身体測定
ニーナに会ったあの日から見て、次の日のことだった。
僕が起きたのは、八時はおろか、日が昇る前だった。もちろん、暗い。ぼくは自分で電灯を点けようとして、ベッドから降りて、手探りで病室の中を探す。そんな中のことだ。
『ねえ、君を本当に知っている人って、いると思う?』
あの少年の声だ。後ろから話しているようだけど、はっきりと聞こえた。
ぼくは怖くなった。しかし、体を動かそうとしても、動かなかった。
少年は、僕のいるほうに向かって、ゆっくりと歩き出した。見えないけど、気配で分かった。そして、その手が、僕の頬に触った。冷たい手だった。
やめて、怖い!
『今は、君といられる時間は、これだけだ。ごめんな。』
え?何で?
なぜだろう、さっきまで怖かったのに、こうなると、彼に、行かないで、と感じる……
「………大丈夫か、ケイン、大丈夫か!?」
医師の声がして、ぼくは目を覚ました。最初はなんて言ってるか分からなかったけど、だんだん分かってくるうちに、あることが気になった。
ケインって、誰?何だか、怖い。『ケイン』が、怖い。
ぼくは起き上がる。医師が、安心して胸をなでおろした。
「良かった……。……いったい、何があったんだ?ドアを開けたら、ぶっ倒れてたんだぞ。」
ぼくは答えなかった。答えたかったけれど。
本当に、言いたいよ。あんなに、怖かったって。
…ぼくの中の『何か』が、それを咎めた。言うな、守れ、って。何を守るのか、分からないけど。
「……まあ。いい。検査には出られるか?」
ぼくは頷いた。体力はあったし、検査とは何をするのかあまり分からないから、興味があった。
「…じゃあ、ついて行きなさい。」
医師がそういうと、今度は僕の返事も待たず、病室の外に歩いていった。ぼくは追いかけた。
がんばって歩いたけど、医師の歩きは速い。ぼくが速歩きをしても追いつかない。追いつこうとして、ぼくは時々走りながらついて行った。
医師はそのまま廊下を歩き、エレベータに乗った。ぼくは急いで乗った。扉が閉まり、エレベータの中では、医師と二人になる。
少し船酔いのような感覚がしたころ、エレベータの扉が開いた。医師に続いて降りたら、また後れを取りそうになって、少し走ったんだ。
そして、着いたのは、器具が並んだ部屋だった。ぼくを連れてきた医師とはちがう医師が、にっこり笑って、ぼくを誘導した。いつの間にかぼくは器具のうち一つの上に乗っていて、あっという間に、一つの検査(いや、これは身長計だから、測定と言うよね)が終わった。
そして、これは体重も量ることができる身長計だった。つまり、同時に体重も量り終わった。次は座高だ。座高計に座り、これもあっという間に終わった。
こんな感じで、測定は、驚くほどあっという間に終わった。
帰りに、ぼくは自分でエレベータに乗った。医師が、外来の診察と交代するから、と言っていたので。そして、エレベータの中で、ぼくは一人のおじさんと二人になった。そのときに、おじさんが訊いたのが、このこと。
「坊や、お名前は?」
名前?ぼくは黙ってしまった。ぼくは、今まで誰にも「あなたの名前は○○です」なんて言われたことがない。もしかしたら皆そうかも知れないけど、ぼくの場合、自分の性格のせいもあると思うけど、そういわれなくちゃ、信じられない。
そのうち、おじさんはエレベータを降りた。おじさんは不思議そうな顔でエレベータを降りた。ぼくは、その間も、自分の名前のことを考えていた。
そういえば、ニーナと初めて会った時にも、『名前』を訊かれた。
みんな、名前があるのかな。ぼくに名前がある、って思っているのかな。自分の名前は、自分で覚えているのかな?
そのうちに、聞き覚えのある名前が、頭を通るように、出てくる。
ケイン。
まさか。ケイン。ぼくはこの名前が、恐ろしい名前に聞こえる。
人を沢山殺した、人非人の名前みたいに。
不安になってきた。もうこのことは考えないようにしよう、と思ったとき、ちょうど、エレベータの扉が開いた。ぼくの病室がある、五階だった。
そうだ、ニーナ、と思い、ぼくはエレベータを出るなり、ニーナのいる508号室に急いだ。ニーナに会って、昨日のことを何とかしたかった。
508号室の扉を開けると、ニーナが、昨日のようにベッドに座っていた。笑顔でぼくを迎えてくれた。
「来てくれたの?ありがとう。」
ニーナの声は優しい声だ。その声に、ぼくは安心感を覚えた。
「私、嬉しい。」
ニーナが微笑んだ。なぜか僕も笑ってしまう。
ずっと、ここにいたくなった。ニーナといると、優しくなれる気がした。ニーナが笑うと、昨日のことは許してくれる気がした。
そのまま、ぼくとニーナは話し続けた。今日のこと、ニーナの思い出。ぼくは今日の事ぐらいしか話せなかったけど、ニーナといるときが、今までで一番幸せな気がした。
ふと、ニーナが時計を見た。
「そろそろ回診の時間ね。帰らないといけないわ。」
その言葉で、ぼくたちは別れた。もっと喋っていたいはずなのに、すぐに別れられた。
ぼくたちは、「また明日ね」と約束をした。
その日の夜。ぼくは眠れず、布団をかぶったまま目を開けていた。
ニーナにも、ニーナという名前がある。
僕の名前…いや、考えるのはやめるって、決めたんだっけ。
『……考えなくてもいいよ。僕、君の名前知ってるよ。』
あの少年の声だ。まただ…
君は、誰なの?ぼくは心の中で問いかけた。
『君の名前はね、ケイン、って言うんだ。』
やめて、とぼくは呟く。怖いんだよ、その名前。ぼくは、そんな人なの?
『………忘れたの?』
!!!
ここは恐怖がこみ上げてくるはずなのに、ぼくの中には、罪悪感が沸いていった。忘れた?何を?そのことすら、ぼくは分からない。
『………しょうがないな。僕のこと思い出したら、教えて。僕は、いつも君のそばにいるから。』
少年は、軽く笑ってから、こう言ったんだ。
その笑いは、悲しそうだった。ぼくの中の罪悪感は、もっと、深く掘られるように、増えていったんだ。