phase1 次の旅の行き先は
目が覚めると、汗が噴き出していることに気付く。真夏だから?いいや、それは理由の一端に過ぎない。もっと大きな理由は、俺の腹にのしかかっているデブ猫にある。
「おい、こら、どけ」
俺がデブ猫と称しているだけあり、フィルの体重は、俺の体重六十キログラムの半分もある。むしろ、なぜ起きるまで気付けなかったのかが不思議だ。
なかなか起きないフィルを横に転がし、現状を把握する。今日は七月二十九日。時間は午後一時。気温は三十五度。カーテンを開ければ、そこにはあっぱれと言わんばかりの青空が広がっている。
「うむ、完全に寝落ちってやつだな。別に夏休みの間はこれと言った用事もないからいいんだけど」
太陽からの反射光に目がくらむ。そこで、ふと自分の喉がからからであることに気付いた。三十五度の部屋にいたのだ。喉が渇くを通り越して熱中症直前だ。その証拠に、飲んだスポドリは異常なほどに味が濃く感じた。
「おはよう、ソウイチ~。随分シャツが濡れてるけど、服着たままシャワー浴びたの?」
「お前のせいだよ、デブ猫」
「んなぁっ」
スポドリだけでは体液が濃くなりすぎるので、冷蔵庫の麦茶をコップ一杯飲みほした。隣ではぷんすこしながら両手で器用にコップを握っているフィルがいた。本当、こういう姿で喋らなければ可愛いのにな。
「昼飯、どうしよ」
正直腹は全然減っていない。昨晩、フィルとの談話がはずんでしまい、気の向くままに夜食を作ったのだ。お腹にやさしさを、と考えて温かいスープを作った、美味しかった。
しかし、今空腹でないとはいえ、最後に食事をしてから既に九時間は経過している。体の機能が起き始めたら、空腹になることに違いない。かといって空腹でもないのに食事を作るのは大変面倒くさい。ならとる手段は一つしかない。
「フィル、昼飯にハンバーガーは如何だろうか」
「大いに賛成だよ、ソウイチ」
「んじゃ、汗流してくるから、お前も毛づくろいしとけ。鏡見てみろ、今すごいことになってるぞ」
収納しておいた下着を取り出し、服を脱ぎ捨て、風呂場に入る。温度のノズルを調節し、頭からシャワーを浴びる。最初はお湯ではなく水なのだが、これがまた気持ちいい。夏だからこそできる芸当だが、いまだに寝ぼけていた頭がすっきりする感覚が肌にしみて分かる。
軽く流したのちに、体全体を洗う。体臭は無い方だが、常にそう言うところには気をかけて生きていくと決めている。
明るいうちのシャワーに心が弾む中、洗面所の方では、フィルが鼻歌混じりにドライヤーを使っているのが分かった。そもそもあいつ、他人には見えないのにセットする必要あるのか?
「あー、やっぱ風呂シャワーは良い文明だな。体の汚れと同時に心の汚れまで洗い流されるようだ」
「なーに風流なこと言ってるの。ぜんっぜん似合ってないよ」
別に風流なこと言ってカッコつけようだなんて思ってないし。
洗面台に居るフィルからバスタオルを受け取り、体を拭う。髪を起点として首、胴、足と、水分を残らず回収していく。
体表に水滴のなくなった俺に怖いものは無いと言わんばかりに、風呂場のドアを強く開け放ち、下着を着用する。清潔な下着は心も清潔に……と言いかけたが、二の舞になるのでそっと心の奥に潜めることにした。
午後の一時や二時は最も暑い時間帯だ。コンクリートからの反射熱が体を焦がす。
「いつも思うんだけどさ、ソウイチ。なんで出かけるときはいつもその服装なの?一体何着持ってるんだい」
「俺の一張羅をぼろ雑巾を見る目で見るな。この服装は日本に古来より伝わる服装だぞ。それに夏には涼しくてピッタリなんだよ」
俺の一張羅、という物は、甚平に他ならない。俺は基本、夏の間は甚平で過ごしている。趣味ではなく、祖父の慣習が自分にも身に付いてしまったのである。実際の所甚平は割と通気性もいいし、近年ではデザインも増えてきて、普段着などでの甚平は社会的に普通になりつつある。
ちなみに、複数枚持っているので、厳密には一張羅では無かったりする。
「そんなことはいいから、とっとと前に乗れ」
フィルは、見ての通りデブで毛皮に包まれている。浮遊するのにも、立っている程度の力はいるらしく、その状態で飛ぶのでは、ダッシュするのと変わらないらしい。なので、一緒に出掛ける際には自転車の前かごに押し込むことにしている。
フィルがしっかりと体重をかけたところで、自転車をこぎ始める。今回の目標であるマクドナルドまでは自転車でおおよそ十五分といったところだ。遠くもないが近くもない。暑い分を加算すれば遠い。くそ、甚平に似合う帽子が無いからって、何も被らないで出てくるんじゃあなかった、と後悔する。
午後一時三十分、起きてから僅か三十分でハンバーガー店だ。健康的に実によろしくない。たまのサボりくらい、お袋も許してくれるさ。そう言い聞かせる。
店内は丁度いい具合にクーラーが効いており、自転車を漕ぎ、汗まみれになった俺には天国の様だった。俺の腰の高さでは、何もしていないはずのフィルまでもが、疲れ切ったように、うなだれていた。その姿、まるで肥えた老猫。その様に思わず軽く吹き出してしまう。
しばらくすると、俺もフィルも暑さから解放され、何を食べるかで目が輝いていた。
「決めたら勝手に耳元で教えてくれ」
周囲に聞こえない程度に呟く。ちなみに俺はいつも同じものを頼むので、一切時間はかからない。
「じゃあ僕はベーコンレタスチーズバーガーで」
「カロリー高いからアウト。チキンフィレオなら許可する」
「それもう僕に選択肢無くない?」
ハンバーガーを食べに来たのにカロリー摂取制限を掛ける。実に不条理だ。ダイエットしたいならこんな所には絶対来ない。
「ビックバーガーとチキンフィレオください」
「店内でお召し上がりですか?」
「いえ、持ち帰りでお願いします」
「かしこまりました。少々お待ちください」
一言一句噛むことなく言い切る。フィルと話すときはとにかく、こういう完全に知らない人と話すのは、今でも緊張する。旅に行ってる時はテンション高くてそんなことはないんだけど。
商品が届くのを待つ間暇なので、店内を見渡す。すると、フィルが子ども相手に遊んでいた。もちろんフィルのことは見えも聞こえもしないが、実体としてそこに居るので、触れると何かがあることは気付く。実はそのことが分かるまで、フィルは俺の空想の生き物なのでは、と鬱になりかける時もあった。
もしフィルを下手に触れられでもすれば、非力なフィルは毛を引っ張り上げられるかもしれない。そうなると面倒だ。面白いだろうけれど。
「お待たせ致しました。商品になります」
「あ、どうも」
商品を受け取り、再度フィルを確認する。今は子どもの目の前で頭を中心にくるくると回っていた。一体何が楽しいのか知らないが、やけに笑い声が耳に入ってくる。
店を出るついでに、子どもの横を通り、尻尾をつかんで連行する。ふぎゃなどと声がしたが気にも留めない。
「お前さ、いい加減その子どもじみた遊びは止めろよ。俺は、何時お前が科学者に連れていかれようが構わんが、助けになんぞ行かないからな
」
「ははは、君に助けられようだなんて、僕はそこまで無能じゃないさ。こんな所じゃなければ、むしろ有能ナンバーワンだからね」
また始まった。事あるごとにフィルは元いた世界での自分を自慢してくる。特別大きい魔法がポンポン使えるだとか、その気になれば北海道を消し飛ばせるとか、これでも元いた世界では五本の指に入るほどの精霊なんだ、とか。魔法、消し飛ばす、精霊、いずれも、普通の人が信じることは到底叶わない。事実、俺ですらフィルが何か魔法を使っている様を見たことが無い。
しかし、俺はこいつのいた世界に実際に行っている。魔法やトンデモな威力のもの、精霊だって確かに存在した。しかし、俺はその世界ではフィルと一度も遭遇していない。その世界では、一人の子どもと、そこのことを一から十まで教えてくれた女の子としか会っていないのだ。思えばその出会いも既に一年が経とうとしているのか、旅以外が刺激の無い日々の表れだな。
「とと、やっと着いたか。相変わらずの穴場でけっこうけっこう」
「ひゃっふーい」
ハンバーガー店から自転車を走らせること十分、到着したのは木漏れ日の降り注ぐ沢だ。年中日陰のおかげで、この場所だけは外と五度ほども気温が違う。さらには河のせせらぎが、気分的に涼しくしてくれる。俗に言うマイナスイオンも出ていることだろう。
自然という物は変化を如実に表してくれる。半月に一度来るなら、その変化はきっとめざましいものだ。水の透明度、苔の量、光の入り方、周辺に生える植物の成長、そういったモノの変化の観察は、俺の中で最も続いていることだ。
「俺が旅に行ってる間に雨が降ったみたいだな。石が湿ってる」
「さすがだね。一昨日降ったばかりだよ。久しぶりの雨だったから、植物としては嬉しかったんじゃないかな?」
確かにここ数週間程雨が降っていなかった。この時期は米の成長に関わってくる。出来る限り美味しい米が食べたい者としては、適度の振ってくれることに何の異論もない。
適当な石に腰を下ろし、そこでようやく休憩になる。川の水が増えたといっても十数センチだけの様で、椅子になる石にはその様子は見られなかった。
「ほい、お前のチキンフィレオ」
ほれ、と放り投げる。それをフィルも易々とキャッチ。ここらへんはもう手慣れたものだ。
「ところでソウイチ、次の旅へはいつ行くつもりだい?」
頬にオーロラソースを付けて話しかけてくる。
「んー、やっぱり魔法の『要素』があると世界観が全く違うから、次は魔法関連かな。あと、ソースついてるぞ」
「おお、魔法の世界かぁ。随分久しぶりなんじゃない?少なくとも僕がここに来て以来行っていないよね」
頬のソースを拭いながら話す。
「魔法の『要素』を持つ物がそもそも希少だからな。そうやすやすと行けないんだよ」
「ふーん。しかしまあ、君のその力はとことん意味不明だよね」
うるさい。一番意味不明なのは俺自身だ。生まれたころからモノの『要素』が見えるし、中学の時には多次元世界に移動ができることに気が付いたんだ。まだまだ幼いころの頭だったから、原理やら異様だなんてこと、考えもしなかった。だが、高校生になってみれば、それこそ、とことんこの力が意味不明に思えてきたのだ。
「空飛ぶ魔法使いの精霊デブ猫に言われたか無いっての」
そういえば空飛ぶ魔法使いの精霊デブ猫って、デブを除けばよく二次元にいそうな生物だな。
「むぐぐ……。まあ、それは置いておいて、次の旅は僕もついていっていいかな?僕の世界の魔法との差が見てみたいんだ」
「そりゃあ構わんけど、そんな直ぐには行かないぞ?どれだけ面白そうなテーマでも、最速で明後日だ。それだけは先に言っておく」
「そりゃあ、ついていく立場だし、急ぎじゃないから大丈夫だよ」
「分かったなら話はあとだ。食べる時は静かなのが俺らだぞ。食べてからじっくり話そうじゃないか」
そう言うと、揃って黙々と食べ始める。フィルは心なしかいつもより早く食べているようだった。どんだけ行きたいんだよ。
「ぷはぁ、美味しかったあ」
あっという間にフィルは完食、そして俺もまもなく完食と言ったところだ。
「ちょっと面白いテーマが思いついたんだけど、いいかな?」
「発言を許可する。どうぞ、フィルさん」
「裁判長かい君は。そんなことはいいんだ。僕が思いついたって言うのはね、ただただ魔法の世界に行くのって、どこかで予想が付きそうでしょ。だから、『科学と魔法の共存した世界』っていうのはどうだろうか」
科学と魔法の共存。なるほど、面白いかもしれない。と言うよりも、どんな世界になってるのか想像がつかない。勝手な想像だけれど、魔法使いの世界は、自然と共に生きている感じがする。そして科学の世界は、今の東京の近未来化した感じ。俺はそんな想像を持っている。
「なるほどね……。互いの文明の混ざりあい具合とか、そんなのは実際に見ないと分からないもんな。よし、今回はそれを採用。もう少し世界の『要素』を積み重ねていくか」
俺も完食し、ごみはまとめて小さくした。もちろん持って帰るので、とりあえず自転車のかごに放り込んだ。地面から適当な枝を拾い、地面に図を書く。
「いいか?まず最低限三つの『要素』が必要だ。魔法と科学と、あとは共存だな」
魔法は魔の中を抜いてマを入れた字を、科学は科を、共存は共を、それぞれの頭文字を書く。俺の力は、何も完全なランダムで旅をするわけではない。求める世界に行くために、『要素』を使い、絞り込むことができる。俺は生まれた頃から、物や人、動物など、すべてから『要素』が文字として見える。その力を駆使し、目的の世界に飛ぶのだ。
「魔法は部屋にある拝借品で何とかなるとして、科学はスマホは……よし、該当してるな。後の問題は共存か。思い当たる節を述べよ。はい、今日は二十九日なのでフィル君!」
「なんなんだいそのシステム⁉僕と二十九日との関係性が一切分からないよ!」
これだから異世界生物は………。日本人学生なら絶対に分かるこのネタを理解できないとは、フィルもまだまだ馴染めていないな。だがしかし、ツッコミとしてはあながち間違っていない。
「御託はいいから、なんか無いの?発案者は発案者なりに知恵を絞るもんだぞ」
「うぐぐ……。共存って言ったって、僕の居た世界には、動物同士が共存するってことにしか当てはまんないよ。そもそも、そういう『要素』が視覚的に見えるのなら、君の経験から探し出せばいいんじゃないの?」
「思い浮かぶものがあるのなら、お前のその小さい脳に頼りなんてしないって」
「ふふん、僕はこの脳に多くを詰め込んでいるからね、君たち人間とは性能が違うんだよ、性能が」
俺も大概だが、フィルもフィルでなかなかに攻めてくる。言う内容も考えなかければカウンターを食らって倍ダメージを受けるのはこちらだ。
「共存、ねえ。じゃあ、逆に考えてみようぜ。なんで共存という言葉が当てはまる状況になるのか」
「なるほど?まあ、そりゃあ何かが気に食わなくて争っているから、だろうね。動物なら縄張り争いとかかな。あ、でも魚には互いの利害が一致するから共存、なんてのもいるんだったかな」
なるほど、と考えを巡らせる。いっそのことその魚とやらを買うなりして手元にいればいいのだが、コバンザメとでかいサメを買うわけにもいかないし、そもそもどこにも売っていない。
いくら未知の多い世界のことを考えていても仕方ない、と身近な人間の場合で考えることにしてみた。
「じゃあ人間を例として、なんかないか?そっちならまだ出てくるかもなんだけど」
「ええー、人間かい?もうそれって君の専門分野じゃないの……?」
「いいから」
下手にまた言うと長引くので我慢。
「そうだね………。類人猿とか何だとかで考えるのは途方もないし……、あぁ、そうだ、共存にピッタリの物があるじゃないか」
「聞かせたまえ」
「時々でてくる、君のその大根役者張りの演技はなんなのさ、まったく。言ってしまえば人種差別だよ。君たち人間ってのは、肌の色が違うだけで差別されてたんだろ?それだよ」
ああ、なるほど、と納得する。今でこそ違うのだろうが、特にアメリカなんかでは白人による黒人差別があったという。なかなか根強くて大変ということも知っている。行ったこと無いが。
「それはいい例だな。確かに共存と言い表してもおかしくなさそうだ。それに、俺はついでに『共存の要素』の回答を見つけたぞ」
「ほほう、聞かせたまえ」
ふわふわの毛がびっしりと並ぶ胸を張り、髭の生えた校長風に言ってくる。くそう、何か下手なことをするとすぐこれだ。
「にゃろう……。お前もテレビで聞いたことあるだろ。キング牧師。マーティン・ルーサー・キング・ジュニアだよ。お前の言った黒人差別について訴えた、差別社会をなくすための立役者だよ。暗殺されてしまったけどね。昔に英語の授業で出たから覚えてたんだ」
同じく黒人差別と闘っていたマルクスⅩは過激派だった(最後には穏健派ともいわれている)が、キング牧師は真逆だった。彼はヒンディーよろしく、暴力を好まない、穏健派の人だった。ご存知ノーベル平和賞を受賞するほどの、黒人(主にアフリカ系アメリカ人)からすれば英雄に等しい存在である。しかし、白人男性に撃たれ、その命を絶たれてしまう。キング牧師の死後、黒人差別反対運動はさらに激化したが、次第に怒りは悲しみに変わっていく。その後、キング牧師は偉業を称えられ、様々な賞を得た。現在では一月第三月曜日が、「マーティン・ルーサー・キング・ジュニアデー」として祝日になっている。
「ははあ、あのキング牧師か。『要素』を使うとしたら彼について書かれた本で事足りそうだね」
フィルが彼、彼女を使う場合、その人に対して敬意を持っていることが多いのは、付き合いの長い俺ならではの知識だ。あまり多く語ろうとしないのもその証拠だったりする。なお、対象について知らない場合にも彼、彼女は使うので判断は本人次第だ。
「よし、それなら決まりだ。本屋に……ってここから結構かかるんだっけ……」
はあ、とため息をつく。地理的に言えば、その本屋は、家と沢とを挟んだ反対側にある。しかも坂が多い。長い。暑い。面倒くさすぎるぞ………。
「……どする?行く?」
「行くよソウイチ!」
顔をあげると既にフィルは自転車のかごに自主的に入っていた。頼むから自分で飛ぶということを僅かでも考えてほしい。頭をがっくりと落とし、うなだれながら自転車のサドルに座る。道路まで歩き、再び焦がす暑さを身に受け、より倦怠感は増すばかりだ。フィルのそわそわする尻尾を見て、諦めてペダルをこぎ出した。あまりのだるさに、俺のペダルをこぐ足はプルプルしていた。