プロローグ
ずずず、と虚空から体がゆったりと姿を現していく。
「やあやあ、おかえりソウイチ。今回の旅はどうだったかな?君の小説のネタになりそうだったかい?」
ふんわりとした物腰で語り掛けてくる、宙に浮いたデブ猫。
毛はふかふかで、他人目からすれば、マスコット界のトップは軽いだろう可愛さを持っている、デブ猫。 それなのに、俺に対してだけ、なぜだかうざったいデブ。
「よう、フィル。今回も最っ高の……と言いたいところだが、うんざりだったよ」
言い終えたところで、ようやく地に足が付き、重力にもお出迎えを受ける。
ここは俺、嘉陽聡一の部屋。床面に転がる異質なものを除けば、いたって普通の高校生の部屋だ。机には飲みかけのジュース、床には食べこぼしたスナック菓子の残骸、しわくちゃになったシーツ。そして極めつけはベッドの下の、少しえっちな本。そんな普通の部屋である。
「一週間丸々ってことは、危なっかしいことはなかったみたいだね。残念」
「ほっとけ、不摂生なデブ猫さんよ」
むきー、と背中を叩いてくるフィルを放ってリビングに向かう。一週間、しっかり食べて寝てはいたが、天候に全く恵まれなかった上に、久しぶりに言語が通じない場所にいたのだ。身体的にも精神的にも疲れ切っている。言語の差異こそ、身振り手振りでコミュニケーションはどれたが、その心労は計り知れないものだった。唯一の癒しはその自然に囲まれた景色ってね。
今回の旅先は、樹海に包まれた世界だった。背の高い、といっても数mやそこらではなく、世界樹と呼べる高さの木が生い茂っていた。まるでその大きさが当然とでも言わんばかりに。大きいのは木々だけではなく、植物全般が俺の知る大きさではなかった。そのおかげで、食料には一切困ることはなかった。
「しばらく野菜は食べたくないな。皮膚がそのうち緑になりそうだ」
つぶやきながら冷蔵庫を開ける。高校受験をして、一人暮らしの俺には、冷蔵庫に入っている物なんてたかが知れている。それに旅のために生ものは処理したのだ。中には飲み物や調味料しか残っていない。
「………買いにいくか。どうするフィル、ついてくるか?」
「ソウイチは荷物持ちにしかしないから行かないよーだ」
そうですか。と財布とエコバッグを持ち、家を出る。フィルの言う通り、荷物持ちにするつもりだった。便利なことに、フィルの姿は周囲からは見えないらしい。つまり周囲には、俺の近くで袋が漂っているように見える訳だ。そりゃあおばさま達の語り草にもなる。
外に出ると、ちょうど陽が落ちる時間だった。久々の夕焼けに感動を覚える。なにせ樹海では木々が邪魔で見えないんだから。
「おっ、一番星みっけ」
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徒歩約十分のスーパーに着く。よくある地域のスーパーだ。この間、お昼の情報番組で激安店だと取り上げられていた。テレビの言う通り、保存食から新鮮モノまで、他の店に比べて半額が普通になっている。奥様方の多いこの地域にとっては、神にも値する店だ。
買い物かごを手に取り、財布の中をのぞき、中に諭吉があることを確認する。この店なら、いくら買っても諭吉に届くことはない。あくまで一人暮らしの範疇なら。
「白菜と人参、玉ねぎにごぼう……。うん、これだけあれば十分か」
野菜はこりごり、しかしお袋から飯だけはちゃんととれと言われている。致し方無し。
そのまま鮮魚コーナーを素通りし、精肉コーナーに向かう。処理が面倒な魚はまた今度だ。
とにかく、今は肉が食べたい。あの肉独特の油、そして噛んだ時の食感、焼いたときの音、いずれもたまらないものがある。もういっそ一週間貯めこんだものを、すべて出し切る勢いで食べるつもりだった。いや、出し切るよりはかき込むの方が正しいか。
精肉コーナーには、おばさま達が集結していた。これつまりタイムセールの証。乗るしかない、このビッグウェーブに!そして、民衆に飛び込んだと同時に、店の人からのアナウンスが入る。
「ただいまより、精肉コーナーにて、数量限定タイムセールを開始いたします!ケガなどなされぬよう、お気を付けください!」
「さあこい!」
ここのしきたりとして、店員が割引シールを貼り終え、避難するまでは手を一切出さないことになっている。これは、過去にけがをした事例があるからだ。もちろんのことながら、おばさま達ではなく店員が、だ。なお、このしきたりを破ったものは、おばさま達から一生見放され、タイムセール戦争で一切モノがとれなくなるのだとか。おばさま達の結託、コワイ。
店員が割引シールを貼る間、この空間は台風の目の如く、静寂に包まれる。それまではがやがやとしていた声はぴたりと止み、殺気が場に満ちる。そして、店員が割引シールを貼り終え、避難した瞬間―――
「「「――――――!!!」」」
声にならない叫び声が、濁流のように耳に入ってくる。いつものことだが、これは鼓膜にくるものがある。しかし、俺ももうここに通い続けて二年だ。おばさまたちからの圧力に負けないだけの気力と筋力はついている。もう弾き飛ばされるだけの俺ではない。改めて意気込もうとした、そんなとき、最前列のおばさまからの声が耳に届く。
「国産牛よぉー!」
そこからの行動は速かった。迅速だった。電光石火だった。人という人をかき分け、国産牛の叫びから僅か三秒で商品の前にたどり着いていた。残りは十数個、いける!
「もらったぁ‼」
斯くして俺は、念願の肉にたどり着いたのだった。しかもサーロインだった。国産牛サーロイン。ああ、なんて裕福な響きなんだろう。
その後も適当に買い物を続け、財布の諭吉は四枚の野口になった。一週間程度の買いだめをしたつもりだ、この程度は当然と言えよう。
「フィル―、ただいまー。今日は国産牛のサーロインだよ」
「なんやてソウイチ」
国産牛と聞くや否や見たこともない速さでリビングから出てきた。興奮すると出るその嘘くさい関西弁は治らないものだろうか。
「タイムセールで生き残ってきたんだ。もうおばさま達は本気の俺の敵じゃないね」
「流石はわしが見込んだだけある……さぁ、早いところわしにも食べさせておくれ」
ホントこいつの掌返す態度嫌い。
「より多く食べたかったらリビング周辺を片付けるんだな」
「イエス!サー!」
しかし、その掌返しも、このように活用すれば便利なお掃除ロボットと化すのだ。いやあ、相変わらずフィルに命令するのは心地いい。さて、俺もその間に料理しないと。
「簡単にステーキで、と行きたいところだが、なんかリクエストはあるか、フィル?」
「美味しかったらなんでもいいよ、君は料理の腕だけはいいからね」
飯を作る者にとって、これほど困る回答は無い。幼いころ、俺ももフィルと同じことを言っていたが、今になってようやくお袋の苦労が理解できる。
「………よし、ならパスタで面白くしてみようか」
ちょうど向こうの世界で思いたものがある。肉はふんだんに使うものの、胃もたれはせず、食後は口内もすっきりとした感覚に陥る、冷製パスタ。さあ、作っていこう。
「まずはサーロインをカットしてと……」
国産牛サーロインをスライスしていく。その後、肉の赤身が抜けるまで焼いていく。サーロインの食感は残したいが、果たしてうまくいくだろうか。正直、理想の部位はタンなのだ。
スライスした後に、ボウルにマリネ液を作っていく。今回は牛肉ということで、スライスしたレモンの表面に肉をしばらくつけてから、マリネ液に浸からせる。次は柿だ。牛肉と合うかは知らないが、一口小にカットして、とりあえずボウルへ突っ込む。
浸けている間にパスタに取り掛かる。使うのは家庭の皆さまご愛用、パ・パーさんのスパゲティ。その二人前をゆでるだけ!ゆでた後はオリーブオイルをかけましょう。くっつかなくなりますよ!
そんなこんなで、完成したのがこのパスタ。見た目はなんだか緑が無くてちょっと微妙。だけど味は大丈夫そう、そんな感じ。
「ま、食べてみるか。こらフィル、食べるときは人型になれって言ってるだろ」
「だってあの姿マスコットとしての地位が危ぶまれそうなんだもん」
普段のお前なら確かにマスコット界一位なんて簡単だろうよ。黙っていれば、な。
言っておいてなんだが、実際のところ、フィルの人型の姿は少しだけ気持ち悪い。だがここは人間の住まう空間だ、食事の時くらいそれにのっとってもらわなければ。
なお、食事においては俺が圧倒的に優位なので、こういう時は素直に従ってくれる。いつもこうなら文句はないのになあ。
「んじゃあ、」
「「いただきます!」」
カチャカチャ。くるくる。もぐもぐ。
「なんやこれ……めっちゃうまいやん……。いつも思うけど、なんであんなに雑そうに作ってるのに、ちゃんと味がまとまってるのか分からない」
「んー、今回はまだまだだな。不味かないけれど、こんな作り方だと、スパゲティが要らない子になってるな」
思っていたよりも、牛肉と柿との相性は悪いものではない。柿の甘さが、レモンに浸した牛肉と上手く絡み合っている。やっぱりこの料理にはタンじゃないと駄目なんだな。あっちならコリコリとした食感があって、レモンとも合うのに。
ふと思えば、フィルがデブ猫なのは、俺がどうにか改善できる事項なのではないだろうか。旅に飛んでる間はどうにもならないが、俺が家にいる間は食事担当は基本俺だ。カロリーさえどうにかなれば、じきに痩せるのではないだろうか……。
「とりあえず難しい顔してないで、美味いものは美味いんだから、良い顔で食べようや」
「む、たまには良い事言うじゃん。美味けりゃいいってのは心理かな。ところで、今度からお前の摂取制限をかけようと思うんだ、覚悟決めておいてくれ」
「ふぁっ⁉」
そのまま黙って箸を進める。この場合フォークとスプーンだが。美味しいものを食す時は、初動以外は無言になってしまうのが俺たちだ。今は摂取制限についてごちゃごちゃ言っているが、ご家庭ではテレビがあるから賑やかだろう。しかし、テレビを消して、黙々と食べるのも、家族で和気あいあいと話すのも、たまにはいいぞ。
「ごちそうさまでした」
完食した皿を見ると、油が浮いていた。なるほど、一度油を軽く落としてみると面白いかもしれない、と思いつく。しかし皿を運んだ時には既に忘れていた。
「ほい、ごくろうさん」
「そこに置いておいて、こっちでやるから」
なんと台所にはフィルが立っているではありませんか。というものの、うちの家では家事は分担することになっている。フィル分の食費を払っているのは当然俺なので、家事をするメインはフィルだ。加えて本人が綺麗好きなので、とても助かっている。
ちなみに俺の家事担当は料理オンリーなので、料理さえしてしまえば、後は楽ができる。
「さて、そろそろ聞かせてもらおうかソウイチ。今回の旅の顛末をさ」
食器を洗いながら声だけこちらに向けてくる。
こんな風に、俺が旅から帰ってきたら、事の顛末を話すのが俺たちのルーティンになっている。楽しい旅なら互いに盛り上がり、朝まで話すことだってある。逆につらい旅だったとしても、フィルは憎たらしいジョークで、簡単に笑い話に持っていく。
俺はこいつのことを、うざったらしいと嫌ってはいるが、フィルとは同じ釜の飯を食う友だ。愚痴の吐き場所になってくれる相手と言うのは、実際の所あまりいない。そう言う意味では、このデブ猫も案外大事な存在なのかもしれない。
「ああ、聞いてくれ、今回飛んだ世界は樹海でさ。それもあれだぜ?普通の木みたいに登れるレベルじゃねえの。ゲームとかに出てくる世界樹が、さも当然のように生い茂ってんだぜ?」
「うわあ、なにそれ。虫とか蛇とかすごそう。よくヘタレのソウイチが平気だったね」
「ヘタレとか決めつけんなよ……。まあ、小説のネタにはなりそうだったよ。あんだけ大きい樹海がネタにならないなんて考えられねえし」
フィルとの談話は、空が薄明るくなるまで続いた。最後にはお互い魂を抜かれたように眠りに落ち、その日の昼まですやすやと寝ていた。