始まりの音
その日。
神崎瑠璃は、いつも通りの一日を過ごしていた。
いつも通り朝起きて、ごはんを食べて、学校に行って、友達と会って、いっぱいお喋りして、授業を受けて―――
なんということもない、日常の光景がそこにはあった。
放課後―――同じクラスの野球部の男子が、関わってくるまでは。
「か……神崎!」
「ん?」
瑠璃は帰宅部のため、かばんに教科書類を入れてさっさと教室を出るところだった。
そんなとき、部活のユニフォームではなく、まだ制服姿のままの彼が、何故かやや緊張気味な声色で話しかけたのだった。
「どうしたの?」
「あ、あの、その……話が、あるんだけど、今、いいか?」
彼の声だけでなく、彼が背負っているスポーツバッグの中にあるであろう野球用バットも中で震え、カチャカチャと小さく音が聞こえてくる。
そこまで緊張して、いったい何の話をするつもりなのだろうか。
(顔も赤いし……熱でもあるんじゃないかなぁ?)
瑠璃の心配をよそに、彼は真っ赤な顔のままドアの方を向いた。
「ここじゃあ、その……話しにくいからさ、屋上でも……」
「え?う、うん……それは別にいいけど……部活はいいの?」
この高校の野球部の練習は厳しいと聞く。放課後の自由時間はそこまで無いはずだった。
「お、同じ部活の奴に、今日は休むって言っといたから大丈夫だ!」
「そ……そっか……」
厳しい部活を休むほどの大事な話……。そう思って、今度は瑠璃の方が緊張してきてしまった。
「ご、ごめんな!こんな寒いとこ連れてきて」
「い、いや、気にしないで。他のところじゃ話しにくいんでしょう?」
季節は冬。十二月に入ったばかり。
屋上の風は冷たく、着いたとたん瑠璃は身震いをしてしまった。
だが、申し訳なさそうな顔をしている彼に対して文句を言えるわけもない。
「それで、話って何かな?」
「え?あ……!」
瑠璃が問いかけると、彼は硬直してしまった。
寒さのあまり固まってしまったのかとも思ったけれど、顔は教室で見たときよりもさらに赤くなっている。あまり寒そうには見えない。
「あ、あの……どうしたの……?」
どう対応したらいいのか……。不安げに声を出すと、彼は弾かれたように我に返った。
「あ……あのさ!神崎は、今日これから予定とかあるか?」
「よ、予定?」
(なんでわたしの予定なんか訊くんだろう?)
不思議に思ったが、素直に答えることにした。
「特に無いけど……」
「そ……そうか!」
急に顔を輝かせた彼に、またも瑠璃は頭にハテナマークを浮かべる。
「あの……実は……」
やがて彼は決心したように真剣な表情となり……なんとなく瑠璃も引き締まった表情を浮かべた、
そのときだった。
「……ん?あ……あ……?」
彼の顔が、真っ青になった。
「……?」
やはり熱でもあるんじゃないかと瑠璃は不安になる。
しかし、
「う……うわああああああああああああああああああ!」
叫び声をあげ、両手で頭を押さえ地面にうずくまる彼を見て、熱どころの騒ぎではないことに気付いた。
「え!だ、大丈夫!?」
(誰か呼んできたほうが……き、救急車!)
瑠璃がオロオロしている間にも、彼の悲鳴は続き……永遠に続くかのようなその声が、十秒くらい経ったところでパタリとやんだ。
「え……?え……?」
けれども瑠璃は、声がやんだことに対して安堵ではなく、不安を覚えていた。
なぜか、とてつもなく嫌な予感がしたのだ。
そして、その予感は……
当たっていた。
「……見つけた」
一瞬。
その声が、どこから発せられているのか、分からなかった。
この世のものとは思えない声……女性とも男性とも、子供とも大人とも区別のつかない、ノイズ混じりの、声。
この場には、瑠璃と彼しかいない。無論瑠璃は、あのような声を出していない。
冷静に考えると、さっきの声の主は彼しかいないということになる。
(でも……本当に……?)
(他に誰か屋上にいるんじゃ……?)
どれだけあたりを見渡したところ、視界にはうずくまっている彼しか映っておらず……。
思わず彼を凝視する。
すると、
ふいに、彼が立ち上がった。
「ひっ……!?」
その顔を見て、今度は瑠璃が地面にへたりこんでしまった。
彼は、笑っていた……。
さっき見せた純粋な笑みではなく、どこまでも、不気味な笑み。まるで、長年の復讐相手がようやく見つかったかのような、残忍な笑み。
何より、彼の目は……
血のような紅色に染まっていた。
何が起こったのか……どうすればいいのか……分からず、唖然としている瑠璃を前に、
「見つけた……見つけた……!」
豹変した彼が、あの違和感のかたまりのような声で、さっきと同じ言葉を呟く。
それだけでなく……下げていたスポーツバッグの中から、おもむろに何かを取り出した。
それは、太陽の光に照らされ、鈍い輝きを帯びた、金属バット。
本来ならボールを当てるために使うそれを、
「見つけた……!」
彼は躊躇なく、瑠璃の頭へと振り下ろしてきた。
「わ!?」
そこでようやく、瑠璃は動き出す。
間一髪避け、彼のバットは地面に叩きつけられた。
「に……逃げなきゃ……逃げなきゃ……!」
立ち上がって走り出す瑠璃とは対照的に、彼はゆっくりとした足取りでバットを引きずりながら、彼女と同じ方向に向かう。
二人の目線の先には、屋上の扉。
一足先に瑠璃がそれを開け、すぐ先の階段を降りようとしたのだが……
「う、あ!?」
急ぎすぎたせいか、途中で足を踏み外して踊り場に転げ落ちてしまった。
「見つけた……見つけた……」
彼は踊り場にいる瑠璃をじっと見つめたまま、呪いのような言葉を繰り返す。
もちろん彼の右手には、金属バットがしっかりと握られている。
「……!い、痛!?」
再び逃げようにも足をひねってしまったらしく、身動きが取れない。
彼はお構いなしに近づいてくる。
「見つけた……!」
ついに、足元まで追いつかれてしまった。
「……!」
もう一度、彼が金属バットを勢いよく振り上げる。
どうしようもなく、瑠璃は来るはずの衝撃を待つべく固く目を閉じた。
(ああ……わたし、死ぬのか……。)
(こんな、わけの分からないまま……。)
(でも……仕方ない、か……。)
最後にはもう、諦めていた。
(だって……わたしは……)
「ごるああぁぁあ!逃がさねーぞ、地霊のヤロー!」
「……!?」
「へ……?」
突然のことだった。
呪いの声の代わりに、快活な女の子の声(言葉遣いは少しばかり勇ましいが。)が、響いた。
その声に、彼は振り上げていたバットを瑠璃の逆方向に向けて、構える。
瑠璃も目を開けて、状況を確認することにした。
屋上には、誰もいなかったはずだったが……
瑠璃の学校の制服を着た少女が、屋上の入口で仁王立ちになっていた。
彼女は、バットを握った彼ではなく、瑠璃に青い瞳を向け、優しく微笑む。(仁王立ちのままなので少し怖いが。)
「遅くなってごめんな、神崎さん。もう、大丈夫だぜ!」
「え……?あなた、わたしのこと知って……?あ……!」
この異様な状況のせいでしばらく気づかなかったが、少女は瑠璃のクラスメイトだった。
日本人とイギリス人のハーフであり、銀色の髪……その髪をうしろで結わえ、尻尾を二つに分けたポニーテールにしている彼女は、クラスメイトはもちろん、目立つせいか学校中に名が知れ渡っていた。
「桐野……茜、さん?」
瑠璃の声に対し、少女……桐野茜は、にっかリと元気の良い笑みを見せ、答えた。
「おう、何を隠そう、私が桐野だぜ!」