アドリアの街
結果からいうと、身分証がなくてもめるという門番イベントはなくて、ここはやっぱりアドリアの街だった。
水晶玉みたいな魔道具に手で触れて、犯罪歴がないか確認して、街に入るための税金の銀貨一枚を払っただけで、あっさりと通される。
銀貨も問題なく使えたし、しばらくお金に困る事はなさそうだ。
ゲーム内では、金貨一枚で銀貨100枚、銀貨一枚で銅貨100枚だったから、多分、銅貨が10円、銀貨が千円、金貨が10万円くらいの価値じゃないかと予想している。
アドリアの街はゲームでは最初の街だけれど、ゲーム内のプレイヤーの半数は拠点にしていたほどの大きな街で、あらゆる施設が揃っている。
俺も拠点にしていたので、街のどこに何があるのかは大体把握していた。
記憶と照らし合わせるように、夕刻にはまだ少し早い街の中を歩いて回る。
アドリアは広いので、領主の城がある北と、南に倉庫があるはずだ。
俺が入ったのは東門だったので、そこからだと北の倉庫の方が近かった。
画面で見ていたのと、実際に歩くとなると感覚が随分違う。
綺麗に舗装された石畳の道は、馬車がすれ違えるほどに広く、綺麗に整えられている。
古い景観を大事にするヨーロッパの都市のどこかと言われても、信じられそうに清潔で綺麗な街並みだ。
建物は高くても3階建てくらいで、窓辺に花が植えられたプランターのようなものが飾ってあったり、レンガのような壁に蔦が絡まっていたりして、道にはごみもなく綺麗に整えられていた。
このあたりはある程度の富裕層の住む区域なのかもしれない。
「ファンタジーな街並み、ぶち壊し……」
少し迷って、ようやく倉庫にたどり着くと、そこには電話ボックスのような物が3つほど並んでいた。
近づいて入ってみると、金属製の箱があり、上部に暗証番号を入力するためのボタンがある。
ゲームでは、ハッキング被害軽減のために、倉庫には暗証番号を入力するようになっていた。
いつもの番号を入力すると、目の前に倉庫とアイテムボックスの画面が並ぶ。
倉庫の中身を確認して、今後必要になりそうなものをアイテムボックスに移しておくことにした。
『神々の楽園』では、デスペナルティで所持金が半額に減ることもあって、みんな倉庫にこまめに所持金を預けていた。
戦闘中にもメールが送れる機能を使って、死にそうになった時は、サブキャラにメールで所持金を全額送って被害を減らすという裏技もあった。
しばらく街から出る予定もないし、アイテムボックスに入れておけば盗難の心配もないので、倉庫の金貨を少し多めに引き出しておく。
後は、イベントでもらった騎乗アイテムの馬車も出しておいた。
これはハロウィンイベントでもらった、白馬のついたかぼちゃの馬車だ。
目立ちそうだから、できるだけ乗りたくないと思うけれど、白虎に乗って移動するよりはマシかと思う。
アイテムボックスに騎乗用の白虎も入っていたけれど、この地の人に見られていいものか、わからなかったので使えなかった。
こんな事ならば、クエスト報酬をためてもらう馬を手に入れておけばよかった。
馬はあまり性能がよくなくて、白虎よりも速度が遅いので、他を優先してしまってまだ手に入れてなかった。
アイテムボックスの中の余分な素材なども倉庫に移し、荷物をすっきりさせてから倉庫を出た。
この後は、物価を調べるのも兼ねて必要そうなものを買いだして、門番に教えてもらった宿に向かうことにしよう。
ゲーム内で、禿になりにくいシャンプーを手に入れるクエストがあったから、この世界にもシャンプーはあるはずだ。
シャンプーがあるなら、石鹸もあるだろうし、着替えも欲しい。
ネタ衣装なら色々持っているが、それを着て街を歩く勇気はない。
あれはゲームの中で、イベント時だったから着られたのであって、日常で着る衣服ではない。
アイテムボックスの硬貨は、99枚を超えると自動的に上位に変換されてしまうので、銀貨と銅貨を入れておく財布のような物も欲しかった。
物価が現実と変わらず、硬貨の価値が俺の推測通りならば、金貨を持って下町で買い物をするのは不便そうだ。
より効率よく買い物をするためには、どこから行けばいいのか、脳内で街の地図を思い描きながら歩き出す。
北は領主の城と騎士団本部のような公的機関や、身分の高い貴族の屋敷。
東は住宅街、大通りをはさんで西は商業地区、森を一部残したという設定の公園を間に挟んで南に平民街となっているはず。
プレイヤーが個人で出せる露店等は、ゲームだと公園の中と南にあった。
日が暮れる前に買い物を終わらせ、宿に落ち着こうと、まずは西の商業地区を目指して、足早に歩き出した。
清潔で料理の美味しい宿を教えて欲しいとお願いしたら、門番が勧めてくれたのが、『白猫亭』だった。
公園の南、大通り沿いにあるその宿は、3階建ての少し年季の入った建物で、入ってみればそこは掃除の行き届いた食堂になっていた。
まだ夜には少し早い時間帯だけれど、10ほどあるテーブルの半分は埋まっている。
「いらっしゃい。食事と宿泊、どっちだい?」
テーブルに料理を運んでいた元気のいい女将さんに尋ねられ、「宿泊で」と、返事を返す。
30過ぎだろうか、少しふくよかな体型ながらきびきびと働く姿は、見ていて気持ちいいものだ。
自宅でお世話になっていた家政婦さん達を思い出す。
入ってすぐ正面のところにカウンターがあったので、そちらへ向かうと宿帳のようなものを出された。
文字は日本語でいいようなので、他の人の書いたものを見て、少し迷ってから本名ではなくゲームのキャラ名を書いておく。
「夕食と朝食付きで一泊が銀貨4枚だよ。食事抜きなら銀貨3枚でいいけど、うちの旦那の料理は食べないと損するよ」
「じゃあ、食事つきで一泊でお願いします」
自信ありげにお勧めされて、とりあえず一泊してみて、様子を見る事にする。
厨房から漂う匂いはとても美味しそうで、忘れていた空腹を刺激されて腹が鳴りそうになった。
「部屋は2階の突き当たりの右の205号室だよ。食事はすぐ出せるけどどうする?」
「先にもらいます」
銀貨4枚と引き換えに鍵を受け取って、そのまま食事をもらうことにした。
「すぐ持ってくるから、好きな席について待ってな」
厨房に向かう女将さんを見送って、一人でテーブル席を占領するのも悪いので、カウンター席についた。
ここからは厨房の様子が垣間見える。
料理は旦那さんが担当しているようだ。
がっしりした体型で、汗が落ちないようにか、頭にタオルのようなものを巻いていた。
こちらの世界にコックコートはないのか、エプロン姿で料理を作っている。
背後のテーブルでは賑やかに談笑する声が響いている。
お酒が入って声が大きくなっている人もいるけれど、楽しげで雰囲気は悪くない。
「おまたせ。飲み物は酒がいいなら別料金だけどどうする? お茶でいいならここに置くから、好きなだけ飲みな」
たいして待たないうちに、料理の皿が次々に並んだ。
パンとメインの肉料理にサラダ、それにスープもついている。
「お茶でいいです。いただきます」
料理の横にどんっと置かれたピッチャーから、木のコップにお茶を注いで、手を合わせてから食べ始めた。
肉料理は見た目は豚っぽいけれど、何の肉かよくわからない。
お茶で喉を潤してから、肉にナイフを入れてみると、想像していたより柔らかかった。
一口サイズに切り分けた肉を食べてみれば、味付けはシンプルな塩と胡椒ながらとても美味しい。
一口食べたところで、空腹を刺激され、その後は黙々と料理を食べていった。
パンも柔らかく、小さく刻まれた野菜が煮込まれたスープととてもよくあっていた。
サラダはレタスやトマトきゅうりなど見た事のある野菜ばかりだけれど、どれも新鮮で瑞々しい。
この料理だけでもこの宿は当たりだ。
グルメを気取るつもりはないけれど、プロの料理人がいる家で育っただけあって、俺は質のいいものを食べ慣れている。
食事がまずいとストレスがたまるので、美味しいものがあってよかった。
今度、あの門番に会ったら、お礼を言っておこう。
きれいに食べ終えてから、いつもの癖で「ごちそうさま」と手を合わせた。
席を立ち、厨房にも少し大きな声で「ごちそうさまでした」と声をかけてから、カウンター横の階段を上って部屋に行く。
部屋の扉を開けると、中は暗く、廊下からの明かりだけで照明のようなものを探す。
小さなテーブルの上にそれらしき物があった。
適当に触ってみたら、スイッチのようなものがあり、それを動かすと部屋に明かりが灯る。
部屋はベッドと小さなテーブルと椅子があるだけの、簡素な部屋だったけれど、他の場所同様、掃除は行き届いていた。
銀貨4枚で4千円と思えば、随分安い宿泊費だ。
ローブを脱いでアイテムボックスに入れ、さっき買ってきた着替えを取り出した。
風呂に入りたいが、ここにはないようだ。
満腹になったら眠気がやってきて、もはや着替えるのもだるい。
いつもの癖で、部屋の鍵がかかっているのをしっかり確認してから、制服を脱ぎ捨て下着姿でベッドに潜りこんだ。
少し硬くはあるけれど、清潔で寝心地のいいベッドに眠りを誘われ、夢も見ない深い眠りについた。




