病院を出て
これから三日ほど、同じような日々が続いた。大きなことはなかった。
朝八時ぐらいに起きて、検査を受けて。あとはニーナに会いに行ったり、問題集の問題を解いたり。おかげでニーナとはすごく仲良くなったし、問題集の問題も殆ど解けた。
そして、いずれは来るこの日のことを、ぼくは恐れていたのかもしれない。
「明日、退院するからな。おめでとう。」
回診の時に、医師が言った言葉である。ぼくはもちろん、びっくりした。
「…ここから、出るんですか?」
医師はてきぱきと作業を進めながら、頷いた。
「そうだ。検査も終わったからな。今日は検査は無かっただろ?今日が最後だ。」
「へえ…」
ぼくは窓から外を見る。ぼくが知っている『外』というものは、窓から見る景色と、病院の中庭(ここって外って言うのかな)ぐらいしかない。病院から出たこともない。だから、ここから外に出ることに、抵抗や期待を感じた。外に出る不安から来る抵抗と、わくわくした期待。
ニーナに会いに行った。最後には、いつもよりいっぱい、いっぱい話をしたかった。
ほんとうに、いっぱい話をしたよ。昨日食べたものの事、ニーナのお花の世話のこと。
「私ね、お兄ちゃんがいるんだ。…言うの、初めてだった?」
ニーナはいつものように話した。その様子に、ぼくは罪悪感を覚える。
『お別れを言いたくない』と言う、自分に向けた罪悪感を。
ぼくたちはその後もいっぱい話をした。ニーナにはお兄さんがいるそうだ。
「私ね、お兄ちゃんが来るのを、いつも楽しみにしているの。いつも花かごを持ってきてくれて、それがとっても綺麗なのよ。」
ニーナは、皆と仲良しなんだな。お兄さんもいるんだ。ぼくは少しうらやましく思う。ぼくには、兄弟がいないから…。
そんな事を考えていると、ニーナの表情は急に曇った。ぼくは、ニーナがどうしたのか気になる。
「どうしたの?」
ニーナは少しためらう様子を見せた。
「ずっと…話さなきゃな、って思っていたんだけど…」
ニーナは話を始めた。
話の内容を言おう。
ニーナは心臓病で、ここに入院している。そして、この日から見て明日、手術を受けるそうだ。
明日。ぼくが病院を出る日だ。
やっぱり、言わなくちゃ。ニーナが言っているんだから。
「あのね。その明日のことなんだけど…」
ぼくは明日、退院することをニーナに話した。ちょっと辛いけど、お別れぐらい言いたいし、この気持ちを誰かに話したかった。
「…だから、今日が最後なんだ。」
ニーナはさびしそうな顔を見せたけど、最後はニコッと笑った。それが、ちょっと無理した笑顔だったのに気付いたけど、ぼくはあえて何も言わなかった。
「おめでとう。外はきっと、楽しいところよ。」
今思えば、ニーナが無理をするのも、普通のことだと思う。
ニーナからすれば、珍しく自分と同じ年齢の子供がきて、嬉しかったのに、その子はすぐに行ってしまう。しかも、自分は、その日に死ぬかもしれない。そうだよね。嫌だよね。
ごめんね、ニーナ。
次の日、ぼくが起きると、看護師が一人いた。彼女はすでに、荷物を準備していた。でも、問題集とノートと歯ブラシぐらいだったから、小さな鞄に全部入った。
「では、行きましょう。」
看護師はにっこりと笑って、歩き出した。
一週間くらいしか過ごしていないけど、部屋の壁、床、ベッド。全てに思い出がある。切ない気持ちって言うのかな。そんな、胸を締め付けるような感覚がぼくの中に感じられた。
看護師に遅れをとって、部屋を出る。廊下を歩く。もう、ここに戻ることは無いんだな、と考えると、ぼくは泣きそうになった。
ふと、ニーナのいる、508号室のドアが開いていた。そっと、歩きながら中を見てみる。
ニーナはいなかった。
その後、ニーナに会うこともなかったし、ニーナの手術が成功したかを聞くことも無かった。
この時に降りたエレベーターにも、入院中は何回も乗った。一回の廊下、待合室。検査の帰りにここの椅子に座って、休憩したっけ。思い出になると、何もかもがいいものに感じるんだな。
初めて、外に出る。病院の正面玄関から。ぼくはその新鮮な空気に、驚き、言葉を失った。
外は思ったより、ずっとずっと広くて大きいことが、この時はじめて分かった。そとがどんなところか、全てを知ることは出来ないかもしれない、ってぼくは思ったんだ。
目の前に車がある。赤い車。その前には、一週間前に、ぼくがいた病室に来た、あの女性と男性。
「さあ、乗って。」
女性はにっこり微笑んで、車のドアを開けてくれた。「ありがとうございます」とぼくは頭を下げ、車に乗った。
そして、出発する。ぼくは、これからどんなところに行くのか、このときはわくわく、期待していたんだ。