None but spin!
外にいるわけではないのに、耳と手指が針で刺されたように痛い。
試しに息をふぅーっと吐いてみた。それは驚くほど白い靄になって、消えていった。
自分の教室がある棟から、真冬の寒い渡り廊下を通って、理科室のある棟へ向かう。歩いていると、抱えた教科書の束がやけに重くなって、時々持ちかえないと腕が疲れてしまう。
教科書と筆記用具ともうひとつ、鷲尾は学ランの右ポケットに手を入れ、それに触れた。棒状で無骨なそれの感触が、指に伝わってくる。
鷲尾は出席番号順でかなり後ろだから、理科室での席は黒板から一番遠い。おまけに教える先生はおじいちゃんで遠くがあまり見えないから、みんなひっそり漫画を読んだり携帯をいじったりしている。鷲尾にとっても、週に四回ほどある理科の授業は好都合ほかならなかった。
ペンを回す、絶好のチャンスタイムである。
————
鮮やかだった。それを初めて見たとき、これまでに無いくらいの衝撃を受けた。最強ペン回しと題されたその動画を、鷲尾は友達の家のパソコンで目にした。
基礎体力は平均で球技オンチ、テストの順位もずっと真ん中あたりで、毎日をただ退屈に、平凡に過ごしていたからか、なおさら度肝を抜かれた。
なんだあれは。ペン回しって、授業中にちょちょいっと回すアレじゃないのか。動画の中の彼らは凡人の常識をはるかに越え、アップテンポなBGMに合わせてクルクルクルクルと颯爽に回していた。
「ペン回しの資料室ってサイトでちょっと技覚えたんだよ。インフィニティっていうんだぜ、これ」
小太りで天然パーマの丹沢は、その動画を見せ終わると、ペン立てから小さなボールペンを取り出し、自慢げにその端っこを持ってブンブン回し始めた。やはり見たことの無い軌道で、鷲尾は呆気にとられた。
あの日からペン回しを練習し始めて数ヶ月、鷲尾はその間に文具屋を巡りに巡って改造ペンを作り、出来る技の数も前とは比べ物にならないほど多くなった。シャフィーボはまだ出来ないが、リシャーボくらいなら簡単に出来る。
休み時間は後ろの席にいる丹沢の方を向き、練習をするのが日課になっていた。
今はそのシャフィーボの練習をしている。中指までは流れるように出来るのに、薬指から途端に難易度が跳ね上がるこの技に苦戦し、思わず独り言を口にした。
「うーん、薬指でバクアラするの難しいなあ」
「慣れればできるよ。ほら」
パワーパスの練習を中断し、丹沢はそう言ってすんなりと薬指でのバックアラウンドを成功させた。
「え〜なんでそんな上手くいくんだ?」
「だから慣れだって」
最初よりも語気を強めてそう言うと、彼はそれっきり自分の技の練習に再び没頭し始めた。
丹沢はいつも鷲尾の一歩先を行っていた。鷲尾がある技をやっと覚えたと思えば、彼は次のステージの技をすでに習得していて、次々と自分の知らない技を覚えられる彼に、鷲尾はいつも驚かされていた。
あ、今成功した。長い改造ペンが薬指をするりと回っていった。出来ないことが出来たときの心地よい感覚が背筋を走る。試しにもう一度してみたら、今度は失敗した。失敗はしたものの、以前よりも良い軌道を描いていたことが指の感覚でわかる。掴み損ねを無くせば、シャフィーボ成功まで一歩近づけるはずだ。
丹沢に技を見せつけようとしたとき、彼の声にそれを遮られた。
「おい鷲尾! パワーパス出来たぞ!」
彼はそう言って、出来たばかりの技を披露した。まるでウェーブのように折りたたまれていく指の上を、ペンが綺麗な円軌道を描いてするりするりと回ってゆく。
「す、すげえ……」
やはり丹沢にはかなわない。自分の薬指バックアラウンドよりも、彼のパワーパスの方が明らかに回転数も多ければ、難易度も高い。
少し負けず嫌いな鷲尾は、それでも自分の成果を披露したかったが、グッとこらえた。ここで張り合ったところで勝てやしない。今は負けてても、いつか勝てる。
「お前も早く覚えろよ」
お高くとまってそう発言する丹沢に闘志を燃やしたところで、チャイムが鳴った。
あれから更に一ヶ月経ち、中間テスト期間に入った。ペン回しでは、丹沢が常に一歩先を行き、鷲尾がその後を追う立場は相変わらずである。
「俺さ〜、そろそろフリースタイル始めてもいいかなって思うんだよ」
休み時間、いつものようにペン回しの練習をしながら、丹沢がそう言った。
「いやお前、フリースタイルなんて無理だよ。まだ技の練習をしたほうがいいんじゃないの」
フリースタイルと聞いて、鷲尾は最強ペン回しの彼らを思い浮かべた。単体技の段階にいる鷲尾たちにとって、フリースタイルは一つの大きくて、越えられない壁のように思えていた。さすがの丹沢にも今の時点でそれをパスできるとは考えられなかったし、鷲尾自身が彼に追いつくまでは、フリースタイルには手をつけてほしくなかった。
休み時間が終わって、数学の授業が始まった。エラの張った強面に黒縁眼鏡をかけた、いかにも気難しそうな中年の先生が入ってきて、ガヤガヤしていた教室の雰囲気は一変し、張り詰めた空気が辺りを漂う。
鷲尾がここまで彼に距離をつけられているのには、理由がある。
練習量において丹沢と鷲尾の間には大きな差があった。真面目で臆病な鷲尾は授業中はペン回しをせず、ノートに板書を写しているが、丹沢は先生の目など気にせずに、机に真っ白なノートだけ広げて延々とペン回しをしていた。彼が出来ない出来ないと休み時間に苦戦していた技でも、次の授業中には成功させるようになることなんてザラにあって、そりゃあ差がつくよなあと、鷲尾は心中でぼやいた。
「鷲尾、このときの合同条件を答えなさい」
突然当てられて、ハッと我に返った。
しまった。考え事をしていて、目の前の授業を聞き逃していた。黒板はすでに問題から解答法までずらりと文が並べられているのに対して、鷲尾のノートには問題の図形だけしか書き込まれていなかった。
え、えっと……といった調子で口ごもりながら、立った状態でノートの前のページをめくっていく。合同条件は確か三つあった。どこかに写してあるはずなのに、見つからない。皆の目線が自分に集中しているのを、肌に感じる
「もういい。木嶋、代わりに答えろ」
凄みのある声に気圧され、目を伏せて力なく座った。耳の先と顔が、火でもつけられたように熱かった。
席替えで一番前の窓際の角に移動した丹沢の方を一瞥した。彼は鷲尾のことなどまるで気がつかないかのように、ペン回しに集中していた。
お前も俺みたいに授業で当てられて、恥をかけばいいのに。怒られてペンを没収されればいいのに。
苛立ちの矛先は、丹沢に向いていた。いつも真面目にしている俺が痛い目を見て、あいつがなんでのほほんとできてるんだとさえ思った。
次の瞬間、怒号がクラスじゅうに轟いた。
「おい丹沢ッ!」
さっき恥をかいたばっかりの鷲尾は、それに人一倍反応した。驚愕の視線を先生に向けると、彼は丹沢の席の前で仁王立ちをしていた。鬼のような面構えが、非常に恐ろしい。
「お前はそうやっていつもいつも無駄なことに集中して……なんで勉強に集中できないんだっ!」
ざまあみやがれ。心に思っていたことが実現して、すこし良い気分になった。しかし、そのふっくらした猫背気味の背中は、目を三角にして怒る教師に対して物怖じともしていないようで、再び鷲尾はなんだあいつと彼に敵意を抱いた。
どこかでひそひそ声が聞こえた。
——あそこまでペン回しに熱中するなんて馬鹿だよね。
その言葉に、心臓がひときわ大きな一拍を叩いた。眉をひそめ、ゆっくりと声のした斜め後ろの方を睨みつける。クラスの人気者で、先生にバレないようにスカートを短くしたり、化粧をしたりしているようなケバくさい女子二人組が、慌てて口を閉じた。
馬鹿だよね。馬鹿? 馬鹿なのか。
「もうこのペンは没収する! テスト前くらい勉強しなさい!」
我に返って丹沢の方を再び見ると、こめかみに皺を寄せ、怒りで赤くなった顔の教師が、丹沢の改造ペンを取り上げているところだった。
「丹沢以外も、テスト前くらいは寝たり違うことをしたりしないように。勉強に集中しないと将来困ることになるぞ」
教卓に戻った数学教師が、クラス全員に凄みを見せる。チャイムが鳴り響いた。普段は漫画を読んでいる奴も、寝ている奴も、黙って彼の忠告を聞いていた。
その授業の後の休み時間は、いつもよりざわめいていた。先生を怒らせた理由が聞きたくて、わざわざ他クラスからやってくる連中が大勢いた。
問題の丹沢は、鷲尾の席にやってきて「いや〜改造ペンパクられちゃったよ〜」と頭を掻きながら言った。反省はしていないようだ。
鷲尾の書く用のペンで、仕方なく回し始める丹沢をよそに、鷲尾はこっそり周りを見回した。廊下側はこちらに好奇の視線を投げかける連中が多かったから、あまり見ないようにした。
日焼けで肌が浅黒い、顔立ちが端正な男子グループ四、五人が窓に寄りかかって雑談をしていた。何の話題かはわからないが、その表情はとても楽しそうで、青春の輝きそのものを見ているような錯覚に陥ってしまう。彼らはイケメンで、スポーツ万能で、女子にモテて、男子や教師からも支持があって、まさにクラスの人気者。対人関係や運動神経の壁をなに不自由なくパスしていく。
あ、顔立ちの良い女子グループが彼らに絡みに行った。
煌びやかな輝きを放つ彼らと、さっきから周りを気にもとめずペン回しを続ける丹沢とを見比べた。
あそこまでペン回しに熱中するなんて馬鹿だよね。
結局、ペン回しを武器にしたって、彼らには勝てない。ペン回しをしたところで結局、彼らのように人気者にはなれないし、好奇の目で見られるし、馬鹿にされるんだ。
そう思うと、途端にやる気がなくなって、陰鬱な気持ちになった。あのひそひそ声が、鷲尾の頭の中で反芻される。
「どうした鷲尾、冴えない顔してんな」
全てがアホらしく思えた。丹沢の能天気な表情も、机の改造ペンも。
中間テストが終わり、肌寒くなり、夏服から冬服に移行した。ペン回しをあまりしなくなった割には、成績にこれといった変動は無かった。いつも通り、可もなく不可もなし。
周りの目を気にしてか、丹沢とは正直あまり関わりたくなかったが、彼と絶交すれば鷲尾は完全に一人ぼっちになってしまうから、なんやかんや彼とは今も変わらない関係である。
中間テストが終わるまで、丹沢の改造ペンは返ってこなかった。さすがに丹沢も懲りたのか、授業中には回さなくなっていた。しかし、休み時間は変わらず回し続けていた。
お前って最近改造ペン持ってこないよな〜と言ってきたことがある。
あんなに恥ずかしい出来事があったはずなのに、忘れたのかよ。と、その時鷲尾は心の中で毒づいた。
しかし、転機は間もなく訪れた。ある日のことである。その日の朝から丹沢は妙に意気揚々としており、一限目の休み時間になると、すぐに鷲尾の席にやってきて、興奮しながらこう言った。
「おい鷲尾、おれついにフリースタイル出来るようになったぞ! 見ろよ!」
「へえ」
鷲尾はあまり驚かなかった。ペン回しに冷めてから、丹沢の成長にも興味がなくなっていたからだ。丹沢の細い目は、不敵な笑みでさらに細くなり、上に凸の放物線を描いていた。
彼のフリースタイルは、とてもじゃないが下手くそであった。最強ペン回しの彼らに比べれば、スピード感もなければ、途中でつっかかったりしている。最後にバックライザーを決めたときのドヤ顔が鼻につく。
多分、ペン回しに熱中していた頃は、ついにアイツは壁を越えてしまったのか……と途方に暮れていたことだろう。しかし、むしろ今はやめてほしいくらいだった。丹沢がペンを回すたびに、クラスの奴らからの視線が鷲尾には苦痛だった。
はあ〜もうやめてくれと、こめかみを指で押さえたとき。
別の机や廊下などで立ち話をしていた連中が、丹沢のペン回しに目をつけた。今まで見向きもしていなかった彼らは、丹沢の回しを見、手のひらを返してスゲエスゲエ! え、やばくねこれ!? といった調子で熱狂し、二人の席に寄ってきた。何人か女の子もいた。いつの間にか、鷲尾の席の周りには、小さな人だかりが形成されていた。その小さな人だかりの中心にいる丹沢は、皆の歓声を受けながらバックライザーを連打しまくった。ドヤ顔レベルは跳ね上がっていた。
それから数日、丹沢はクラスの奴らから話しかけられる回数が割と増えた。廊下を二人で歩いていると、「オイペン回し名人ペン回し見せろや」と背中を叩かれる丹沢の姿をよく見るようになった。
虚をつかれた気分だった。ペン回しなんて恥だと切り捨てた自分はいつまでも底辺街道を歩き、片やペン回しを続けた丹沢は、フリースタイルの壁も越えれば、自身の人気度まで上げることすらできていた。彼のペン回しを見た周りは、まるでペン回しを始めて見たときの自分のような驚き方をし、彼を褒め称える。いいなあ。単体技では変な目で見られても、フリースタイルができれば、そのインパクトであんな人気が獲得できるんだ。
興醒めしたはずなのに、鷲尾はあっさりペン回しを復活させた。
冬休みが過ぎた。その間に、鷲尾はフリースタイルを習得するとともに、二つ発見したことがあった。一つは大技である。丹沢のフリースタイルを見る観衆の反応を思い返して、丹沢が〆に使っていたバックライザーのところで最も大きい歓声が上がっていた。手からペンが離れ、空中を飛ぶ技や、腕をフルに動かす技などの方がインパクトが強く、普通のペン回しをするより見る側の反応も良くなるので、鷲尾はフリースタイルの練習とともに、多回転やスプレッドなどの大技の練習も始めたのだった。
二つ目は、理科室での授業だ。理科の担当の先生は腰の曲がったおじいちゃんで、遠くが見えない割に、いつものほほ〜んとしているから、生徒の不真面目を見ようとすることもなければ、注意することもない。生徒からすればそれは恰好のサボりタイムで、おおかた真面目な奴以外は基本的に彼の目を盗んで、密かにサボっていた。是が非でも上達したかった鷲尾は、そこに目をつけた。
今まであのおじいちゃん先生のあまり分かりやすくはない授業を我慢して聞き、ノートにペンを走らせていた。だが、あの授業なら丹沢のようなヘマを犯さずに上達できる。
今日の理科の授業は、給食の後の五限目にある。鷲尾は今までにしたことのないサボり行為に思いを馳せた。どんなスリルがあるんだろうかと想像すると心が躍って、午前中はずっと落ち着かなかった。
————
廊下に展示された生き物のホルマリン漬けの匂いが微かに入ってきている。等間隔に並べられた長机の横に薄汚い水道があって、蛇口にホースが取り付けられていた。
出席番号順に一台の長机に四人ずつ、同級生が座っていく。鷲尾は一番後ろの席。入ったばかりの教室は、わかってはいるのだけれど廊下とあまり変わらない寒さで、ちょっとは暖かいことを期待していた鷲尾は、席に座って身震いを一つした。木製のボロボロな椅子は、鷲尾の尻を容赦なく冷やしてゆく。
チャイムが鳴って、数秒遅れで先生が入ってきた。ヨボヨボとしていて、後頭部に若干残っただけの白髪を掻きながら、おちょぼな口で咳払いをゴホンゴホンとした。肩からかけられた紐付きの丸眼鏡が、いかにも年齢を感じさせる。
先生がやってきたことに全く気がついていないかのように、教室はガヤガヤと騒がしかった。おじいちゃんは気にも留めない。
「きりーつ、きおつけー、れーい」
日直の気の抜けた挨拶で、理科の授業が始まった。
——みんな教科書の百二十七ページを開けてー。
しわがれた声でそう言われても、相変わらずガヤガヤとしているこの場所では、雑音で鷲尾の耳にまで届かない。今回も何とか聞き入れて、鷲尾は指示通りに教科書の百二十七ページを開いた。
一番後ろだから、理科の時間のクラスの奴らの動向は一番理解しているつもりだった。教科書を開けろと言われれば、これはまだほとんどが素直に指示に従う。ここですでに聞いていないのは、やんちゃな不良とクラスカーストの上位に座する女子くらいだ。
しかし、ノートに書き留めておけと言うと、大半が無視していた。みんな目の前の仲間とのおしゃべりに夢中で、板書されては消えてゆく重要ポイントの数々を彼らが重要だと気づくのは、決まってテスト前だけだ。一部の真面目君たちだけが、黒板の重要ポイントをノートに押さえていた。
普段なら鷲尾もそうするつもりだった。しかし、今日はノートは開かない。
生徒たちの熱気ですっかりかじかむのを忘れた手で、そっとポケットから改造ペンを取り出した。椅子を少し引いて机と自分の間を広げ、あのおじいちゃんに見られないようにそこに腕をずらす。
試しにノーマルをしてみた。机や自分の体に当たることもなく、ペンは綺麗に一回転した。おじいちゃんは気づいていないようだった。たぶん気づいても、なにも言わないだろう。
ノーマルを皮切りに、鷲尾は改造ペンを手の中で転がしていく。なんて心地よさだろう。なんで楽しさだろう。ずっと離れた黒板のところにいる理科教師の顔を見る。彼は目を凝らして教科書のページをめくっていた。
「すげえよなあ、ペン回し」
突如、右側から声がした。周りには聞こえない程度の、低い声。やってはいけないことをしているだけに、体がびくりと動いて、背筋に寒気が走った。声の主はクラスの人気者、若宮であった。ニヤけた顔すらシュッとしていて、鷲尾自身より何歳か年上に見えた。
彼もまた、教科書は開けどノートは持ってきてすらいなかった。手には最近流行し始めた漫画が握られていた。
「ああ……えっと……」
彼とは去年から連続で同じクラスで、こうして理科の授業の時は隣どうしになっているはずなのだが、根本的に住む世界が違うために、あまり話したことがない。
社交辞令的なやり取りしか交わしていないはずの彼から話しかけられることなど前例がなくて、返事がしどろもどろになってしまう。
しかし、目線を泳がせて困惑している外見とは反対に、心の中では喜びに胸が熱くなっていた。
すげえよなあ。すごい。俺はすごいんだ。
「もっかい見せて!」と頼まれ、鷲尾は黒板側を盗み見し、体を少しだけ若宮の方に向け、ペン回しを見せた。ヨボヨボの教師は未だに感づいていないようだ。
少し力を抜いて、落とさないことを基準に考えて回した。本気でやってる時よりもずっと稚拙になってしまったが、若宮はそれに目を奪われ、おお〜と小さく声を上げていた。
「すげえな、俺には出来ねえもん、どうやってんのかわかんねー」
心臓の鼓動が早まっている。クラスの人気者に褒められた。俺も人気者になれる。自分のペン回しに皆が圧倒される光景が頭に浮かび、口角が思わず上がる。
「それってさ、めっちゃ難しい技とかあんの?」
いきなり視線を自分に移され、興奮気味だった鷲尾はそれにたじろいだ。“外国人”の会話の手法は、やはり自分とは違うらしい。
「あー……えっと、冬休み前くらいから練習し始めたのならあるんだ、縦スプレッドっていうんだけど……」
「タテスプレッド……? やってみて」
今のところ、この技をコントして成功させられる確率は半々くらいであった。出来るだろうか、いや、出来る。出来たらもっと褒められるぞ。
ノーマル、一回、二回、三回、キャッチ——!
「すっげえぇ……めっちゃ飛んでる」
彼は鷲尾の大技に目を点にし、舌を巻いた。その驚きっぷりがさらに鷲尾の自己顕示欲をくすぐってゆく。
調子に乗って、鷲尾はもう一度縦スプレッドを始めた。
ノーマル、一回、二回、……カチャン! しまった!
舞い上がるあまりに机との距離感を忘れてしまい、改造ペンは黒い長机にぶち当たって床に落ちてゆく。
ガチャンッ! 先ほどよりずっと大きい音が鳴り響いた。素早くそれを拾い上げ、何事もなかったかのように姿勢を戻した。
思わず黒板の方に視線を投げかけた。
あれ……なんで……!?
そこにいるはずの人は、いなかった。すでに定年は越しているであろう腰の曲がった先生は、いなかった。
あれ……あれ……と視線を右往左往させた。先生不在の中、周りの生徒は相変わらず喋り倒している。
いない、いない……。
「鷲尾くん」
左後ろから声が聞こえた。さっき若宮に話しかけられた時のように、背筋に悪寒が走る。しかし、悪寒のレベルは段違いだった。
壊れかけのロボットのように、ぎこちなく振り返った。白衣姿の翁が、その皺だらけの口元を緩め、穏やかに笑っていた。
ひとつ、鷲尾には見落としがあった。あの理科教師は、ガヤガヤ騒がしい生徒たちの中にいる、真面目な数人だけを見て授業をしていた。それだけには、視線を投げかけていた。以前まで真面目に授業を受けていた鷲尾も例外なく、彼の視界に入っていたのだ。
クラスメイトの一人が不真面目を見咎められたというのに、騒がしい彼らはそれに気づかずおしゃべりを続けている。ペンを没収し、黒板の方に戻ってゆく教師をぼんやり眺めた。視線を移し、ちらりと若宮を一瞥すると、彼は我関せずといった顔で、教師来襲の際には素早く隠していた漫画を再び持ち出し、それに没頭していた。
——丹沢といい、お前といい、なんでこんなくだらないことに熱中するんだ。
放課後、鷲尾は職員室に呼び出された。中は暖房が効いており、いつもここに来るたびに、教室は寒いのになんでここは暖かくしてあるんだと、不満に思っている。
職員室の隅にあるコピー機の稼働音や、いろんなところから聞こえるタイピングの音で、目の前の齢三十の担任教師の悪罵をかき消せないだろうか。
「おい! 聞いてんのかッ!」
突如たる怒号に、鷲尾は怯えた視線を彼に送る。学生時代に柔道をしていたらしい鷲尾の担任は、確かに柔道家らしいガタイで、彼の凄みには、不良すらもひれ伏すような力があった。
ああ、もうやめてほしい。そう思ったところで、鷲尾に救いの手が差し伸べられた。
「まあまあ、それくらいにせんか。そうやって全否定したところで、何も変わらんじゃろう?」
聞き覚えのあるしわがれた声がこちらに近づいてきた。鷲尾たちの間に割って入ったのは、あのおじいちゃん先生だった。
「近衛先生……しかしこれは彼のために……」
「彼のために? 生徒の個性を真っ向から否定するキミのやり方が彼のためになるじゃと? 笑止! これではなんのためにキミに頼んだのかわからんわい」
「…………」
ヨボヨボの爺が、筋肉隆々の大男をぴしゃりと黙らせた。彼のただならぬ威厳に、鷲尾は心の中で歓声を上げた。
「ところで鷲尾くん、ワシにもペン回しとやらを見せてはくれぬか」
「は、はあ……」
鷲尾は困った。回すペンがなければ、見せられない。
「キミにペンを渡しておいただろう? それを一度彼に返しなさい」
鷲尾の困惑をくみ取り、近衛爺が鷲尾の担任にそう命じた。担任は何かを言おうとしたが、そのまま引き出しから改造ペンを取り出し、鷲尾に渡した。
数時間ぶりに返ってきたそれを手に取った。先端のチップが微妙に取れかかっていたが、壊れたわけではなく、一安心した。
若宮に見せたようなフリースタイルと、同じ感じの回しを見せた。やはりと言うべきか、それを見たおじいちゃん先生は純粋にほぉ〜〜すごいの〜と感嘆していた。担任はそれに反して、いかにも納得していなさそうにこめかみに皺を作っていた。
「そのペンは、どこかに売ってあるものなのかね?」
ふと、近衛先生が鷲尾の改造ペンを指差し、質問した。
「いや、普通に売ってあるペンを改造しました」
「へぇ〜それって、スーパーとかの?」
「そうですね、百均とか、スーパーとか。材料の中に廃盤のペンがあって、探すのに苦労しました」
「ふむ、どうやって見つけたんだい?」
「結構古い文具店とかで稀に売ってあるんで、いろんなとこまわって、隣の隣町くらいまで自転車で行って、やっと見つけて買いました」
「すごい、隣の隣町って車ならまだしも自転車じゃだいぶ遠かったじゃろう?」
「そう……ですね、半日くらいかかりました。でも、そこに行くまでにいろんな珍しいペンを見つけて、へえこんなのあるんだって驚きながらだったんで、割と楽しかったです」
怒られてる立場だから、あんまりニヤけちゃダメだよなあと思いながらも、鷲尾は口角が上がるのを止められなかった。申し訳程度に、頭を掻いた。
「いい目をしてるのう。好きなことに熱中する人の目は素晴らしい。君もそう思わないかね」
突然話を振られて、若い担任教師は豆鉄砲を撃たれた鳩のような、きょとんとした表情を一瞬浮かべた。が、彼はすぐさま表情を元に戻し、しかし……と反論をした。
「せめてこんなのじゃなくて、例えばスポーツとか、楽器とか、いろんな人に認められるようなもっと凄いことに打ち込んだ方が私はいいと思いますが」
その言葉に、鷲尾は苛立ちを禁じ得なかった。俺をそんなに否定しなきゃ気が済まないのか。
鷲尾の気持ちを代弁するように、ヨボヨボだが気力に満ちた老人が苦言を呈した。
「わかってないのう……キミは。大多数に認められることが、その趣味自体の価値に繋がるわけではなかろうに……」
「しかし、認めてくれる人が少ない趣味は、協調性に欠けます」
「趣味まで協調させようとしているのかね……そんなのは協調性とは言わん、没個性と言うのじゃぞ?」
担任教師はその言葉を受け、再び押し黙った。鷲尾は彼が言い負かされた光景に、心の中でガッツポーズをした。
「ところで鷲尾くん、少し昔話をしても良いかな?」
確認するような老爺の問いに、鷲尾は訝る気持ちもあれど、了解した。
彼は骨のようなその手で、懐から折り曲がった千円札を取り出し、広げて鷲尾に見せた。それには、誰もがよく知る医学者の顔はなくて、代わりに日本初の総理大臣の顔が描かれていた。
「むかしむかし、あるところに若い手品師の端くれがいた。彼は手品の本を見て、手品を覚えては、友達や家族に見せびらかしていた」
千円札を、細くてシミだらけの指が綺麗につまみ折りしてゆく。
「手品は割と評判が良くて、彼はみんなに褒められたんじゃな。褒められて、褒められるたびに新しい手品を仕入れて、見せびらかして、また褒められる。彼はどんどん入り込んでいったのじゃ」
二つ折りにされた千円札は再び広げられた。彼の指はそれを折り目から裂き始めた。
若い担任教師が目を剥いたのが、鷲尾にはわかった。鷲尾自身も、その行動に対して狼狽を隠せなかった。
その千円札、珍しいだろうに。
「ある時、全国的に有名な手品師が審査員をするコンテストが開かれることを彼は耳にしてな、今まで身の回りで褒められて自信のついた彼は、それに挑戦することにしたのじゃ。しかし」
しかし、という語尾と共に、ついに千円札は真っ二つにされてしまった。哀れな紙幣は、直後に裂け目を合わせられ、指でその部分を押さえられた。
「彼の手品は箸にも棒にもかからなかった。当然じゃよ。他の人がコインを皮膚の中に入れたり、上半身と下半身を分離させたりしておる中、彼はよくありがちなトランプマジックだったからのう。
でも彼はどうにものっぴきならなくて、審査員の楽屋に乗り込んで直訴したんじゃよ。なんで俺の手品がダメなんだってな」
つまんだ指が、旧札の裂傷部分を擦りながら、まるでファスナーを引くように、上から下に降りてゆく。
不思議なことに、擦られた部分から、何事もなかったかのように傷がなくなっていった。完全治癒され、元どおりになった紙幣を、老人教師は鷲尾と担任に順に近づけて見せた。傷のあった部分が、折り目すらなくなっていた。
担任教師は苦虫を噛み潰したような表情をしていた。彼の視点からもそのトリックは不明だったらしい。
「手品のプロは彼を見て、すぐに誰か判別できた。なぜなら彼だけ群を抜いて下手くそだったからのう。
そしてこう言ったんだ。
『君はきっと、身内にばかり手品を見せて、手品をよく知る人に見せていないだろう。君が入賞できないのは当たり前だ。身内なんて小さいくくりで満足してる井の中の蛙に賞をあげられるほど、手品の世界は浅はかじゃないんだ。出直してきなさい』ってね」
そう言って、近衛先生は元に戻ったはずの千円札を片手でくしゃくしゃに潰し、握りしめた。
近衛先生伝いに聞いたプロマジシャンの言葉が、鷲尾の頭の中をぐるぐる回り始めた。丹沢が受けたそれよりも、ずっと大きな反響欲しさに大技を練習し始めたことが、思い返された。
「彼は図星を突かれた。井の中の蛙。彼は身内にたいそう褒められて、つけあがっていたんじゃな。気づかぬ間に、手品そのものではなく、手品をして褒められる自分が好きになっていたんじゃ」
握りしめた片手に、もう片方の手の指が突っ込まれ、何かが引き出された。
それは四角かった。よく見ると、小さく折りたたまれていることがわかった。
「趣味を始めて少し経つと、そういう風に道を踏み間違えやすい。手品だけではなく、これはペン回しにも共通しないわけじゃなかろう」
鷲尾は目から鱗が落ちる思いだった。ペン回しを始めた時は、丹沢の技に感動し、自分も技を覚えて、切磋琢磨していたはずなのに、いつの間にか周りの評価が気になって、ペン回しの技術向上ではなく、ペン回しをして自分の株を上げることに必死になっていた。
四角く折りたたまれた何かが、広げられる。徐々にその正体が明らかになってゆく。鷲尾もよく知る医学者の顔が現れた。旧札は何処へ、近衛先生の手には明らかに新札が掲げられている。
「鷲尾くん、是非その趣味を、初心を忘れないでくれたまえ。周りに認められてるかどうかなんぞ、しょーもないことじゃからのう……。
あ、あと忘れておったが、授業は聞いてくれ。わかりにくくてすまぬが、聞いてくれるとワシも嬉しいからのう」
鷲尾はそれに、感謝の気持ちを込めて「はい!」と元気に答えた。担任教師はたいそう悔しそうに唇を噛み、だがそれでも負けを認めたかのように、口を挟むことはなかった。
ヨッホッホ、と老人の笑い声を挙げながら、近衛先生は職員室を後にした。
担任の大男が、ふぅ、とひとつため息をついた。
「話も終わったところで、このペンは一週間没収な」
「えっええっ、今のは返す流れだったじゃないですか」
「学校には不要なものだからな。これ、よく見たら書けねえし」
改造ペンのキャップを開け閉めしながら、彼はしたり顔でそう言った。
鷲尾は今日一番の落胆を見せた。