした足取りで近づいてきたコルネリア様は、すっと体を屈めて私の耳元に唇を寄せた。
「このままお側に貴女がいては、エイダン様がエイダン様でなくなってしまうわ。──わたくしはそれが、どうしても許せないの」
「────!!」
今日初めて露にされたコルネリア様の感情は、あまりにも明確すぎる怒りと、この上ない憎悪が込められていた。──それこそ、私の体を凍りつかせるほどの。
はくはくと、声も出せないまま口だけが動く。
そんな私の頬を、優雅に体を起こしたコルネリア様の指が、恐ろしいほどの優しさをもってなぞってゆく。
「そんなに怖がらないでちょうだい。わたくしは貴女個人ではなくて、エイダン様に悪影響を及ぼす魅了魔法が憎いだけ。……貴女がエイダン様に危害を加えられる恐れさえないのなら、貴女にはこのブレスレットを付けた上で、側妃にでも何でもなっていただきたいと思っているのよ」
「……で、でもそんなことは、無理以外の何でもないことで……」
「そうね。だから──貴女には、二つの選択肢を差し上げるわ」
「ふた、つ……ですか?」
「ええ」
コルネリア様の微笑は、今日はずっと見せられてきたけれど。
今目の前にあるのは、女神を思わせるほど清らかで慈愛に満ちた、天上の美を思わせるものだった。
ほっそりとしたしなやかな人差し指が、女神の微笑の横で立てられる。
「一つ目。ブレスレットを受け取り、そのまま学園を退学して王都から去り、魅了魔法を封印したまま、二度とエイダン様には近づかず一生を終える。二つ目は」
ほぼ予想通りの内容だった一つ目とは対照的に、二つ目はあまりに意外すぎて、私ははしたなくもぽかんと口を開けてしまう。
「ブレスレットを受け取ることなく、エイダン様に望まれるまま正妃となること」
「……は?」
その反応に、コルネリア様の笑顔はいたずらっぽいものに変わった。
「驚いているみたいね」
「し、失礼しました。でも、その、まさかそんな選択肢をコルネリア様が提示なさるなんて……もしそちらを選んだとしたら、コルネリア様はどうなさるのですか?」
「どうしようかしら。正妃になるはずだったわたくしが今更側妃になるなんて、誰よりお父様が激怒なさるでしょうから、エイダン様のお側に侍る案はないわね。他国に嫁ぐか、あるいは結婚は諦めて宮廷魔術師でも目指しましょうか」
「……『でも』ですか……」
何と言うか、一般的には門が狭すぎて最難関を誇る宮廷魔術師の道を『でも』扱いとは、流石に超絶ハイスペックな筆頭貴族令嬢ではある。
コルネリア様はころころと笑う。
「わたくしのことよりも、貴女ご自身の心配をすべきではなくて?──もしも二つ目を選んだなら、貴女は自身の能力のせいで日々悪い方へと変化してゆくであろうエイダン様と、嫌でも向き合わなくてはならないのよ」
「っ──!!」
容赦ない現実を端的に突き付けられ、絶句するしかなかった。
──でも。コルネリア様はついさっき、あれほどきっぱりと宣言したばかりではないか。
「……コ、コルネリア様は。本当に私がその選択肢を取るのを、許すことができるのですか……?」
「貴女の意思次第でしょうね。エイダン様の変化と自身の能力に正面から向き合い、魅了魔法の制御を編み出すか、封じる以外の対処法を見つけた上で、本来のエイダン様を幸せにするのなら……そしてそれを、正妃に課せられた役割とともに実現できるのだとしたら。わたくしは貴女を、心の底から尊敬するわ」
過酷と評するも生ぬるい道を提示し、そう断言したコルネリア様は、今日見ていたどの時よりも──この世の誰よりも、気高く美しい。
けれど。
「では……私が本来の殿下を取り戻せなければ?」
「その時は──そうね。わたくし。
──貴女のことを、殺してしまうかもしれないわ」
くすくす、くすくす、と。
穢れも何も知らぬ子供のように無邪気に笑い、言い放った彼女は。
──この世の全てを惹き付けてやまない、禍々しくも絶対的な美に満ち溢れていた。
魅入られてしまったように惚ける私の唇に、コルネリア様の指がそっと触れ、優しく愛でるように形をたどる。
「さあ、聞かせてくださいな。
──貴方は一体、どちらを選ぶのかしら──?」