悲しみの砂
マナはそっと窓辺に砂時計を置きました。
そこは日の光がたっぷり差し込む大きな出窓。置いたばかりの砂時計と同じようなガラスの置物が、空から降り注ぐ光の粒を部屋の中に招いています。
大きさはさまざまですが、どれも雫の形をしたガラスがふたつ、細い先っぽを向かい合わせにして、縦につながった形をしています。ガラスの中には粉と見まがうほどに細かな砂が入っていて、上の雫から下の雫へとさらさらこぼれ落ちていくようになっています。
「次の方、どうぞ」
マナの呼びかけに、部屋の扉がゆっくり開きました。そして、のそりとひとりの男が入ってきました。背が高く、力が強そうな体をしているのに、その人はとても小さく見えました。うつむいて、腕をだらんと前に垂らしているせいでしょう。
「こちらにおかけください」
マナは踏み台のような、背もたれのないイスに座るようすすめました。男はおとなしくちょこんと腰かけます。それを見届けると、マナも同じようなイスをその人の前に置き、自分も腰かけました。
男と向かい合ったマナは静かに声をかけます。
「さあ、腕を前に伸ばしてください。そう……手のひらを上に広げて……ええ、いいですね。そのまま器のように……そうです、そうです、水をすくう形です」
強そうな男が、まるで自分の娘みたいな若い女の人の言葉に素直にしたがっています。
お椀の形に差し出された男の両手をマナは白く細い指の手でそっと包みました。
「見えてきました……これは……山津波ですか……? ああ、かまいませんよ。どうぞそのまま。なにもお答えになることはありません。あなたの悲しみはしっかり伝わってきますから。そう……畑も家も押し流されてしまったのですね。先祖代々の畑と家を失われてさぞお気を落としのことでしょう」
重ねられた手を通して、男の悲しみがマナへと流れ込んでいきます。けれどもマナはその悲しみを飲み込まないようにする術を知っていました。それこそがマナの仕事なのです。
勢いよくマナに流れこもうとする悲しみを、マナは男の手に押しとどめます。男は「ぐおっ」と獣のような唸り声を出しました。マナにはそれが泣くのを必死でこらえているためだとわかりました。ですから、やさしくささやきます。
「さあ、こらえないで。だいじょうぶですよ……安心して……あなたのその悲しみをすべてここに……うっ!」
マナが顔をしかめました。けれどもいったんは閉じた目をすぐにあけ、力強く男の手を握ります。
一気に悲しみが放流されるこの瞬間は、いつになっても慣れることはありません。
とはいえ、ここがこの術の要。この手続きを踏まなければ砂ノ術はほどこせません。
人々の苦しみのもとを吸い出して楽にする――それがマナたち砂ノ術師なのです。
「さあっ!」
マナは先ほどまでとは一変して大きな声をかけました。その声に絞り出されるようにして、男の掌に砂が湧き出てきました。
さらさらさらさらさら……
砂はみるみるうちに男の大きな手のひらいっぱいに溢れ、こぼれ落ちる寸前でぴたりと止まりました。
男は肩を揺らして大きく息を吸ったり吐いたりしています。まるで力の限り辺りを走り回ってきたような息づかいです。
「もうすこし……もうすこしだけそのままで……」
マナは片手で男の手を支えたまま、反対の手で懐から白くやわらかな紙を取り出しました。それを男の手の下で広げました。
「はい、いいですよ。ゆっくり砂をこぼしてください」
男は器の形に丸めていた両手の間をゆっくりと開いて、さらさらと紙の上に砂をうつしました。
すべての砂を移し終えると、マナは紙の四隅を折りたたんで砂を包みました。
それからふたりはそろって、ほうっと大きく息を吐き出しました。
「はい。これでおしまいです。どうですか? 楽になりましたか?」
男は胸に手をあて、笑顔になりました。
「これはすごい! 話に聞いていたとおりだ。もうすっかり心が軽くなったよ」
「それはそれは。術をほどこした甲斐がありました」
「また明日から頑張るよ。頑張るしかないんだもんな」
「ええ。でも、もし、この悲しみを思い出したくなったら、いつでもいらしてください」
マナは術のあとに必ずそう言うことにしているのです。
男は一度不思議そうな顔をしたあと、ムッとして言いました。
「それはなにか? またその砂をおれの中に戻そうというのか?」
「いいえ、そうではありません。ひとたび砂になった悲しみは心に戻すことなどできません。ただ、見ることはできます。窓辺に砂時計が並んでいるでしょう? あれは、これまでわたしが術をほどこした方たちの悲しみの砂でできています。いつかまた思い出したくなった時のために」
「砂となんの関係があるんだ?」
「砂がこぼれ落ちる間だけその砂の記憶がよみがえるのです」
「そんなもの、誰が見たいものか。今までに見にきた者がいるのか?」
「いいえ。今のところはどなたも」
「そうだろうよ。――まあ、その話だけは覚えておくさ」
顔を上げ、背筋をのばし、大股で出ていく男の後姿は、この部屋に入ってきた時よりひと回りもふた回りも大きく見えました。
「次の方、どうぞ」
マナの呼びかけに、部屋の扉がゆっくり開きました。入ってきたのは、母親に両肩を抱き締められた少女でした。
「お嬢ちゃん、こちらにおかけください。お母さんは申し訳ありませんが、壁際のイスでお待ちください」
マナがそう声をかけると、母親は心配そうに我が子を見つめたまま壁際へと下がっていきました。けれどもイスには座らず、両手を胸の前で握りしめたまま立ち尽くしています。
マナはそんな母親の様子に気づいていましたが、なにも言いませんでした。術の邪魔にならなければそれでかまいません。
マナは少女の向かいに腰を下ろし、静かに声をかけます。
「さあ、腕を前に伸ばしてください。そう……手のひらを上に広げて……ええ、いいですね。そのまま器のように……そうです、そうです、水をすくう形です」
小さな子に対してもマナの口調は大人に対するものと変わりません。言葉を変えてはいけないという決まりはないのですが、マナはなぜか言葉を変えるとうまく術をかけられないのです。毎回同じ言葉で術をかけるのは、マナ自身にも軽い術をかけているのかもしれません。
悲しみを吸い上げるという術はとても危険です。手のひらに留めれば砂となって取り出すことができますが、術師が未熟だったり弱っていたりすると、その悲しみは術師に流れ込んでしまうのです。
他人の悲しみをいくつもいくつも抱えてしまったらどうなるでしょう。悲しみは体を蝕んでいくのです。病気にかかりやすくなります。そうならなくても、これといって悪いところがないままにやせ細り、死に至ることもあるのです。
いくつも溜まればそれほどまでの毒となる悲しみ。たったひとつ抱えているだけでも日々を過ごすのはつらく苦しい時間に変わってしまいます。
だからこそ人々の悲しみを取り除く砂ノ術師という者が必要とされるのでした。
「これは……なんて美しい鳥…… ああ、かまいませんよ。どうぞそのまま。なにもお答えになることはありません。あなたの悲しみはしっかり伝わってきますから。そう……大事なお友達だったのですね。それなのに鳥かごごと山犬に襲われて……ああ、なんてこと……あなたの目の前で……」
少女はぽろぽろとガラス玉のような涙をこぼしました。そして小さな手のひらにはさらさらと砂が湧き出しました。
「はい。もういいですよ。この紙の上にゆっくり砂をこぼしてください」
手のひらから砂がなくなると、少女はまわりに光が溢れるような笑顔になりました。それから母親に駆け寄り、抱き合いました。
「もし、この悲しみを思い出したくなったら、いつでもいらしてください」
マナがそう言うと、母親は気味の悪いものを見るように眉を寄せました。
「その話、聞いたことがありますよ。捨てたはずの悲しみの幻を見せるそうですね。」
「ええ。今のところはどなたにもお見せしたことはありませんが」
「そりゃそうでしょう。また体験したくなるようなものなら捨てたりなんかしませんよ。――でもまあ、今回は助かりました。ありがとうございました」
急ぎ足で去っていく親子を見送ると、マナは空のガラスに砂を移しはじめました。
するとクスクスと笑う声が聞こえました。




