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F35J逃亡

 二〇二二年八月。

 上空は快晴。夏の日差しがキャノピーを抜け計器類に反射する。高度計の針は一万フィートを指している。下を覗けば、太陽の光が波穏やかな海に反射して、その照り返される光が鏡のように輝いている。

 現在、日本海上空を北に向け飛行中。北緯四十度、東経百三十七度。事態は緊張下にあった。前方十キロに飛ぶ航空自衛隊所属F35J一機が日本の防空識別圏を越えようとしていた。越えた先はロシア領になる。後方追撃中のF15Jに僚機はなく、一対一で展開していた。

 第303飛行隊所属、F15Jパイロット加々美良明は、レーダーを短距離サーチモードにセットし、前を飛ぶF35Jに照準を定めた。加々美のタックネームはカミング。加々美の加に、美をつなげ、良をグッドとして、合わせてカミング。タックネームとはパイロットたちが呼び合うニックネーム。戦闘中など一瞬の判断が必要なときに、口がこもらず、呼びやすくするための名だ。万が一送信中の無線を敵に傍受されても、タックネームを使うかぎり本名は証されずにすむという利点もある。本名が証されれば、敵にインターネットを通して個人情報がもれるおそれがある。社会地位、家族構成を調べ上げ、脅迫の材料はいくらでも見つかる。

 レーダーに取らえたF35Jをヘルメットバイザーに映し出された照準点を通して、見つめ、追尾している。照準OK、ロックオン。赤外線画像誘導方式の〇四式空対空誘導弾AAM-5の赤外線シーカーはターゲットを捕らえた。ミサイルランチャーから切り離されれば、ロケットモーターに火が入り、追尾撃墜に向かう。

 MFD(多目的情報表示装置)にテキストメッセージが表示されている。

『shoot down zaus02』

 ザウス02を撃墜せよ。前方のF35をミサイル攻撃しろという命令だ。

 カミングの額には汗が浮かんでいた。汗はしたたり落ち、目をかすめた。その汗は薄っすら浮かんだ涙を引き連れ、大きな水滴となって、頬に流れ落ちた。操縦桿を握る右手に力が入らない。F35を凝視する目が自分で悲しい。呼吸のピッチが速い。心が安定しない。恩師のパイロットを攻撃する。カミングは精神的に冷静ではいられなかった。

「カミング」

 前を飛ぶF35からの通信がヘルメットに内蔵されたスピーカーを通してカミングの耳に届いた。静かな落ち着いた声だった。昨日まで話していた聞き覚えのある声。自分をパイロットとして育ててくれた、恩師、金井満 (タックネーム・ゴールド)の声だ。

「攻撃命令がでているだろ。命令に従い攻撃しろ」

 その声にカミングの目から涙が溢れた。

「すぐに、戻ってください。私にあなたを攻撃させないでください」

 涙でかすれた声でカミングはゴールドに通信した。その声は力なく、細い。

 その様子を感じとるようにゴールドの声がカミングに届く。

「どうしたカミング。そんな弱いパイロットに育てた覚えはないぞ。おまえは戦闘機パイロットだ。日本の空を守る精鋭だ。国防ができなくてどうする。命令に従え。それが、国防におけるおまえの仕事だ。おまえはおれが育てたパイロットのなかでも優秀なやつだ。おれを失望させるな」

「ゴールド……」

 カミングは瞼をぎゅっとしめた。しがらみを捨てろ。私情ははさむな。自衛隊の誇り。自分の使命。

「金井さん……!」

 涙を振るい、緩んだ右手に力をこめた。操縦桿を握り直す。親指を兵装発射スイッチに乗せる。バイザーに表示される目標指示ボックスはF35を赤く囲っている。

 カミングは呼吸を整え、腹を据えた。眼球がF35をにらみつける。親指に力を入れた。


 三十分前。

 航空自衛隊中部航空方面隊所属第六航空団小松基地。


 石川県小松市に部隊を置く第351飛行隊は本日のアラート勤務に就いていた。第351飛行隊は、それまで運用していたF4EJの退役に伴い、第301飛行隊が解散したあとを継ぎ、同時に新部隊としてF35Jを配備した新鋭飛行隊だ。新田原基地に配備されていた301飛行隊と百里基地に配備されていた302飛行隊のF4EJはF35Jの配備に合わせて解散となった。解散後新田原基地には飛行隊の配備がなくなることから、小松基地から306飛行隊を新田原基地へと移動した。もともと303飛行隊と306飛行隊はそれぞれF15を運用する部隊なため、対空戦闘用のF15では海上から来る脅威に対抗できないという弱点を指摘されていた。306飛行隊の移動は対海上戦闘にも対応できるF35の小松基地配備を優先することから始まっている。日本海海上を守る小松基地と、太平洋海上を守る百里基地という構図だ。

 本日当直にあたるパイロットは河合茂治 (タックネーム・リバー)、松本拓也 (タックネーム・パイン)、酒井憲久 (タックネーム・ワイン)、平山幸一 (タックネーム・フラット)の四名。それと、スクランブル発令の伝達を行なう飛行管理官、徳永怜司の計五名。

 五分待機組に河合と松本。三十分待機組に酒井と平山のシフトだ。

 五分待機組はその名の通り、スクランブルがかかれば、五分以内に戦闘機を離陸させる先発組。そのためにGスーツ着用のまま待機している。態勢は緊張状態にある。

 三十分待機組は五分待機組がスクランブルで発進したばあいの次発組。三十分待機とはいうが、先発組が発進した瞬間から五分組へシフトされるため、三十分の発進猶予があるわけではない。先発組が発進した直後すぐに別のスクランブルが続く可能性もある。実際の態勢は五分待機組と同じ緊張感にある。

 とはいえ、パイロット待機室はのんびりしたムードに包まれていた。パイロット四人の中では一番年上の酒井は、自分のマグカップになみなみとコーヒーを注ぎ、口ですすっている。他の三人もベンチシートに離れて座り、読むわけでもない雑誌をめくって時間をつぶしている。

「今日も一日、なにごとも無ければいいけどな」

 コーヒーをすする酒井が窓の外を眺めながら話す。空は快晴。いい天気だ。

 松本と平山も酒井の目線に合わせ空を見上げた。二人はなにも変わらない空から目線を酒井に向け、何も語らず微笑んだ。二人は目線を雑誌に戻した。

 河合は空を見なかった。一人一番奥のシートに座り、瞑想するように目を閉じる。時折顔を上げては時計の針を気にしている。

 そんな河合の姿を酒井は見て声をかけた。

「五分待機組で緊張してんのか。時計を気にする時間じゃないぞ。アラート待機に入ってまだ二時間だ。そんなんで一番機務まるのか」

 河合は顔を上げて酒井に目線を合わせ会釈した。

「いいえ別に緊張していません。大丈夫です」

「そうか、ならいいんだ」

 酒井は鼻で笑い、河合からは離れた一番前のソファーに座った。

 河合は三人に聞こえないように深く深呼吸をした。時計の針は八時五十五分を回った。

 パイロット待機室の入口扉が開いた。交代要員が来るのはまだ早すぎる。待機中の四人は顔を上げて扉に目を向けた。

 そこには、Gスーツを着用し、いつでも出撃可能な状態で立つ男がいた。男は顔に黒いフェイスマスクをかぶっている。フェイスマスクから目だけが見える。酒井は男を見て、がっちりした体格とその目から金井満だと思えた。

「どうしたんだゴールド、そんなかっこをして。今日はアラートシフトに入っていないだろう。まだ、昨日の酒が残っているのか?」

 酒井は不思議そうに男の目をのぞき込んだ。

「プレゼントを持ってきた。受け取れ」

 そういうとフェースマスクの男は、透明の液体が入った透明のビニール袋を酒井に向けて放り投げた。

 ビニール袋は酒井の手前に落ちる。酒井は手に持つマグカップから右手を離すわけにはいかず、手の空いている左手をのばすにも態勢が悪かった。ビニール袋はそのまま床に落ちた。その瞬間ビニール袋が破裂した。中の液体が空気中にあふれ出し、一気に気化し始めた。

 河合はズボンポケットに押し込んでおいたタオルで鼻と口を押さえ、息を止めた。立ち上がり、フェースマスクの男へと走り寄る。

 事情がわからない酒井、松本、平山はその場に立っただけでどうすることもなく呆然としていた。

 突然酒井の意識がなくなった。手に持つマグカップが床に落ち粉砕する。酒井はなんの抵抗もないまま床に倒れた。頭を強打し出血する。広がる血液で頭部を赤く染める。

 その瞬間を見た松本、平山の二人は慌てて酒井に駆け寄った。しかし、二人も一瞬で意識を失い、床へ倒れ込んだ。飛行管理人の徳永も管理デスクを離れ、倒れた三人に走け寄ろうとした。

「どうした!」

 その声を最後に徳永も床に倒れ込んだ。

 河合はフェイスマスクの男の後ろに回り込み、必死で息を止めていた。フェイスマスクの男も自分の手で鼻と口を押さえ込んだ。目は時計に向けられた。八時五十七分。

 そのとき、緊急発進を告げる電話がけたたましく鳴り響いた。

 河合とフェースマスクの男はアラートハンガーにつづく扉に体当たりして外へ飛び出した。

「はぁぁ~~!」

 二人は大きく声を出し、肺に空気を吸い込んだ。

「時間通りだな、リバー!」

 フェイスマスクの男が叫んだ。男は走りながらフェイスマスクを脱ぎ捨てた。男は酒井が見た通り金井満。

「さすがにワインだな! 目だけで俺だと当てやがった!」

「目を見れば誰だって分かりますよ!」

 そう言って、河合も全力でアラートハンガーへ走る。

 アラート待機の戦闘機はアラートハンガー内に待機され、一棟の中に一機ずつ格納されている。スクランブル発令により赤色灯が点灯し、アラートハンガーの扉が開けられていく。本日の一番機に乗る河合は一番ハンガーへ。金井は二番ハンガーへと走った。

 アラート任務は一機に対して四人態勢を組む。一人はパイロット、一人は武装弾薬員、そして残る二人は列線整備員。

 スクランブル発令のため整備員それぞれ三名も整備員待機室から駆け出してきた。担当ハンガーへ二組に分かれ、ハンガー内へ飛び込んだ。

 金井は先に入った整備員たちを確認し、数秒足を止めた。十秒も止めていなかっただろう。足を再びハンガーに向けて走りだした。

 ハンガーに飛び込んだ金井は、ハンガー内で格闘している三人を見た。武装弾薬員である男が整備員二人に斬りつけた。手に持つナイフは、刃渡り十センチほどのサバイバルナイフ。整備員二人は抵抗むなしく倒れ込んだ。整備服を黒く血で染め苦しんでいる。武装弾薬員の男は返り血を浴び、顔を赤に染めていた。金井は男に駆け寄り、男の頬を右拳で殴りつけた。男は立ち崩れ、その場に倒れ込んだ。

「だれが刺せと命令した!」

 金井は男の胸ぐらをつかみ持ち上げた。

「こうしなければ、スクランブルに間に合わなかった」

 男は鋭い目で金井をにらみつけた。

「抵抗されればこの作戦はここで終わる。二人を無傷で押さえ込み、無事発進させるのは無理だ。こうでもしなきゃゴールドを送り出せない」

「青田!」胸ぐらをつかむ金井の拳が震えた。しかし、金井はそれ以上なにも話せない。青田に整備員を黙らせろと命令したのは金井本人だった。青田の行動は作戦成功を最優先したための行動。そう思うと怒鳴りつけることも、殴りつけることもできなかった。

 金井は腕拳を緩めた。青田は毅然を立つ。

 金井は青田に指示を出した。

「ピンを抜け。発進する」

「了解」

 青田はF35Jの機体下に回り込み、武装のセーフティーピンを抜きにかかる。F35のミサイルランチャーは機体のステルス性を優先するため、機体内部の兵器倉に収納される。駐機中は兵器倉が開かれたままだ。空対空誘導弾AAMー5が兵器倉に装備されている。左右の兵器倉に二発ずつ、計四発。青田はセーフティーピンを抜いた。通常、抜いたことをパイロットに確認させるため、コックピット横に来て、抜いたピンを見せるのだが、今は規則など関係無かった。青田は抜いたピンをまとめて機体後方に投げ捨てた。

 金井はコックピットにかけられた梯子を駆け上がった。コクピットに収まる瞬間、コンクリートにたたきつけられる金属音が耳に響いた。

 金井は、落下傘と固定するショルダーハーネス、体を支えるラップベルト、シートに内蔵されたサバイバルキットのベルトをつなぐ。続けてGスーツのホースを連結。確認も瞬時に終えヘルメットをかぶった。ヘルメットは金井本人のもの。アラート任務交代時に青田がハンガーに入り、松本のものとすり替えていた。

 金井はヘルメットをかぶりながら、声を出すことなく、青田にありがとうと感謝した。

 酸素マスクのホースをつなぎ、続いてインターホンケーブルと一体のバイザー情報表示接続ケーブルをつなぐ。

 バッテリースイッチオン。コンソール正面を埋める液晶画面がスタンバイモードで立ち上がる。エンジンマスタースイッチオン。JSF (ジェット・フューエル・スターター)電源スイッチオン。画面はスタンバイ状態から各情報表示に移行される。画面左にエンジン情報。エンジンに異常なし。JSF始動スイッチを入れる。甲高い音がハンガー内を響かせる。レディーライト点灯。スロットル下、フィンガーリフト持ち上げ。JSF動力エンジンへ伝達。エンジン回転数確認。スロットルレバー、アイドリング位置ヘ前進。

 エンジンに火が入った。エンジン回転数が一気に上昇する。

「青田! 登ってこい!」

 エンジン音にかき消されない大きな声で金井は叫んだ。

 こもるエンジン音の中でも青田の耳には金井の声が届いた。

 青田はコックピットにかかる梯子を駆け上った。金井のショルダーハーネスの緩みを確認する。

「大丈夫だ」

 青田はそういうと金井の肩を軽く叩いた。青田は頼むという表情で金井に微笑む。

 そのとき、金井は左手に持つサバイバルナイフで青田の脇腹に斬りつけた。青田は信じられない表情で梯子から足を滑らせる。体を床に打ち付け、苦痛の表情でうずくまった。

 金井は青田を殴りつけたとき、青田が落としたサバイバルナイフを拾い上げていた。そのナイフを青田の目を盗んでコックピットに持ち込んでいた。

「三人とも俺が斬りつけたと証言しろ! おまえはなにもやっていない!」

 青田が斬りつけた整備員二人への罪を金井がかぶるつもりだ。

「金井さん……」

 青田は脇腹を押さえながら、立ち上がった。

「梯子をはずせ!」

 金井はそう言いながら、手に持つサバイバルナイフを投げ捨てた。

 青田は流れ出る血を無視して梯子に手をかけた。持てる力で梯子を持ち上げコクピットから外す。その梯子を後ろに投げ捨てた。

 金井の声が響く。

「車輪止め外せ!」

 青田は前輪前に膝を落としながら必死に近づく。息を乱しながら伸ばした手で、誤発進を防止する固定用ブロックを引き抜き、後ろに滑らせた。

 金井はその間に兵器倉の扉を閉じる。

 青田は機首下からコックピット左に現われた。コクピットに視線を上げ、左手で傷口を押さえ、必死に起立した。

 レーダーコントロールスイッチオン。

 慣性航法装置制御パネル、現在地確認。航法へ切り替え。

 金井は風防開閉レバーに手をかけた。最後に、青田に向け、左手をヘルメットにあて敬礼した。

 青田も答えて敬礼する。

 二人は目線を合わせた。二度と会うことはない戦友に向けての挨拶だった。

 金井は前を向き直す。風防が静かに閉じていく。

 ブレーキをリリースし、スロットルレバーをわずかに前へ押す。

 ハンガーから機首を出し、そのままタキシングを開始した。

 ハンガー内から金井を見送った青田は力尽き、そのまま倒れ込んだ。


 ハンガーから出た金井は先に出た河合の後に並んだ。

 乱闘のため、金井はハンガーを出るまでに四分を要していた。

 河合はシフト通りのアラート待機組なため、整備員はなんの疑いもなく送り出していた。

 河合一番機は、二番機金井をしたがえ、誘導路から滑走路へと進んでいく。金井は河合の右を少し下がったところでついて行く。河合は金井に目を送り右手親指を立てて合図する。金井も答えて左親指を立てる。二人はバイザーを降ろし、スロットルレバーをアフターバーナーへと押し込んだ。強烈な加速で背中がシートに押しつけられる。二千七百メートルある滑走路の半分も満たないうちに離陸速度に達した。右手に握る操縦桿へ手前方向に引く力を与え、飛行操縦コンピューターへ離陸の意志を伝える。機体は瞬時に反応し機首を持ち上げた。接地していた車輪は、加重を感じなくなったことにより、浮上したと確認し、機体内部に折り込まれていく。操縦桿をさらに引く。機首はさらに持ち上がり約四十五度の角度で上空を目指した。

 管制塔から通信が入る。

「正体不明機はロシア、オーグロバヤからのスホーイ35S、二機と判明。石川県能登半島北百五十マイルから新潟方面へ飛行中。高度一万フィートで目標へ接近せよ。スホーイ35、コールサイン、クリコフ。小松351アラート、コールサイン、ザウス」

 河合が復唱する。

「タワー了解。高度一万で目標に向かう。ザウス01」

「ツー」

 管制塔から指示が続く。

「一万に達したら無線チャンネル9でGCIの指示を受けてください」

「了解、ザウス01」

「ツー」

 ツーは金井の声だ。二番機は一番機の答えに同意の場合、ツーの一言で答えとする。ツーの声は管制塔に届いている。だが、その短い声では、それが金井であると気付くものはだれもいなかった。

 クリコフ二機はそれまで海面すれすれの高度で飛行を続けていたが、突如急上昇し、一万フィート上空にコースを変えた。海面すれすれの低高度で飛行を続ければこの時点でレーダーサイトに捕らわれることはなかったはずだが、あえて上昇した。高度を高く取ったためすぐにレーダーに捕まり、DCへと情報が伝わった。情報はすぐに最寄りの航空隊につながり、小松基地へスクランブル指示が告げられた。そこまでの時間に一分も生じない。


 そのころ司令室ではスクランブル発令時にパイロット待機室の緊急連絡電話がつながらなかったことで問題になっていた。

 第六航空団司令神沼輝明は厳しい表情で司令室内を見渡した。一部の幹部以外は目を合わせられない。

「発令が届かないとはどういう事だ!」

 団司令付きの幹部一人が神沼の気を落ち着かせようとしている。

「今確認中です。351の人間を待機室に一人走らせました」

 もう一人の団付き幹部が便乗して意見を述べる。

「実際にスクランブル機は上がりました。連絡は届いていた証拠です」

「私は結果で評価しているのではない。手順に不備があると話しているのだ。勝手な判断で行動したとならば、秩序も組織もなくなる」

 口をはさんだ幹部は視線を落とし、なにも話せなくなった。

「飛行管理官はだれだ」

 神沼がもう一人の幹部に聞いた。

「徳永怜司です」

 幹部はアラート勤務表から名前を確認した。

「ここに連れてこい。事情聴取だ」

「はい」

 幹部がパイロット待機室に電話をかけようと受話器を持ち上げる寸前、待機室に走った隊員から電話連絡が入った。受話器を取ったのは神沼本人だ。受話器の声は司令室内のスピーカー回線につないである。受話器の先の声が慌てている。

「何だ。慌てるな。冷静になって話せ」

 神沼の声を聞いても電話の隊員の声は落ち着けてはいなかった。

「全員倒れています。意識ありません! ワイン、パイン、フラット、徳永さんも! ワインは頭部から出血しています! 至急救急隊をよこしてください!」

 司令室内はどよめいた。なにがどうなっているのか見当がつかない。

 神沼は電話の向こうの隊員にどなった。

「落ち着け! 冷静になって処置をしろ。意識がないとはどういうことだ。おまえが冷静にならなければこちらは状況が把握できない」

「息をしていません! 早く救急隊を!」

 神沼は受話器を耳にあてながら、司令室の一人に救急隊の出動を手で要請した。

 状況が混乱する中、別の電話が鳴った。パイロット待機室の電話と重なる声がスピーカーから聞こえる。

「アラートハンガーです! 整備員三人が血を流して倒れています! 至急救急隊をよこしてください!」

 司令室のどよめきが高まった。パイロット待機室、アラートハンガーで隊員が倒れている。その状況が頭で整理できない。

 アラート連絡電話の不通。パイロット、整備員の負傷。しかし、アラート機は飛び立った。ならば、あれにはだれが乗っている?

「スクランブルの二人は、だれとだれだ!」

 神沼は冷静な声で幹部に話しかける。

 幹部の一人はアラート勤務表を確認し、二人の名前を告げた。

「五分組は河合と松本です」

「リバーとパイン? パインは倒れていると報告を受けたぞ。だれが乗っているんだ。リバーは乗っているのか?」

 神沼が問う。

 司令室の一人が質問の答えに割って入る。

「発進時にリバーと管制官が交信しました。声はリバーでした。間違いありません」

「リバーを呼び出せ。確認しろ」

「現在、管制は輪島GCIに移行しました」

 神沼は右手の拳を横に振り左手で受け止めた。直接リバーに問いただしたかったが、それは叶なわなくなっていた。

「DCに確認させろ」

 管制官はDCとの直接回線をつなげた。

 DCとは作戦行動を指示する防空指揮所。中部航空方面隊のDCは埼玉県の入間基地に置かれている。

 DCは全国二十八カ所に設置してあるレーダーサイトからの情報を集め、領空の守りを常に監視している。中部航空方面隊のDCは、北は秋田・岩手から南は岡山・徳島までと防衛範囲は広い。

 航空管制は所属基地の管制塔を離れると、指示は各エリアのレーダーサイトを通してDCに切り替わる。GCIは地上要撃管制の意味で、飛び立ったF35Jは、石川県輪島市のレーダーサイトとの交信を通し、入間DCからの誘導に切り替わっていた。

 神沼は気が気ではなかった。基地内部の人間が隊員を襲った。傷害事件である。団司令として犯人を許すわけにはいかない。犯人割り出しは急務だ。スパイの進入を許したか。自衛隊反対の過激派が凶行に及んだか。自衛隊基地内で隊員が暴行を受けるなど、大問題だ。

 DCからの通信がスピーカーに流れた。

「こちらは入間DCです。ザウス01、02はタックネームを名乗りなさい」

 神沼以下司令室の全員がスピーカーに耳をかたむけた。

「ザウス01、リバーです」

 やはりリバーだ。一番機のパイロットは理解できる。問題は二番機だ。全員スピーカーからの声を待って沈黙した。数秒待ってもなにも語らない。DCから再び通信が入る。

「ザウス02、タックネームを名乗りなさい」

 パイロットの声を待った。数秒無音が続いた。神経が張りつめる緊張に包まれたそのとき、スピーカーから男の声が漏れた。

「こちらはゴールドだ」

 司令室はその声に衝撃した。ゴールド? 金井がどうして乗っている?

「ザウス02、アラートプログラムとパイロットが違うようだ。その理由を述べよ」

「私は今、自衛隊とは別の意志で行動している。理由を述べる意志はない」

 神沼は耳を疑った。なにを言っている? 自衛隊と別の意志とはなんだ? 

 F35二機はクリコフ編隊に向け真っ直ぐ飛行を続けている。速度マッハ0.95。高度一万フィート変わらず。このままなら、すぐにクリコフ編隊を肉眼で取らえられる。まさか、このまま専守防衛を無視してミサイル攻撃するのではないか。そんな想像さえ頭をよぎった。搭載するAAM-5の射程距離は三十五キロメートル。赤外線シーカーの照準範囲が広く命中精度も高い。すれ違いざまの発射でも追尾可能だ。

 早まったことをするな。神沼は心で叫んだ。

 クリコフ編隊は日本領空まで十キロメートル。佐渡島の北西三十二キロメートル地点まで迫っていた。

 ザウス編隊とクリコフ編隊は距離三十五キロに接近した。ミサイル発射射程範囲。今攻撃しなければ領空侵犯を許す。しかし、自衛隊に先制攻撃は許されない。領空侵犯した飛行機は最寄りの空港に着陸させるのがルールだ。しかし、自衛隊と別の意志による行動を取るというのであれば、領空侵犯、速、撃墜の国際ルールに従い、ミサイルを発射するかもしれない。

 神沼は息を殺していた。額に汗が光る。刻々とせまるクリコフ編隊。横から接近するF35。クリコフ編隊、領空まであと五百メートル。そのとき、クリコフ編隊の飛行方向が変化した。機首を百八十度反転させ、Uターンする。

 領空手前であっさり引き返してくれる。神沼は、信じられないという気持ちより先に、安堵の息を吐いた。なんの目的で領空近くまで進入したのか理解できない。まだ、別の目的があるのかも知れない。コースを変えて再度日本に接近するつもりかも知れない。気は緩められない。

 ザウス編隊はクリコフ編隊に追い付き、後方にポジションを取った。空中戦においては敵の後方を取ることが圧倒的優位とされる。ザウス編隊はこのままクリコフ編隊を防空識別圏まで追い出してくれる。神沼はそう思った。ゴールドも、早まった考えは起こさなかった。自衛隊との別の意志の意味が今だに分からないが、ゴールドは自衛隊法に基づき、対領空侵犯処置を規則通りに果してくれた。このままクリコフ編隊を追いやったら帰還させる。なぜ、許可無く操縦したのか、別の意志とやらの意味はなんなのか追求しなければならない。

 クリコフ編隊は日本領空から約百キロメートルに離れ、日本本土から離れようとしていた。

 DCはザウス編隊に後方二千フィート(約六百メートル)に下がるよう命令を出した。これは、クリコフ編隊が突然の軌道変化を起こした場合でも追尾できる余裕の距離を持たせる配慮だ。

 しかし、ザウス編隊からの応答はない。

「復唱せよ」

 DCは通信を繰り返した。

 ザウス編隊から無線が切れた。

 DCは呼びかけを続けた。だか、応答に応じるようすはなかった。

「どうなっているんだ。あいつら何考えているんだ!」

 神沼がしびれを切らして怒鳴り上げたとき、司令室業務管理PCへ、一通のメールが神沼宛に届いた。


 第六航空団司令神沼輝明殿

 私は金井満である。突然のメールで失礼する。

 団司令には日頃からご指導を頂き感謝している。今私が戦闘機パイロットとして職務を遂行できるのも団司令のおかげである。

 その感謝を仇で返すようで申し訳ないが、これは私の決意声明だ。

 私は今の日本政府に憤りを覚える。

 現在の日本政府には本気で日本という国を守ろうとする意思を感じない。

 第二次大戦中、日本の航空技術は零戦を筆頭に世界をリードする最高の技術を要していた。

 しかし、戦後、敗戦により、その技術を失いつつあった。

 当時の政府は、日本の航空技術をこのまま衰退させるわけにはいかないと考え、敗戦国の日本と言う汚名を背負いながらアメリカに頭を下げ、巨額な経費を投資してアメリカとのライセンス契約を結ぶ道を選び、最先端の戦闘機製造能力の蓄積に必死で取り組んだ。その結果、国産ジェット戦闘機F1を開発し、日本はまた戦闘機製造能力を取り戻した。

 日本は取り戻した技術を生かし新たな戦闘機開発の計画を進めた。F2だ。しかし、そのF2にアメリカの圧力がかかる。日本独自開発の戦闘機がアメリカ製戦闘機を上回る能力を持つことに反発し、日米共同開発によるものでなければ新型戦闘機製造を認めないと脅迫され、結果アメリカ製F16をベースとする機体の設計に切り替えざるおえなくなった。

 本来F2はF1の交代機のみならず、F4の機種転換をも見据えて開発を進める計画であった。ところが、アメリカの横槍により設計変更を余儀なくされ、開発は大幅に遅れた。開発の遅れはそのまま時代遅れにつながった。飛行速度や格闘性能を追求する時代から、衛星、空中警戒管制機からの情報を通して敵位置確認や索敵を可能とするデーターリンクシステム性能が主流になり、機体自身は敵から察知できないステルス性能を重視する時代に切り替わった。結果F2は、当初百四十一機であった製造計画が、九十四機で生産終了となり、F4の機種転換機を改めて選定する必要が生じた。

 候補機に上がったユーロファイターはアメリカ以外からの技術提供を受けられるとの期待から有力視されたが、ここでもまたアメリカの圧力が加わる。アメリカ主導開発のF35配備を契約しなければ、今後の日本への技術提供は解消すると脅され、ヨーロッパ四ヶ国共同開発の戦闘機は却下された。しかしここにはアメリカのさらなる思惑があった。F35は国際共同開発による戦闘機のため、製造契約を最初に結ばなかった日本に対してライセンス生産を認めず、完成品を購入する立場に追い込まれた。

 これは、日本から戦闘機開発能力を奪い、開発技術を失なわさせ、軍事的にも経済的にも日本を後退させることになる。政府はそれを解って契約を結んだ。

 F15機種転換計画でも、当初F22の輸出は認めないとしていたにもかかわらず、日本が心神をベースとするF3の開発を進める内にF22の輸出緩和を打ち出し、廉価版F22の輸出を認めるとしてきた。

 その条件のなかにF3の開発中止を条件とされ、アメリカのいいなりにその条件を飲もうとしている。

 日本は航空技術を奪われ、その開発製造ラインをアメリカに握られることになる。経営破綻に向かう航空機製造会社はアメリカの会社に買収される。日本はアメリカに経済的植民地とされ国家としての力を失うことになる。

 もしF2が純国産戦闘機であったならば、F35の決定もなく、つづくF15の機種転換もまた心神をベースとする国産戦闘機配備に進んだはずだ。

 そうなれば、日本は国家として近隣諸国へ対等の立場に立ち、国際社会の中で経済大国としてもう一度立ち上がることができた。

 だが、今はまったく逆の道に進んでいる。軍事は全てアメリカに握られている。アメリカから支援がなければなにも成り立たない。アメリカが日本を守るとする目的は、アジアに対する前線基地としての有効性と日本の技術封印と経済的殖民地化だ。もしアメリカの目的に逆らえば、速、アメリカは日本を敵と見なし、日米同盟など放棄される。日本の軍備はそこで終わる。軍の体制を失った日本など制圧することはたやすい。中国との尖閣諸島問題。韓国との竹島問題。ロシアとの北方領土問題。すべては日本のバックにアメリカがいるから各国とも強行に及ばないだけだ。アメリカがいなければすぐにでも制圧されるだろう。日本は戦争を放棄した国なのだ。法を曲げてまで戦争のために自衛隊出動を決断する政府ではない。日米同盟なくして日本の安全はない。だから軍備に関してアメリカの方針には逆らえないのだ。

 日本は軍備をアメリカに依存するだけでなく、経済においても他国に依存している。

 唯一の高出力エネルギーとなる原子力を放棄し、中東に原油を頼り、製造ラインは中国、ベトナムなどのアジア諸国に任せ、開発までもアメリカ、韓国、ヨーロッパ諸国に委託する。

 エネルギー、製造、開発を全て海外に頼る日本になにが残る。この危機的状況も理解できず、日本は平和だと勘違いしている。

 軍事衝突による戦争はたしかにおきてはいない。しかしそれが平和だといえるだろうか。経済を考えたならばアジア諸国と戦争状態であると理解すべきだ。

 事実中国の国内総生産は飛躍し経済成長を遂げ、軍備も進み自国設計の戦闘機までも開発に成功し、国家として自立し始めている。

 今の状況がつづくならば、近隣諸国から遅れを取り、いずれ日本は国家としての力を失う。

 私は自衛隊の人間だ。今はだった、と言ったほうが良いかも知れない。

 私は自衛隊から日本を変えてみたくなった。軍事の自立が国の自立につながる。逆に軍事の自立なくして国家の自立はない。

 私は日本の自立をロシアから見守ることにする。ロシアより日本の軍事を促す行動を起こそうと思う。もし私の行動に脅威を感じてくれたなら、日本の軍事は変わるだろう。そして日本が変わるだろう。それが私の望みだ。


 ここでメールは終わる。

 神沼は目を疑った。あの金井が日本政府を批判する文章を書くとは信じられなかった。愛国心が強く、隊員からの信頼も篤い金井が、なにを血迷っている。昨日は隊員集めてバーベキューで騒いでいたじゃないか。あの笑顔はなんだったんだ。あのはじけた姿はなんだったんだ。

 レーダーサイトから送られてくる位置情報画面には、ザウス編隊の緑の三角形とクリコフ編隊のオレンジの三角形が、並んで編隊飛行を続ける様子が映し出されていた。機首は四機ともロシアに向けている。ロシアとの防空識別圏まであと二百五十キロメートルに迫っていた。

 その情報を見て、神沼は金井の意志が分かった。

 そもそもなぜロシア機が突然、日本との距離百五十マイル地点で急上昇したのか。それは、あらかじめ決められていた時間にレーダーに捕らえられるための行為だ。能登半島北百五十マイルに不明機が現われれば小松基地にスクランブルがかかる。つまり、スクランブルが八時五十七分に発令されることはあらかじめ分かっていたことなのだ。時間直前にパイロット待機室を襲い、パインとゴールドが入れ替わる。それをリバーが支援する。ハンガーに駆け込んだゴールドが三人の整備員を刺し、自分一人の力でF35をハンガーアウトさせる。後は事件が発覚しようと、空に上がってしまえば止められるものはいない。これは最初から仕組まれた逃亡計画。目的はロシアへの亡命だ。

 DCから緊急電話が入った。

 内容は、先行するF35を追撃し、即座にコンタクトを取れという命令だ。つまり、リバーとゴールドを捕らえて連行しろということだ。すでに日本本土とロシアの防空識別圏との中間地点にさしかかっている。日本の防空識別圏内で捕らえるためには一刻の猶予もない。

「アラートハンガー3番4番は出撃可能か!?」

 神沼は声を上げた。司令室内を見渡した。第351飛行隊の隊長、福井の顔が見える。神沼はこの緊急事態に各担当責任者を招集していた。神沼は福井に目を合わせた。視線に気づいた福井は一歩前へ出た。私が出撃しますと言わんばかりに胸をはる。神沼は軽くうなずき、福井も答えるように一礼をした。福井は足をアラートハンガーへ向け走り出そうとした。しかし、神沼は考え、それを止めた。

 もし、この逃亡計画が第351飛行隊による組織的な計画だったらどうする。追撃と称して隊長やその僚機の男まで逃亡する可能性がある。福井がそんな男ではないと信じたいが、裏切らないという保証もない。

「待て、福井」

 福井は、神沼の声に足を止め、振り向いた。

 神沼は司令室全員に聞こえるように声を響かせた。

「351に飛行禁止命令を出す。リーバーとゴールドを捕らえて話しを聞かなければ351を信用できない」

「団司令!」

 声を荒げた福井の声を無視して神沼は続ける。

「351全員を事情聴取だ。機付の整備員たちも集めろ。一人一人から話を聞く。それまで謹慎だ」

「謹慎とはどういうことですか!」

 福井は頭に血が上り、立場も忘れて怒鳴った。

「リバーとゴールドの行為を見過ごした責任は飛行隊長にある。しっかり反省しろ」

 福井に目を合わせて神沼は冷静な声で一喝した。

「出て行け」

 福井は、震える拳を押さえ込んだ。なにも抵抗できない。無言のままそこを出て行くしかなかった。司令室を出るとき、神沼に向かって深く頭を下げた。しかし、その姿を神沼は見ていなかった。

 神沼の頭には福井のことを気にする余裕はない。ただちに追撃のための発進命令を出さなければならない。

「303にすぐに発進可能な機体はないか」

 福井の去った横に第303飛行隊の隊長、金澤が立っていた。

 金澤は隊の動きを熟知している。現時点で発進可能な機体は二機ある。空中戦闘機動訓練に向かう予定の二機だ。

 機体は格納庫前の駐機場に並び、飛行前点検を終えたところだ。

「二機の発進が可能です」

「実弾武装させろ。五分で発進させる」

 五分という時間は、訓練用のミサイルを外し、実弾のミサイルを装備し直すためにはあまりにも短い。

 しかし、第351飛行隊に発進許可を与えないと宣言したため、最短で飛ばせる303の機体に懸けるしかない。

 司令室から第303飛行隊に命令が飛んだ。

「ACM予定の二機にザウスを追わせる。ダミー弾から実弾に装備を変更し、五分で飛び立たせろ。これは実戦である」

 第303飛行隊は大あわてになった。突然の実戦命令。それも五分出撃だ。スクランブル態勢を取っていない事態からの緊急発進は過去経験がない。それでも、武器小隊の隊員は命令に従い敏速に動いた。通常一機四人で行なう作業を隊員全員総出で動いた。一発のミサイルを外すのに四人、装備するのに別の四人が動く。装備後そのままセーフティーピンを抜き取る。緊急発進ならば、ランウェイエンドでの離陸前最終チェックなど受けていられない。今ピンを抜かなければ、抜き取るタイミングがない。一機四発のミサイルを五十人の力を借りて一気に仕上げた。

 第303飛行隊 F15Jパイロット、加々美 (タックネーム・カミング)は突然のフライトプラン変更をコックピットの中で聞かされた。空中機動訓練(ACM)を予定していたが、突然の実弾装備切り替えに動揺した。無線を通して聞かされた作戦が、第351飛行隊の追撃である事実も実感が湧かない。そして、そのパイロットがゴールドである事態に現実性を感じられなかった。

 ゴールドとは第301飛行隊時代、ともにF4を飛ばした仲間だった。ゴールドはカミングに比べて十歳年上だが、よく馬が合った。

 休みが一緒になると、近くの居酒屋で酒を飲み交わし、今後の自衛隊のあり方や国防のあり方を話しあったものだ。

 ゴールドがリーダーとなり、カミングがウイングマンとして飛行訓練を続けた時期もあった。

 カミングは訓練を続け、ついには二機編隊長の資格を取るまで成長した。だがその年、F4の機種改変が決まり第301飛行隊は解散となった。解散となったパイロットはそれぞれ違う道を歩むことになる。ゴールドはF35機種転換操縦課程に回され、カミングはF15機種転換操縦課程に回された。しかし、その半数のパイロットは地上勤務に回された。F4は二人のパイロットが搭乗する戦闘機だが、F15もF35も一人乗りの戦闘機だ。つまり、配備計画がF4と同じ機数なら必要なパイロットは半分で良い。そのためF4パイロット全員に機種転換操縦課程を受けさせる必要はない。高額となったF35導入のため、不要な人件費を削減するという方針に政府は動いた。

 ゴールドはそんな政府の考え方に反論しながらも、四ヶ月のF35機種転換操縦課程を終えて、実戦部隊の第351飛行隊の初年期生として宮崎県から石川県へと移動した。

 カミングも同時期にF15機種転換操縦課程を終え、第303飛行隊への配属が決まり、奇しくも同じ小松基地勤務となった。部隊はちがっても、小松基地に来てからの二人の仲は続いていた。酒の付き合いが多かった。肩を組んで酔っぱらいながら、愚痴を言うことも増えてきた。昨日のバーベキューにも参加し、一緒に笑って楽しんだ。カミングは今日のフライト計画があるために酒はひかえたが、ゴールドは非番のはずなので大いに飲んでいた。バーベキューを企画したのはゴールド本人だ。そのゴールドが今、日本海海上を逃亡中とはどういうことか。なにが起こっているのか、まったく分からない。カミングは事実確認ができないまま、発進に向けエンジンを回した。

 通常この後、プリタクシーチェックが始まる。整備員と連携して、エルロン、フラップ、スタビライザーの動作点検を行なうが、今は五分発進命令が出ている。スクランブルと一緒だ。

「タワー。緊急発進する。タクシークリアランス要請」

 管制塔からすかさず通信が届く。

「滑走路オールクリアー。発進許可を出す。滑走路進入後ただちに離陸せよ」

「タワー了解」

「作戦コード。コールサイン、パンシー」

 任務に合わせてコールサインが与えられる。日本海上空追撃作戦の任務遂行機としてパンシー。

「了解、パンシー01」

「無線確認。パンシー01、チェックイン」

「ツー」

 二番機との無線周波数が合っていることを確認する。

 二番機パイロットは橋本祐弥 (タックネーム・ブリッジ)。本日カミングと空中機動訓練を行なう予定だった男だ。ブリッジも突然の実戦命令に戸惑っていた。ブリッジはアラート勤務にまだ二度した就いたことがなく経験が浅い。

「パンシー02、フォーメーション離陸する。01の右に付け」

「02、了解」

 ブリッジはカミングに従い、位置を確認しながら後方から右側面へと追従を続ける。

 滑走路へ進入。パンシー01、02は左右に併走したまま一時停止することなく、オレンジ色の炎をノズルから吹き出し滑走路を後にした。

「タワーよりパンシーへ。目標は、高度一万フィートを能登半島北百二十マイルから北西に向け飛行中。パンシーは北に進路を取り、接触予想地点へ向かえ。以後の通信はチャンネル9、いや、8に変更せよ」

「了解、パンシー01、レッツゴー、チャンネル、エイト」

「ツー」

 パンシー二機は管制塔交信からGCI交信にチャンネルを切り替えた。

「こちらは入間DC。ターゲットは北緯三十八度、東経百三十七度、高度一万から、速度マッハ0.8で北西へ飛行中。パンシーは超音速で真北を目指し、防空識別圏内でターゲットを捕らえろ。増槽を落として良い。最大速度で追撃しろ」

 命令に従い、機体中央に吊してある増槽(機外燃料タンク)を投下した。身軽になった機体は機動性が増し、増槽の空気抵抗から解法された。高々度に上昇し最大速度にエンジンを回した。アフターバーナーの光りが長く空に伸びる。F15の連続噴射が可能な速度はマッハ2.3。この速度なら、目標に防衛識別圏内で追いつける。しかし、アフターバーナー連続噴射は燃料の消費が激しい、増槽を切り離した今、燃料は機内タンクにしかなく、目標に接近した時点で燃料切れを起こしかねない。だが今は目標を捕らえることが最優先だ。作戦が完了すれば、空中給油機を呼ぶこともできる。


 小松基地司令室では発信したF15二機をレーダー上で見守っていた。このままゴールドたちが進路、速度とも変えずに進んだら、防空識別圏内で捕らえることができる。神沼はカミング、ブリッジに期待しながらも、まさか二人もゴールドたちに加担しないだろうかという不安がぬぐい去れなかった。

「ゴールドはたしか、妻と娘がいたな」

 神沼は一人の幹部に声をかけた。

「はい、たしか娘さんは今年十歳になったかと」

「そうか。今どうしている」

「宮崎に暮らしていると思います。もともとゴールドは新田原勤務でしたが、351部隊に配属になり、家族を残して、単身赴任してきました」

「連絡付くか」

「電話はつながりますが、なにを……。この事態を知らせるのですか」

 神沼は答えなかった。幹部の男は神沼が危険な考えをもたないように制した。

「事件解決まで待つべきです。これは一個人の問題ではなく、国家防衛の問題です。外部への報告は機密漏洩になります」

「分かっている。だが、万が一のとき、最後にゴールドを説得できるのは、家族だ。最悪は……」

「脅迫するつもりですか」

「人聞きの悪いことを言うな」

 二人の会話が止まった時、代表電話から司令室の電話に内線が入った。受話器を取った職員が神沼に外線が入っていることを告げた。電話の相手はゴールドの妻だという。通常ならこの緊張時に一般外線電話など受けている余裕はないが、相手がゴールドの妻ならば別だ。神沼から電話をしようと思っていたタイミングに、向こうからかかってきた。ここは、利用しない手はない。

「はい、神沼です」

「神沼団司令様ですか? 私、金井満の妻の晴海と言います。たった今、私の携帯にメールが届いて、もう戻らないってメールなんです。神沼団司令に決意声明を渡したと書いてあるのですが、なんのことだか全くわからなくて、心配になって失礼ながら電話しました。神沼様に聞けば、今、夫がどこにいるのか分かるのですか? 私から連絡しても通じなくて。なにかあったのですか?」

 先に連絡が入っている。設定時間にメールを送信するプログラムを組んでいたのか。ゴールドは本気で帰らないつもりか。決意声明を読んでゴールドの行動は推測がつく。しかし、今時点で現状をそのまま話すわけにはいかない。

「奥さん、心配しないでください。金井さんは今特殊作戦遂行中です。今は連絡が取れませんが、必ず戻ってきますから」

 晴海の声は震えている。

「特殊作戦というのはなんですか? 危険な任務ですか?」

 神沼は毅然とした声で対応した。

「たとえ、奥さんといえども、自衛隊の作戦内容はお教えできません。大丈夫です。作戦終了すれば連絡取れますから、安心して待っていてください」

「でも、もう戻らないと書いてあるんです。そんなこと一度も書いてきたことないんです」

「どんな、内容ですか? よろしければ、メールの文章を読んでもらえますか」

「分かりました」

 晴海は呼吸を整え、メールを読み上げた。

「私は神沼団司令に決意声明を渡した。今私は重要な任務に就いている。日本国家を守る重要な任務だ。そのために私は日本をさらなければならない。晴海と清花に会えなくなるのは残念だが、けして二人のことを忘れることはない。私の任務はおまえたち二人の安全を守ることでもあるのだ。晴海はこれからも幸せに生きてくれ。清花も立派に育ててくれ。それが私の最後の願いだ」

 晴海の言葉に戻った。

「どういうことですか。夫に何をさせようとしているのですか?」

 晴海の声は涙に震えていた。

「心配しないでください。我々に任せて。作戦が終了したら連絡しますから」

 その場しのぎにすぎなかった。

「信じてますから。よろしくお願いします」

 晴海は縋る声を残し電話を切った。

 神沼は電話を戻し、レーダー画面に目を向けた。パンシーはザウスとの距離を確実に縮めていた。

「どうするんですか」

 幹部の男もレーダーを見ながら話した。

「様子を見るしかない」

 レーダーに向けた神沼の目は、どこか遠くを見ていた。


 医務室から内線電話が入った。取り次いだ職員はうなずきながら聞いている。手にするペンで用紙にすばやく書き込んでいる。確認を終えて電話を戻し、用紙に書いた内容を神沼に向け説明した。

「パイロット、整備員とも全員命に別状ないそうです」

 その言葉に司令室の全員が安堵の声を漏らした。職員は続けた。

「酒井は頭部から出血しましたが、それは意識を失って倒れた際に床に強打したことが原因です。一針縫いましたが、脳には異常が在りません。今は意識が戻り安定しています。松本、平山、徳永も意識が戻りました。意識を失った原因ですが、金井が投げた袋が割れて、中の液体が気化してから記憶が無いそうです。おそらくこの液体は睡眠ガスの一種だと思われます。血液検査を行なっていますが、血液中に不純物は確認できず、今のところ液体の詳細は分かっていません」

 神沼以下、幹部たちは釈然としない事実に困惑した。どこから睡眠ガスを入手したのか。どうやって基地内に持ち込んだのか。

 報告は続いた。

「ハンガー内に倒れていた整備員三名は、刃物により腹部を刺されていますが、傷は浅く、今輸血にあたっています。意識は三名ともしっかりしています。それから、三人を刺したのは金井だと考えていましたが、実際は青田が二人を刺して、青田は金井に刺されました」

「なに!」神沼が口をはさんだ。

 報告は続く。

「三人が証言しています。青田も二人を刺したことを認めています。金井を送り出したのも青田だと、自分から白状しました」

「青田が金井を送り出した? ではなぜ、青田は金井に刺されたのだ」

「三人を刺したのは金井ということにしろと、青田に話したそうです」

 神沼が荒げた。

「罪をかぶって正義面しようというのか。金井はすでに犯罪者だ。そんなことで温情するな。必ず捕まえろ!」

 そういうと、またレーダー画面に目を向けた。静かな口調に戻った。

「青田の回復を待って事情聴取だ。何が起こったのか、全部吐かせろ」

 横で聞いていた幹部は静かにうなずいた。


 パンシー編隊は防空識別圏手前でザウス編隊を距離三十キロメートルに捕らえた。ザウス編隊はクリコフ編隊と併走して飛んでいる。米粒より小さい点だが、はっきり見える。防空識別圏まであと四十キロメートル。つまりザウス編隊は後十キロメートルで防空識別圏を越える。

 DCから命令が入った。

「誘導弾でターゲットを狙え。パンシー01はザウス01。パンシー02はザウス02。ロックオンして警告せよ」

 ミサイルで攻撃態勢を取れということだ。ミサイルという名称を自衛隊は使わない。パンシー編隊が搭載するミサイルは射程三十五キロメートルのAAM-5だ。

 カミングはバイザー越しにザウス01を視認しながら、スロットルレバーにあるレーダーカーソルスイッチを押し込む。レーダーは目標を捕らえた。バイザー上に目標指示ボックスが表示されザウス01を四角く囲む。ウエポンスイッチをSRMに選択。視線に連動するミサイルシーカーが動作して目標指示ボックスに円が重なる。

 表示情報。目標、距離十八.六マイル、高度一万フィート、速度マッハ0.8、射程範囲内。

 カミングは通信を送った。

「ザウス編隊へ。我々は貴機を攻撃できる状態にある。すみやかに指示に従い帰還しなさい」

 応答はない。

「繰り返す。直ちにコースを変えて帰還しなさい」

 カミングはゴールドとリバーに通信を続けた。しかし、回線を開く様子はない。防空識別圏をすぐに越える。

 カミングは今この状態を信じられなかった。指令どおりここまで飛んで来た。命令のまま前方のゴールドをロックオンしている。この状況は自分にとって残酷すぎる。相手はあの恩師なのだ。司令部はこれからなにをさせるつもりなのか。最悪の結果だけは避けたい。カミングは必死の思いでゴールドを呼び続けた。

「通信してください! 指示に従ってください! 頼みます!」

 ゴールドはカミングからの通信を無言のまま聞いていた。カミングを思うと心が痛たんだ。昨日飲んだ最後に酒。そのとき見せたカミングの笑い声、笑顔を思い出す。良い後輩だった。初めて二人で飛んだ訓練の日を忘れないだろう。あのときの空も今と同じく晴れ渡っていた。あのときのカミングは今のリバーぐらいの年だったろう。あどけなかった若者が今は立派なパイロットとして成長している。リバーもまたこれから未来のある若者だ。ここでロシアに連れて行くより日本の空を飛び続けたほうがリバーには未来がある。

 ゴールドはリバーにザウス編隊の秘話通信チャンネルのスイッチを入れた。

「リバー、お前は指示にしたがい帰還しろ」

 リバーは突然つながった回線に耳を疑った。秘話通信でつながっている。この声はリバーにしか聞こえない。リバーからの通信もゴールド以外には聞こえない。その秘密通信の内容が帰還命令であることに納得できない。

「いいえ、私もいきます。ここまで来て引き返せません」

「だめだ、引き返せ。もともと、ロシアの受け入れは一人だけだ。最初からお前を亡命させるつもりはない」

 リバーは声を荒げた。

「そんなばかな。私が聞いていた計画と違います」

 ゴールドから通信が返る。その通話は落ち着いた声だった。

「いいんだ。最初から一人の計画だ」

「騙されたと思うな。これも計画のうちだ」

「お前は日本に帰れ。そして日本を見守れ」

 断片的に話された言葉にゴールドの心が見える。リバーはゴールドの言葉の意味を感じて、気持ちは少し穏やかになっていた。

「私になにができますか。日本に帰れば反逆罪で拘束されます。なにもできない」

「お前は罪に問われない。自衛隊はお前を告訴しない。すれば今度の事件が明るみになる」

 国の隠蔽が想像できる。国際問題になる事実を公表するようなことはないだろう。

「しかし、罪は罪だ」

 リバーは恥ずべき行動をしたとは思っていない。だが、自衛隊としての職務から逸脱したものと理解している。

 ゴールドはそんなリバーの気持ちを察しているように話した。

「お前はだれも傷つけていない。スクランブル発進も指令によるものだ。ここで帰還すれば命令に背くことはなにもしていない」

「しかし……」

 リバーはコックピットに覗くゴールドにゆっくり目線を向けた。

 ゴールドはリバーの目線に気づき、手を挙げた。

「謹慎はあると思うがな」

 リバーにはヘルメット越しのゴールドの顔が笑顔であるように見えた。

「ゴールド」

「いいから行け。日本を頼む」

 リバーはヘルメットに手をあて敬礼した。

「……了解。後は頼みます」

 リバーは操縦桿を左に倒した。


 ザウス01は編隊から離れた。機体を横に倒し旋回する。

 ザウス01からパンシー01へ通信が入った。

「パンシーに従い帰還する」

 カミングはその通信を受けてブリッジに指示した。

「ブリッジ、ザウス01をエスコートしろ」

「02了解」

 ブリッジは編隊から離れザウス01の斜め後ろに付いた。

「リバーは指示に従うはずだ。なにがあっても、小松に着陸させるんだ」

「了解」

 続けてブリッジから通信は入る。

「カミングだけで大丈夫か。」

 カミングは落ち着いていた。

「ゴールドを説得するだけだ。俺だけでいい」

「頼む」

 ブリッジはリバーを押さえながら緊張の空を後にした。

 ブリッジを見送ったカミングは目線をザウス01に戻し通信を繰り返した。

「ザウス01は帰還しました。ザウス02も帰還してください」

 通信は帰らない。

 ミサイルシーカーは確実にザウス01を捕らえている。ゴールドのコクピットではミサイル警告ブザーが鳴り響いているはずだ。その音を聞いて冷静でいられるはずがない。

 もう待てない。防空識別圏まで一キロメートルを切った。


 小松基地司令室ではカミングとDCとのやり取りをモニターしている。

「応答に応えていません。すぐにロシアの制空権に入ります」

 神沼は冷静を装っているが、気持ちは穏やかでいられなかった。なにかに縋ってでもこの状況を打開したい。

「なんとかしろカミング」

 そんな最中、DCからテキストメッセージが入った。極秘指令により音声傍受を恐れてのデータリンク通信だ。このメッセージの内容に神沼以下全員が目を疑った。メッセージはカミングのディスプレイにも表示されているはずだ。この命令は想定される作戦のなかで最悪の手段になる。

 神沼は幹部の一人に命令した。

「金井の奥さんに電話しろ」

 メッセージを見た後だ。幹部は命令に従い受話器を上げつつもダイヤルに躊躇した。

「なにを話すのですか」

「現状を話してゴールドに帰還するように説得させるんだ」

 神沼は受話器を受け取った。


 カミングのMFDにテキストメッセージが入った。

『shoot down zaus02』

 ザウス02を撃墜せよ。カミングは目を疑った。空自が空自を攻撃する。そんな前例はない。恐れていた最悪の事態だ。

 ロシア領空に入る前に撃墜しろということか。専守防衛の法から、攻撃されない限り他国の戦闘機に対して撃墜命令など出ることはないが、相手が日本の戦闘機であれば攻撃できるというのは、間違っていないのか。国際紛争は日本で解決しないが、日本の問題は日本で解決する。軍事の抑止力が違った方向に向いている。

 実感が湧かない。撃墜命令とはなんだ。受け入れなければと思う気持ちと、間違いであってほしいと思う気持ちが交錯した。

 額に汗がにじむ。汗は目をかすめ、うっすら浮かんでいた涙とともに頬へ流れ落ちた。前方を飛ぶゴールドの機体が涙でにじむ。冷静ではいられなくなっていた。呼吸が安定しない。操縦桿を握る右手に力が入らない。それでもカミングはゴールドのF35を照準に捕らえていた。

「カミング」

 ゴールドの声だった。静かな落ち着いた声が聞こえた。通信を返さなかったゴールドが、通信してきた。

「攻撃命令がでているだろ。命令に従い攻撃しろ」

 その声に目から涙が溢れだした。

「すぐに、戻ってください。私にあなたを攻撃させないでください」

 ゴールドの言葉に困惑していた。溢れた涙でかすれた声は弱々しい。

 ゴールドはその頼りない声に諭した。

「どうしたカミング。そんな弱いパイロットに育てた覚えはないぞ。おまえは戦闘機パイロットだ。日本の空を守る精鋭だ。国防ができなくてどうする。命令に従え。それが、国防におけるおまえの仕事だ。おまえはおれが育てたパイロットのなかでも優秀なやつだ。おれを失望させるな」

 なぜ、撃墜命令が出たことを知っていたんだ。テキストメッセージを傍受した? どうやって。衛星通信を使ってDCとの交信データに進入した? もし衛星通信からデータを抜き取れるのであれば、自衛隊の作戦は全て筒抜けだ。

 カミングは状況を整理した。F35の国外逃亡。国家機密の漏洩。日本の安全神話の崩壊。

 瞼をしめて冷静さを取り戻す。

「ゴールド……、金井さん……!」

 涙を振るい、緩んだ右手に力をこめた。操縦桿を握り直す。親指を兵装発射スイッチに乗せる。バイザーに表示される目標指示ボックスはF35を赤く囲っている。

 カミングは呼吸を整え、腹を据えた。眼球がF35をにらみつける。親指に力を入れた。

 そのとき、ゴールドの声が聞こえた。親指の力が無意識に緩む。スイッチを押そうとしたこの瞬間が見えているように話しかけてきた。

「だが、みすみすやられる私ではない。F35はロシアに亡命するいい手土産だ。撃墜されるわけにはいかない。できるならやってみろ」

 そう言うと、ゴールドは操縦桿を左に倒した。

 ザウス02は機体を反転させ、落ちるように降下軌道に入った。カミングは手が一瞬遊んだが、反射的に操縦桿を操作しザウス02の追尾に向かった。ザウス02の動きは素早かった。ザウス02の降下を見て、カミングも機首を下に向けた。そのときザウス02はすでに機首を上空に向けていた。慌てたカミングは操縦桿を引き戻し、上昇を急いだが、ザウス02はそのまま上空に突き抜けた。カミングは前に飛び出したザウス02を一瞬レーダーで捕らえたが、ザウス02はすぐに軌道を変えて視界から消えていった。カミングは機首を上空に向け、アフターバーナーに点火した。位置エネルギーも運動エネルギーもザウス02に負けている。カミングのF15はオレンジ色の炎を吹き出し、ほぼ垂直の角度で上昇した。レーダーでザウス02を探した。前方から三時方向へと回りこんでくる。

「まずい!」

 このまま上昇すると、回り込まれて後ろを取られる。

 機体を寝かせザウス02の上空位置に飛行曲線を変える。ザウス02も軌道を変え、パンシー01の下に潜り込む高G旋回に入った。F35の耐G制限は9G。F15も耐G制限は9Gだが、外部武装のある状態では構造上の制限がかかり9Gに届かない。F35は武器を兵器倉に収納するため、その制限がない。旋回性能はF35が有利と言える。しかし、高いGをかけ続けると、速度は減少する。速度を維持するにはエンジンパワーが必要となり、出力はF15が勝っている。先に相手の後ろへ回り込む。それが、近距離戦闘の基本だ。しかし、その範囲は年々広がっている。二十年前は相手の真後ろからの攻撃でなければ命中率が低かったが、アクティブ・フェイズド・アレイ・レーダーと、ヘルメット装着式の情報表示バイザー、そしてオフボアサイトを可能にするミサイルの組み合わせにより、近距離ならば、左右上下百八十度圏内の目標をロックオンすることが可能になっている。つまり、目標を横に見れば、撃墜可能だ。現代のF15は改修され、この装備が備わっている。F35は最初から実装済だ。目標を横に見れば照準可能だが、相手からもロックオンされる。やはり有利な位置は少しでも後ろだ。

 旋回を続ける両機は必死に相手の後ろへ回り込もうした。カミングの肩越しにゴールドの姿が見える。その姿は位置が固定され動かない。機体の位置は相手とほぼ同一旋回線上か。ここで気を向いて操縦桿を緩めると一瞬のうちに後ろを取られる。

 そのとき、ザウス02は背面を見せ消えた。また下降したか。カミングは機体を反転させ海上に目をやった。約五百フィート下を離れるように飛んでいく。

 戦闘を放棄したか。ならばそれに越したことはない。カミングはザウス02を追い降下した。

「ゴールド。気が済んだのなら帰りましょう。もうばかなことは止めてください」

「カミング、腕を上げたな。戦闘ごっこ楽しかったぞ」

「まだ、撃墜命令はキャンセルされていません。どうか、私のお願いを聞いてください」

「もう遅い。ここはすでにロシア領域だ。カミングこそ去れ」

「ゴールドが戻らなければ、私も戻りません」

「ばかを言うな。ここはすでに日本じゃない。領空侵犯したら警告なしに攻撃させるぞ。日本みたいな誘導処置などない」

「私は戻りません! ゴールドを連れて帰ります!」

 クリコフ一機はロシア本土に向かう飛行から反転した。クリコフ02だ。

「待て!」

 ゴールドが叫ぶ前に、クリコフ02はミサイルを発射した。ミサイルはR-73赤外線誘導ミサイル。発射弾数一発。

 ミサイルの赤外線シーカーはパンシー01の熱源を捕らえた。カミングは正面から迫るミサイルを目視確認する。距離にして三キロメートル弱。一瞬のうちにゼロ距離になる。カミングは反射的にフレアを全弾投射して、スロットルを絞り急旋回した。ミサイルはフレアの熱にひき付けられ、フレアの熱の中で爆発した。

 クリコフ02はパンシー01を飛び越えていく。

 カミングはここが日本ではないことの重大性に気が付いた。

 日本の自衛隊機がロシア領空を侵犯する。

 これが日本への領空侵犯ならば、領空侵犯に対する通告、写真撮影、無線による警告、機体信号による通告、警告射撃、強制着陸と、手順を踏んで侵犯機を誘導するが、他の国では領空侵犯、速、撃墜が常識だ。自衛隊機がロシア領空で打ち落とされたとしても日本は文句を言えない。

 これは自分一人の問題ではない。国家命令なしにロシア領に入れば、国際問題になり日本は世界に謝罪しなければならなくなる。しかし、このままゴールドを行かせるわけにはいかない。撃墜命令。これを実行する。

 カミングは態勢を立て直し、ゴールドに向け照準を定めた。

 AAM-5の赤外線シーカーはザウス02のエンジン熱を捕らえた。ヘルメットバイザーに映し出されるASEサークルの中のTDボックスを小さい丸が囲みこむ、赤色の円に変わると、ロックオンを告げる電子音が流れた。目標まで一.七マイル。親指を乗せる兵装発射ボタンを押し込んだ。

「フォックス・ツー!」

 AAM-5はミサイルランチャーから切り離された。その直後ノズルに点火され、前方のF35を目指した。

 ゴールドはミサイル警戒コールを聞き、即座に旋回した。六百メートル離れてサポートを続けていたクリコフ01もミサイルから回避運動を取った。ザウス02とは逆側の右に開いた。

 ミサイルはゴールドを狙って左にコースを変え追尾する。距離がないため接近が早い。

 ゴールドは赤外線追尾ミサイルを交わす常套手段のフレアをまき散らした。

 ゴールドはそのままバンクを取り、右旋回に切り替える。

 AAM-5はフレアの回避能力に優れるが、目の前でまき散らされたら回避できない。

 ミサイルはフレアの熱につかまり爆発する。

「自衛隊機がミサイルを撃ったか! 立派だ!」

 ゴールドの声がカミングの耳に響いた。

 ゴールドのF35はそのまま大きく弧を描いて、先行するクリコフ01の後に付こうとした。

 クリコフ01は機首をパンシー01に向け速度を上げた。それを見たゴールドはクリコフ01のパイロットに気勢した。

「よせ!」

 クリコフ01は自衛隊機よりのミサイル攻撃に腹を立てていた。F35を狙ったにしても間違えばクリコフ01を追尾したかもしれない。AAM-5は赤外線画像誘導方式のため誤誘導は少ないが絶対ではない。目の前に目標とする熱源が一つなら、それを追尾する可能性は高い。

 クリコフ01はパンシー01の横をすれ違った瞬間、まるで空中戦闘訓練開始のようにクリコフ01はパンシー01の後ろを取ろうと旋回を始めた。それを見たカミングは同じように旋回を開始し、クリコフ01の後ろを取ろうと軌道を変えた。しかし、旋回性能はクリコフ01が優れていた。クリコフのスホーイ35Sは推力偏向ノズルにより高い運動性に加え、十四.五トン級の推力を持つエンジン二機による強力なパワーでF15を圧倒する。F15のエンジンは十.八トン級二機。推力偏向ノズルはない。

 パンシー01はクリコフ01に後ろを取られた。コクピット内にミサイル警戒ブザーが鳴り響く。カミングは焦った。逃げ切れない。機体を揺さぶり、必死にクリコフ01の正面から逃げようと、もがいた。しかし、もがけばもがくほど距離を詰めてくる。パンシー01の軌道の内側へと飛行曲線を描き、ついには後方一キロメートルの距離に付いた。

 いつでも撃墜できる距離だ。クリコフ01のパイロットはミサイル発射ボタンに指をかけ、余裕の笑みを浮かべた。その瞬間、ミサイルの接近を告げるブザーが鳴り響いた。笑みが消えたパイロットが後ろを振り向いたときにはすでにAAM-5がクリコフ01のエンジンノズルに吸い込まれていた。

 クリコフ01は空中で爆発した。翼をもぎ取られ、ばらばらに砕け散った機体は海に落下していく。パラシュートが開く様子もない。パイロットはコクピットに収まりながら命を失ったか。今は分からない。しかし、クリコフ01が撃墜された。この事実は隠しようがない。

「カミング! 大丈夫か!」

 ゴールドの声だった。

 クリコフ01を撃墜したのはゴールドか。他にいないだろう。しかし、それはゴールドにとっては計画を覆す問題ではないか。亡命しようとした国のエスコート機を撃墜する。そんな男を亡命者として迎え入れてくれるものなのか。むしろ、捕らえられて即座に銃殺刑もあり得る。カミングはチャンスだと思った。これでゴールドのロシア亡命を断念させて日本に連れ戻せる。

 しかし、穏やかに事は進まない。ゴールドの後ろにクリコフ02が接近していた。ミサイル発射態勢に入っている。F35の格闘性能はスホーイ35Sに比べて劣る。後方を取られたらまず振り切れない。だが、今はニ対一で戦力的に有利だ。カミングは反転、クリコフ02の進行を遮るように正面からゴールドとの間に割り込んだ。クリコフ02は機体を揺らし、カミングの軌道に躊躇した。カミングはすれ違いざまにミサイルを発射した。正面から迫るクリコフ02を肉眼で捕らえ、そのままロックオンをかけていた。AAM-5はその照準データから目標を認識し、自身の赤外線シーカーで目標を追った。すれ違いざまに発射されたAAM-5は小さな半径を描き、クリコフ02の後ろに回り込んだ。

 クリコフ02は後ろに迫るミサイルに意識が飛んだ。一瞬前方に入るはずのF35を探したが、そのときにはすでに目の前から消えていた。クリコフ02はミサイルに意識を戻した。機体後方からフレアをまき散らし目くらましをする。

 だが、AAM-5の赤外線シーカーはクリコフ02の機影をしっかり捕らえている。逃げるクリコフ02を追うAAM-5。しかし、フレアの拡散に惑わされ追尾軌道にずれが生じた。クリコフ02はさらに軌道をずらすため推進偏向ノズルを最大角度で噴射してミサイルの回転半径内側を飛行する。ミサイルの軌道が横にずれたとき、クリコフ02の機首が九十度に立ち上がり空中で静止した。AAM-5はクリコフ02の運動性能について行けず、前へ飛び出した。クリコフ02から離れると感じたAAM-5は近接信管が働き自爆した。クリコフ02は無傷だった。そのままクリコフ02は、高度を落とすことなく、機体を水平に戻し、パワーを上げた。

 しかし、その後ろにはすぐカミングが付けた。高速で飛行していたカミングはクリコフ02に一キロメートルまで接近した。武装選択スイッチを短距離ミサイルモードからガンモードへ切り替えた。バイザーに写るガンレティクル。その中央に機関砲照準点を重ねる。外すわけがない。攻撃する権利はある。こちらはすでに攻撃を受けた。正当防衛処置が成立している。トリガーに指を乗せる。射撃コール。

「フォックス、えっ!?」

 射撃コールを叫びきる前にクリコフ02は機体を立ち上げた。AAM-5を交わしたように機体全体で空気抵抗を増して減速させ、パンシー01を前に出させようとする姿勢変化飛行。通称コブラ機動と呼ばれるマニューバー。

 目の前に壁のように立ち上がったクリコフ02はカミングに激突するように迫った。ここで慌てて回避すれば、すぐに後ろを捕られる。だが、同じ軌道で減速するのはF15には無理だ。瞬間的にスロットルを緩めエンジン出力を絞り、エアーブレーキを立てて減速した。しかし、減速率では勝てない。飛び越える。そう思ったそのとき、言葉と指が連動した。

「スリー!」

 指はトリガーを弾いていた。一秒にも満たない時間に六十発の二十ミリ弾を打ち出した。弾丸はクリコフ02の右翼を貫通した。

 カミングは操縦桿を引いた。機首が跳ね上がり、クリコフ02のわずか数メートル上をすり抜けた。

 クリコフ02は右翼を切り取られ、機首を立ち上げたまま、木の葉のように海に向かって落ちていく。

 カミングはエアーブレーキを閉じスロットルを巡航位置に戻した。

 そのとき、クリコフ02からミサイルが放たれた。左翼に残ったR-73、三発を全弾発射した。ミサイルランチャーから切り離されたR-73は一斉に着火した。その炎は、右翼をもぎ取られむき出した、機内タンクから流れ出す燃料に引火した。クリコフ02は木っ端微塵に吹き飛び、空から消えてなくなった。

 R-73ミサイルは熱源を求めて前を飛ぶF15に狙いを定めた。パンシー01はクリコフ02との戦闘の際、速度を落としたためにミサイルから距離を離すことができなかった。

 フレアは全弾打ち尽くした。逃げるしかない。スロットルを前へ押し込みアフターバーナーへ点火した。ノズルがオレンジ色に染まる。F15の排気熱がより高くなったことによりR-73には追尾しやすい目標となった。F15の最大速度はマッハ二.五。R-73も飛翔速度は二.五。しかし、F15はジェットエンジン。R-73はロケットエンジン。加速力が違う。このままでは撃墜される。

 そこにザウス02が上空から割り込んだ。

「カミング飛ばせ! 俺が何とかする!」

「ゴールド! 付き合う必要はない!」

「ただ見てろというのか! 後輩に任せて見物というわけにはいかない!」

 ゴールドは残ったフレアをまき散らした。

 先行したR-73がフレアに捕まる。一発排除した。残り二発。

 もう手段がない。後は全力で逃げるだけだ。

「ゴールド旋回してください! このままじゃ二機ともやられます!」

 カミングの燃料残量がほぼゼロに近づいた。このままアフターバーナーを噴射し続けたらすぐにでも燃料切れで墜落する。

「私はもう帰れません。ゴールドだけでも日本へ帰ってください。そして日本を国力のある国に導いてください。お願いします!」

「ばかやろう! おれはだれも死なせん! 死の積み重ねによる国家繁栄など望んではいない! おまえは生きるんだ! 生きて日本の未来を見届けろ!」

 ゴールドはスロットルを緩めた。速度を落とし飛行軸線をカミングの後ろに乗せた。その瞬間R-73はザウス02のノズルへと吸い込まれた。

「妻と娘によろしくな」

 それが、カミングに届いたゴールドの最後の言葉だった。

 ザウス02は爆発した。

 爆発のエネルギーは高温を放ち、残る一発も爆発の熱に引かれた。二度目の爆発が起こりザウス02は火だるまと化して海へ落ちていった。

「ゴールド!!」

 カミングはロシアの経済空域側に一人取り残された。燃料は底をついた。あと数分しか飛べないだろう。だが、自分のことよりゴールドを失った衝撃のほうが大きかった。カミングの目には涙が溢れていた。

「なぜっ……、くそー……、おれが、もっとしっかり……」

 今は自分への後悔しかなかった。

 

 小松基地のレーダー画面から三つの三角が消えた。

 カミングのパンシー01のみが表示されている。機首は日本に向けていた。

 ロシア機二機とザウス01を失った。この事実を受け入れるためには時間が必要だった。ゴールドが死んだ。そんなことを素直に受け入れることなどできない。だが、神沼は団司令として毅然な態度を取らなければならない。まだ作戦は実施中だ。

 職員一人が神沼に伝えた。

「団司令。金井の奥様と電話がつながりました」

 幹部の一人が神沼の横顔を見た。

「なんと話すのですか」

 神沼は幹部に目線を向け、覚悟を決めた。

「もう、隠すことなどできない。ありのままを話す」

「死んだと話すのですか」

 神沼は幹部の心痛する言葉に答えることなく受話器を受け取った。


 日本海の空はいつもの空とかわらない空へと戻った。

 F35亡命事件は訓練事故と名前が変わった。目撃者のいない空の事故に日本政府は箝口令を敷いた。無用な混乱を避け、軍事問題で国際危機に発展することの防止として事実無根とした。日本はロシアとの協議を結び、ロシアに対して損害賠償責任を負うことで問題発覚を封じた。アメリカに対しては、今回の問題に釈明し、今後のアメリカ政策に異論を示さないことを約束した。

 

 日本政府発表。

 本日、九時三十分。日本海北緯四十度域による日露合同演習において、空中接触事故が起きた。

 原因は現在究明中であるが、詳細は分かっていない。この演習にて、ロシア機二機と自衛隊機一機を失い、現在も事故海域でパイロットの捜索中であるが、発見には至っていない。

 事故に巻き込まれ、機外燃料タンクを失った自衛隊機一機は燃料残量ゼロに陥ったが、事故後の敏速な対応により空中給油機の出動で燃料ゼロの危機を脱して無事基地に帰還した。現在帰還したパイロット一名から報告を受けているが、事故による後遺症から体調を崩しているため、体調の回復を待って調書を取ることとする。

 今回の事故についてロシア側は、心を痛めている。初の日露日本海海上空中戦闘訓練は共同安全保障を導く新しい道の第一歩と期待していたのに残念であると答えている。これに対してアメリカは日露の友好には共感すると語り、今回の演習には期待をしていたと述べた。日米、米露、日露がそれぞれ友好国となれば三国による新しい関係を築き、アジア太平洋問題の解決に前進すれであろうと前向きな姿勢を示した。

 今回の演習は日米露の中で極秘演習とされたもので、この演習について関係者ならびにご家族の方への内容説明を密事としたことを深く謝ります。また、お亡くなりになった操縦者のご家族の方に対し、お悔やみを申し上げるとともに、このような事故が二度と起こらないよう最善を尽くしてまいります。


 同日日本海事故海域。

 海上にはロシア海軍による機体回収作業が進められていた。

 揚陸艦の甲板上にF35の焼け爛れた機首部分が引き上げられていた。損傷の激しい中、風防はその形をとどめ、中にパイロットの姿が見える。

 救護隊員二人に体を支えられ、パイロットはコックピットから引きずり出された。パイロットはタンカーに担ぎこまれ横に寝かされた。救護隊員の一人がヘルメットを外した。顔をのぞきこんだロシアの男たちは、パイロットの顔色と髪質から日本人だと分かった。

 金井はロシア海軍に発見された。担架に寝かされた金井は全身を強く打ち、死亡していると想像された。

 救護隊員たちはなんの処置もせず、担架を乱暴に担ぎあげた。遺体ならこのまま冷凍室送りだ。ここまで来て海に沈むとはつまらない人生を送ったものだと蔑んだ。いずれにしても甲板からは移動しなければならない。救護隊員二人は担架を担ぎ、急いで甲板を横切った。

 そのとき、担架に横たわる男の右手が動いた。担架の足側を持つ救護隊員は、その動きを見て自分の足を止めた。

 担架の前を持つ隊員は突然立ち止まった後ろの隊員に足を止められバランスを崩し、危なく手を外すところだった。前の隊員は振り向いて後ろの隊員に声を上げた。

「なに止まってんだ! ここは邪魔だ! 行くぞ!」

 後ろの男はパイロットの右腕に視線を送りながら話した。

「手が動いた……」

 それを聞いた前の隊員は目を細めた。

「バカを言うな」

 そういいながら右手に目を向けた。ゆっくりだが確実に自分で拳を握る動作を繰り返している。

 隊員は信じられなかった。空中爆発を起こし海に落下した機体の中で生きていられるわけがない。だか、目の前で起こっていることは事実だ。死んでいる人間ができることではない。

 二人の隊員は叫んだ。

「生きてるぞ!」


 日本海の海はこれから向かえるであろう日本の未来を予言するように波が荒れ始めた。

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