5
「警備を強化って」
そこまで口にしてから、ウィズの言った事を頭の中で反芻する。
水竜への不信感。暴動。軍を動員。
この神殿を取り巻く環境は、一体どんなものになっているんだろう。
壁際にいる傭兵を見ると、傭兵は青褪めた顔をして呆然と立ち尽くしている。
その顔を見てわかった。
全部、ウィズの言っている事は真実だって。
そして状況は決して良くない事も。
「大変申し上げにくいのですが、この天災の原因を水竜によるものと考える者も少なくありません」
「まあっ。何て失礼なっ」
憤慨したように、真っ赤な顔をして神官長様が声を荒げる。
そんな神官長様の様子を全く意に介する事も無く、ウィズは淡々と話を続ける。
「天変地異により、家を失ったものがいます。家族を失ったものがいます。そういった民の怒りが水竜へと向けられているのです」
レツへと向けられた不信感と憤り。
わからなくはない。
だって、もしもその不幸を味わっていたとしたら、何故水竜は大地を揺るがしたのか、どうしてこんな酷い目に合わすのかと思ってしまうかもしれないから。
でも私はそれをどう受け止めたら良いんだろう。巫女として。
「けれどそれは水竜様のせいではありませんわ。そうですわ。だってこれは偶然起こってしまった出来事じゃありませんか」
そうかな。
私はそうじゃないと思う。
きっと、これは『朱』なんだ。
あの時レツはこうなる事さえも、予測していたんだわ。
だからこそ、あんな神託を残したんじゃないかしら。
「何か言いたげですね、巫女様」
ウィズに促され、目を上げる。
穏やかな瞳は、外の動乱を感じさせる事がない。
どうしてこの人は、こんなにも落ち着いていられるのだろう。
「何で祭宮様はそんなに冷静なんですか」
「冷静に見えますか。それは買いかぶりですよ」
カチャリと音を立てて、ウィズが冷めたカップのお茶を口にする。
「正直どうしたらいいのかと思いますよ。ここで弱音を吐いても仕方ありませんから、今はやれるだけの事をやるだけです」
「やれるだけの事を、ですか」
「ええ。それが私にしか出来ない事なら尚更に」
ウィズのカップが空になったのを見て、シレルに視線を投げかける。
シレルは心得た様子で、お茶の用意をする。
「では、私に出来ることは何なのでしょうか」
二人の様子を見ながら、ふと心の中にそんな言葉がよぎる。
考えるよりも先に、その言葉が口をついて出てくる。
「水竜の巫女として何が出来るのでしょうか。毎日ただ同じことの繰り返しじゃ、ダメですよね」
何かしようにも、私には何も出来ないのはわかっている。
それなのに、何かしなきゃと気持ちだけが急き立てられて、居ても立ってもいられなくなる。
「あなたはそこにいるだけでいいんですよ、巫女。君もそう思うだろう?」
優しく微笑みかけながらウィズが言い、たまたまお茶を運んできたシレルに同意を求める。
シレルはにこりともせずお茶を入れ替えると、こちらに小さく一礼をする。
それがウィズの言葉への同意なのか、はたまた違う意味があったのかはわからない。後で聞いてみよう。
ウィズはそれを同意と取ったのか、更に言葉を続ける。
「ぶれずにそこにいる。それこそが水竜の巫女であるあなたの存在意義であるかと思います」
「それでいいんでしょうか」
「いいんですよ。私が言うべき言葉ではないかもしれませんが、あなたはこの国にとって大切な宝。失うわけにはいかないのです」
それとこれとは話が違うと思うんだけれど、にこやかなのに押しの強いウィズの言葉に言い返せない。
私も何かしたいのに。
レツへの不信感を取り除きたいのに。
やっぱり私は何もするでもなく、昨日までと同じ毎日を繰り返すしかないのかな。
「それよりも、先程何か気になることがあるようでしたが」
ウィズは神官長様には話を振ろうとはしない。
ちらっと横目で見た神官長様は憮然としていて、いつもの優雅さは微塵も無い。
何か声を掛けたほうがいいのかもしれないけれど、何を言ったらいいのかわからないので、気付かれないように溜息をつく。
今は、気にしないでおこう。
私が何か言えば、火に油を注ぐ事になりそうだし。
「世界が朱に染まる時。ある者は歓喜の、ある者は悲しみの涙を浮かべるだろう。朱に大河が染まる時、大地は沈黙し、眠りへといざなわれるだろう」
ぎゅっとウィズが眉間に皺を寄せる。
「巫女様、それは」
「ご神託です。去年の大祭の時の。あれは、今起こっている全ての事を指し示しているんじゃないでしょうか」
ウィズが何かを言おうと口を開きかけてから、ふっと目線を奥殿へと向ける。
暫く奥殿のほうを見てから、小声で呟く。
「そういうことか」
「え?」
低く呟いた言葉に問いかけると、首を緩やかに左右に振る。
泣き笑いのような笑顔を浮かべながら、ウィズが立ち上がる。
「戻ります。王都へ」
優美に衣を翻し、元きた扉の方へと歩き始める。
「え? あの?」
思わず立ち上がって後をついて歩くと、ウィズが振り返る。
「じゃあ送ってください。あの扉の向こうまでで結構ですから」
「あ、はい」
有無を言わせない様子に頷いて返事をすると、背後から声を掛けられる。
「お待ち下さい。巫女様はここからは出てはいけない規則です」
その声は神官長様付きの神官の声だった。
意志の強そうな瞳がウィズを突き刺すが、ウィズは表情一つ変えない。
「では、その扉の手前まで」
ウィズの言葉に促され、扉のところまでウィズの背を見ながら歩く。
短い距離なのに、何故かとても長く感じる。
この背中を見るのは初めてかもしれない。
いつも見上げるのは整った端正な顔ばかりだったから。
何でだろう。背中を見上げると、とってもその存在が大きく感じるのと同時に、寂しさがこみ上げてくる。
ウィズが扉の前で立ち止まり振り返る。
「当分こちらには来られないかと思います。大祭までに全て片付けて、巫女様に会いに参りましょう。必ず」
決意の篭った言葉に、きっとこれからウィズは何かをしようとしているんだということだけが伝わってくる。
「お待ちしています。どうぞご無事で。祭宮様」
「ありがとうございます。その言葉だけで、頑張れますよ。巫女様もくれぐれもご無理はなさらず」
そう言うと一礼してウィズは扉を開ける。
自分の席から動こうとしない神官長様にウィズは深く頭を下げ、扉の向こうへと足を踏み出す。
「ご案内致します」
間を遮るように、神官長様付きの神官がウィズに頭を下げて、外へと繋がる通路へと歩き出す。
ウィズが閉じようとした扉に手をかけ、体を向こう側へと乗り出す。
「気をつけて。ウィズ……ラール殿下」
咄嗟にウィズって声を掛けそうになって慌てて付け足す。
何故かそう言わなきゃいけない気がして、ウィズの背中に声を掛けると、振り返ってウィズがにっこりと笑う。
数歩戻って、神官長様付きの神官には聞こえない様に、少し体を折り曲げてウィズが囁く。
「ササも、気をつけて。気を抜かずに。また来るよ」
そう言うと、ウィズは足音だけを響かせて遠ざかる。
その背中が見えなくなるまで、ずっと見つめていた。
部屋の中を振り返ると、神官長様の視線が真っ直ぐに射るようにこちらに向けられている。
明らかに表情には憤りが見えて取れる。
どうしたらいいんだろう。こういう場合。無視するわけにもいかないし。
何故かいつもに比べて度胸が据わっている感じで、今は神官長様のことを怖いとかっていう感じはないんだけれど、こういう時に何て言ったらいいのかわからない。
壁際にいる神官たちに目を向けると、真っ先にシレルが傍にやってくる。
「お体、お辛いところはございませんか」
春になり暖かくなったとはいえ、薄着といっても過言ではない巫女の正装は冷えるので、シレルが羽織るものを手渡してくれる。
「ありがとうございます。大丈夫です」
「でも念の為、後程侍医に見て貰いましょう。お顔の色があまりよろしくないように思えます。さあ、部屋に戻りましょう」
急かすようなシレルの様子に違和感を感じながらも、この場所に居続けるのも居心地が悪いので、促されるままに部屋を横断する。
途中で神官長様と目が合ったので一礼をすると、プイっと顔を背けられてしまった。
いっそ言いたいことがあれば言ってくれたらいいのに。
初めて出会った時からずっと、私の事が嫌いなんだろうなあ。
何となくだけれど、その思いは拭えない。
立ち止まりかけると、長老が傍にきて声を掛ける。
「さあ巫女様。ご無理は禁物ですぞ。後のことはわしらにお任せ下さい」
言外に、早く行けと言われているような気がするのは、きっと気のせいじゃないだろう。
何でそんなに急き立てられてるんだろう、私。
言われるがままに部屋を出ようと扉の前に立ち、こちらには背を向けている神官長様へ声を掛ける。
「失礼致します」
返事は無い。
でも挨拶をしないわけにはいかないから、振り返らない背中に頭を下げて通路に出る。
シレルの他に傭兵と助手が一緒に出てきて、左右と後ろにそれぞれ続く。
左隣を歩く傭兵の顔を見上げると、その目は真っ直ぐ前を見ているけれど、何かを考えているような顔をしている。
「あの、さっきの」
「後程お話致しましょう」
短い返答に、複雑な事情が垣間見える。
後程は、数日後になった。
その日は長老がずっと部屋に顔を出さず、翌日の昼になってからひょっこりと顔を出し、全員の時間の合う時に部屋に集めますと言って出て行った。
だから考える時間だけは、もう結構というほどあった。
ウィズが言っていた、民の怒り。
根本的な原因は国王だというのは間違いないと思う。
だってあの人が今回の『朱』を招いたんだもの。疫病神め。
レツの声が聴こえなくなったのも、きっとあの国王改め疫病神のせいなんだわ。
だってそうとしか思えないもの。
短いご神託の中に、様々な解釈や意味が籠められていて、それは戦乱の事だったり国土の荒廃のことだったりするのかもしれないけれど、でもきっとレツ自身の事も語っているんだと思う。
きっとレツは「眠りへと誘われ」てしまったんだわ。
本当に寝ているかどうかというのは別問題なんだけれど。
私の中の巫女としての能力が「眠りへと誘われ」て、結果としてレツの声が聴こえなくなったのか。
それともレツが自身の考えを伝える能力が「眠りへと誘われ」てしまったのか。
そのことはレツしかわからないことだけれど、きっと間違いじゃない。
でもそれだけじゃない。
ご神託を聞いたときのウィズの反応は、何か王都で起こっていることと関連させるものがあったのかもしれないと思う。
それじゃなかったら、あんな風に帰らなかったと思うの。
急に思いついたように立ち上がって、大祭までに全てを片付けるって言っていたけれど。
一体ウィズは何をするつもりなんだろう。
そのことは片目に聞いてみないとわからないかな。
ウィズが疫病神の問題を解決してくれたら、もう一度レツの声が聴こえるようになるかしら。
大祭までにはレツの声が聴こえるようになっているといいけれど。
その時だけは、ご神託を言わないわけにはいかないし。
蝋燭だけが灯りを点す部屋の中で、それらの事をもうちょっと畏まって神官たちに伝えた。
一様に神官たちが黙ってしまうので、やっぱり余計な事は言わなければ良かったなあと思えてくる。
長老を始め、傭兵も助手も熊もカカシもシレルも、みんな険しい顔をしている。
「それで、事が片付けばいいのですが」
沈黙を破るように、傭兵が口を開く。
やっぱりちょっと楽観的過ぎたのかしら。
「巫女様の発想は、少々短絡的と言えるかもしれんのう」
長老が渋い顔で傭兵の言葉に付け足す。
「全部の状況を知っていて、こちら側の人間ならそうやって待つことも出来るかもしれませんが、事情を知らない者はそのようには思えないでしょうね」
更に助手がダメ出しをしてくれる。
「仮に今回の騒動の根本が国王の引き起こした『朱』であるとしても、それが解消されたからすぐに水竜様の状況が好転するとも考えにくいですね」
熊が言いにくそうに告げる。
「第一、祭宮様が何をなさろうとしているのか、我々には推測しか出来ません。必ずしもこちらにとって有益な事をなさるとは限りません」
シレルが表情を変えずに、考えが甘いと切り捨てる。
カカシは黙々とペンを走らせ、特に口を挟もうとはしない。
総合すると、事態はそんなに簡単じゃないってみんなは言いたいのね。
「全て分けて考えるべきなんですね」
暫く考えてから問いかけると、長老はこくりと頷く。
「王家の事情、民の不満、水竜様と巫女様の状況、そして神殿内の不審者。繋がっているかもしれんが、一つずつ解決していくしか手はないじゃろう」
「じゃあ私は何が出来ますか。この事態を解決する為に、私には何が出来るんでしょうか」
ウィズと話していた時にも感じていた焦りは、心の中で燻っていて決して消えることはない。
出来る事があるなら、今すぐにでもやらなきゃ。
そうしないと、レツを取り戻せないもの。
長老が顔を皺くちゃにして苦笑いを浮かべる。
「巫女様は巫女様に出来る事を。そうじゃなあ、今なら参道の整備かのう」
「でも……」
「こればかりは焦っても仕方のないことじゃ。巫女様が王家の何を変えられるというのじゃ。民の不満をどう解消出来るというのじゃ」
ぐさりと長老の言葉が心を抉る。正論すぎて、返す言葉もない。
確かに、私には何も出来ない。
哀れむような目で、長老は微笑む。
「のう、巫女様。あなた様がおらねば、水竜の神殿は存在意義を失ってしまうのですぞ。祭宮様のおっしゃるように、巫女様はそこにいるだけで十分だと、わしらは思っておる」
そこにいるだけでいいと言われても、私の気持ちはどこに持っていったらいいんだろう。
何かしたいのに。
レツの声を聞く為に、レツへの不満を解消する為に、何かをしたいのに。
「もしも私が今水竜の声がき……」
それ以上言うなというように、長老が首を振る。
「それは言っても仕方のないことじゃ。あるがままに受け止め、そしてそこから何をするのか。今わしらが考えるべきなのは、そのことであろう」
優しい長老の言葉に、視界がぼやける。でも、泣いたらダメだ。
大きく深呼吸して、涙を堪える。
不甲斐ない。何も出来なくて役に立たないのが不甲斐なくて情けない。
もしもレツの声が聴こえるなら、きっと色んな問題を早急に片付ける事だって出来たはずなのに。
決して誰も責めようとはしないけれど、その優しさが、一緒に悩んでくれる神官たちに申し訳なくていたたまれなくなる。
「さしあたって大祭までの数ヶ月。その間に内通者を見つけたいのう」
長老が視線を傭兵に移す。
「あのメッセージから教本を持つ者と考えると神官なのですが、なかなか尻尾を見せなくて。手間取ってしまい、申し訳ありません」
恐縮しきった様子で傭兵が頭を下げる。
「いやいや。お前は全力を尽くしておる。気に病むな。それより外の状況はどうなっておるんじゃ」
傭兵は顔を上げると、ふーっと大きく溜息をつく。
一呼吸置いてから、目を伏せたまま話しだす。
「悪いですね。徐々に神殿の周りに民が増えていますが、祭宮様のおっしゃるように暴動が起きる可能性も少なくありません」
「なぜそのようなことに」
熊が聞き返すと、傭兵は熊のほうを見て話し出す。
「供物も例年より多いので、飢えた者には備蓄食料を出したりしているのだが。その程度では不満は消えないようだ」
熊の顔が曇る。
「結果、暴動になるというのか」
「全てが水竜様のせいだと言う者もいて、こちら側から積極的にそういった者たちに働きかけをすると、それを圧力だと取られかれない。なかなか対処が難しい」
「しかし暴動が起こってからでは遅いぞ。何らかの手を講じるべきではないのか」
まくしたてるような熊の言葉に、傭兵が目を上げる。
「扇動する者がいるようだ。不満を煽るように。それに民が求めているのは奇跡なんだ、水竜様の。そこに付けこまれている」
「どういうことじゃ」
長老が二人の話の間に入る。
「国土を元に戻して欲しい。家族を生き返らせて欲しい。傷を、病を治して欲しい。そういった類の奇跡を求めてやってくる者が後を絶えないのです」
「そうか」
いつかレツが言っていた言葉を思い出す。
--これだけは覚えておいて。ボクは巫女以外の人間の傷を癒すことも、生き返らせることも出来ない。自然をほんの少しだけ、人間たちが生きやすいように穏やかにする事しか出来ない。ボクは万能だけれど、万能じゃない。ボクの力の及ぶ範囲は限られている。例えどんな事態になろうとも、これだけは覚えておいてね。
巫女になって初めての大祭の準備の時に言われたこと。
もしかしてレツは、こうなる事、わかっていたの?
だとしたら、私たちはこれからどうしたらいいの、レツ。