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祭宮様へ。お伺いしたい事がございますので、神殿までお越し下さい。
誰が目にするのかわからないという危険性を孕んでいるので、短い文章だけの手紙をウィズに送った。
全員が揃っての円卓の間での話し合いの後、また片目は情報収集に出てしまったのであれ以来話し合いはしていない。
たまに長老が顔を出す位で、他の神官たちとは話す機会もない。
廊下で通り過ぎた時に話しかけてみようと思うけれど、もしも周りにいる他の人が内通者だったら困るので、結局話は出来ないままで終わっている。
そうこうするうちに、奥殿への回廊の整備だけが着々と進んでいる。
とはいっても、いつもよりはかなり遅く、未だ回廊の半分までしか整備は終わっていない。
今日もまた整備をして疲れたので、特に何をするでもなく部屋でぼーっとしている。
手紙、そろそろウィズに届いたかな。
何て返事が戻ってくるんだろう。
そもそも、王宮にいるのかこの近くの城にいるのか、どこにいるのかもわからないのに届くのかしら。宛先に『祭宮様』としか書かなかったけれど。
でもきっと届くのよね。
窓の外には奥殿が見える。
もう春になったというのに、奥殿には辿り着けない。
ねえレツ、寂しくない? 一人で平気? 遊び相手がいなくて退屈してない?
会いたいよ。
悔しくてしょうがないよ。
どうして巫女なのに水竜レツの声が聴こえないの。
何でレツに会いにいけないの。
声が聴きたい。会いたい。傍に行きたい。
窓枠を握り締め、戻ってくる事のない声の主へと窓越しに話しかける続ける。
それがどんなに無益な事だとわかっていても。
時々何の為に今足掻いているのかわからなくなるけれど、この寂しさを解消する為だったのだと、今更ながらに痛感する。
レツ。
あなたを取り戻したい。
神殿の周りに春の花が鮮やかに色とりどりの花を咲かせる頃、ウィズは神殿にやってきた。
いつものように突然ではなく、数日前から先触れを出して。それも私宛に。
今回は本当に私に会いにやってきてくれるらしい。
神官長様に会いにきたついででも、祭宮としての仕事としてでもなく。
ううん、きっと巫女が祭宮を呼んだんだから仕事なのかな。
この日が来るまで、誰にもウィズに手紙を出した事を伝えなかった。
だから私以外の誰も、ウィズが神殿にやってきた理由を知らない。
なのにウィズに何を聞いたらいいのか、何を話したらいいのか。実は全く考えていない。
どうして先触れが私宛なのか、怪訝そうな顔をしていたシレルや長老。そして神官長様。
神殿中のみんなが祭宮たるウィズに警戒をしているかもしれない。
けれど、私だけは手紙を読んで来てくれたんだって思うと嬉しくってたまらない気持ちでいっぱいだった。
いつもは一番最後に部屋の中に入るけれど、今日は最初から部屋の中でウィズが来るのを待っている。
わざわざ私宛に何日の何時に行きますって連絡が来たのに、その時に部屋にいないのは失礼になるから。
とはいえ、神官長様と二人きりでも何を話すでもなく、神官たちも背後に控えているというのに、部屋の中はしーんと静まり返っている。
そわそわと落ち着かなくって、手許のお茶に何度も手を伸ばす。
何かもう、針のむしろって感じ。
こんな時レツの声が聴こえたら、少しは気が紛れるのに。
どんどん減っていくお茶を、シレルがそっと足してくれる。
「ありがとう」
なるべく小声で声をかけたつもりなのに、部屋の中に自分の声が響き渡る。
何か気恥ずかしい。
しばらく一人であわあわとしていると、チリンとベルが鳴る。
「お迎えを」
神官長様が外へと繋がる扉を見ながら、よく通る声で指示を出す。
「かしこまりました」
神官長様付きの神官が大股で部屋を移動し、扉の向こうへ姿を消す。
ウィズが来たんだわ。
どうしよ。どうしよう。
バクバクと心臓が耳にうるさいくらいの大きな音を立てる。
どの位の間があったんだろう。あっという間だった気もするし、すごく長かったような気もする。
カチャリという音を立てて扉が開けられ、その向こう側からウィズが祭宮の笑顔を浮かべて姿を現す。
「お待ちしておりました」
誰よりも早く口を開いたのは神官長様で、するっと立ち上がってその場で頭を下げる。
慌てて、神官長様に倣い頭を下げる。
神官長様が顔を上げるを横目で見てから、ゆっくりと顔を上げるとウィズと目が合う。
「こんにちは」
かーっと頭に血が上って、咄嗟に上手い挨拶の言葉が出てこない。かろうじて、それだけを伝える。
「お元気そうで何よりです。巫女様。神官長様」
ゆっくりとウィズが優雅な笑みを浮かべながら歩いてきて、すっとその手をソファの方へと向ける。
「どうぞお二人ともお掛け下さい」
促されるように座ると、神官長様がウィズにも座るように促す。
「今日はどうなさいましたの。わざわざ巫女に先触れを出してお越しになられるなんて」
神官長様が切り出し、はっとしてウィズの顔を見る。
ウィズはにっこりと笑みを浮かべたままで、その心中を推し量る事は出来ない。
「月も替わったことですし、ご機嫌伺いに参りました。巫女様の体調が優れないといけないと思いまして、巫女様宛にご連絡させて頂きました」
さらっと嘘をついたウィズに感心すると同時に、感謝する。
私がウィズを呼んだんだってここで言われたら、神官長様に問い詰められるのは火を見るより明らかだし、それになんて答えたらいいのかわからなかったから。
「まあ、わたくし宛にご連絡いただいても、きちんと巫女の体調を考慮してご連絡致しましたわよ」
「ええ。わかっております」
それ以上は何も言う気は無いようで、ウィズはニコニコしながら話を切り上げる。
神官長様もそれ以上追及しようとはせず、二人は世間話を始める。
天候がどうだとか、気温がどうだとか。花は咲いたとか、王都ではこんな行事をやったとか。
そういう話を聞いて相槌を打ちながら考える。
話をしたいから来て下さいって言ったものの、何て切り出せばいいんだろう。
色々聞きたいこともあるのに、何となく神官長様の前じゃ聞きにくいし。
かといって、二人っきりで話をするっていうのもどうかと思うし。
困った。どうしよう。
二人の会話が頭の中をすり抜け、どうしようどうしようで頭がいっぱいになる。
この機会を逃したら、いつまた話を出来るかわからないのに。
本当に片目の言っている通り、軍がこの神殿に向かってきているというのなら。それに王宮の中も色々あるみたいだし。
今度いつ会えるかだってわからない。
レツの声が聴こえなくなって思う。
当たり前だって思っていたことでも、突然ひっくり返って当たり前じゃなくなる事がある。
だから、出来る時に出来る事を出来る限りしなくてはいけないと思う。
でも一体どうやって切り出したら良いんだろう。
目の前の二人の会話は止め処なく、いつまでも終わらないかのように思える。
ふと、奥殿に目を向ける。
ねえレツ。私に少しだけ勇気をちょうだい、ね。
「別に月が替わったからって、わざわざご挨拶にいらっしゃらなくっても宜しくってよ。あなたも何かとお忙しいでしょう」
神官長様が他愛のない話を切り上げて、その表情から柔らかさが姿を消す。
「そんなに邪険になさらないで下さい。わたしだって神殿の方々がご健勝でいらっしゃるのか心配なんですから」
「報告書でしたら欠かさずお送りいたしておりますわよ」
そっけない神官長様の様子にウィズが苦笑する。
「実際にお会いしたいと思うのは、そんなにお嫌ですか」
「いいえ。そうは申しませんわ。ただあなたもこのお忙しい時期にわざわざこんな辺鄙なところまでいらっしゃらなくてもと思っただけですわ」
神官長様の言いようはトゲだらけなのに、ウィズは苦笑いから表情を変えず肩をすくめる動作をしてみせる。
何を言っても無駄だとわかっているかのように。
「このようにわたくしたちは元気にやっておりますわ。ですからお気になさらないでね」
話を早々に切り上げるかのように、くいっと神官長様がカップのお茶を飲み干す。
これ以上話をする気はないと言外に伝えるかのように。
「あの……どうしてそんなに邪険にするんですか」
考えるよりも先に口が動いている。
どうしてそんな風にウィズの事を追い払うようにするんだろう。
この間来た時も、ものすごく険悪な雰囲気だったし。
不思議なものを見るような目で神官長様がこちらを見て、小首を傾げる。
ウィズは先程までとは違う種類の笑みを浮かべて、じっとこちらを見ている。
「聞きたかったんです。ずっと。どうして神官長様が祭宮様に厳しい事を言うのか」
そこまで言うと視線を感じたので、壁際に立つ神官たちに目を向ける。
一様に皆絶句したような表情をしている。シレルを除いては。
「そういうお話は、この場でする必要があるのかしら」
まるで私が不躾であるかのように言い、神官長様は話を切り上げようとする。
これですみませんなんて謝ったら、全部また誤魔化されておしまいになる。
「そうですね。非礼がありましたら謝罪いたします。祭宮様、ご不快な思いをさせて申し訳ありません」
そう言うと、満足そうな笑みを神官長様が浮かべる。
「でも、知りたいんです。どうして神官長様は祭宮様を邪険になさるんですか。私にはその理由がわかりません」
「あなた……」
絶句した神官長様を尻目に、今度はウィズに向き合う。
「祭宮様。私には全くわかりません。どうして神官長様に何を言われても黙っているんですか。言い返せないような何かがおありなんですか」
ウィズはゆったりとした動作で座りなおし、笑みを浮かべながらこちらを見ている。まるで傍観者と言わんばかりにくつろいで。
全く答えるつもりはないらしい。
お手並み拝見。そう言っているように感じる。
目の前の二人は何も言おうとしないので、ゆっくりと自分の中にある気持ちや言葉を思い起こす。
もしもレツだったら、今なんて言うんだろう。
レツの声が聴こえる私の言葉、レツの声が聴こえない私の言葉。
今本当に必要なのはどちらなんだろう。
だけれど、そんなこと考えていてもしょうがない。
レツ。ほんの少し、力を貸してね。
視線を奥殿へと移し、レツに声を掛ける。
「失礼を承知でお伺いします」
もう笑みはいらない。
真っ直ぐにウィズを見つめる。
「あなたは私たちを害する存在なんですか。祭宮様」
そんなことは無いってわかっている。私は信じているもの。あの手紙に書いてあったウィズの言葉を。
だけれど、それは口には出せない。
でもこんな事を言い出したら、あの二枚目の手紙に書いてあったことを私が信じてないって思うかな。
じーっとウィズの目だけを見つめる。
ウィズもじっと私だけを見つめている。
普段ウィズと目が合ったら、それだけで恥ずかしくてこそばゆくて目を逸らしたくなるけれど、今は一瞬たりとも目を逸らしたくない。
この瞳が語ろうとしているものを見逃したくない。
「何て事を言い出すの、巫女」
擦れて声が裏返った神官長様に目を移す。
何でだろう。
いつもは緊張して粗相の無いようにとドキドキするのに、今は神官長様が怖いとも思わない。
神官長様がするように、さらっと髪の毛が音を立てるのを耳で聞きながら首を傾げる。
「何か間違った事を言っていますか。私には神官長様の態度は、祭宮様に対して何らかの含みがあるものに思えますけれど」
珍しく視線を逸らしたのは神官長様のほう。
「難しい言葉なんてわかりませんし、言葉の裏を読むようなことも私には出来ません。ですから率直にお伺いしたんです」
もう一度ウィズの方を見る。
その表情は穏やかで、安心させるような笑みを浮かべている。
大丈夫。間違ってない。きっと今聞いてもいいんだ。
「あなたは私を殺そうとしたわけじゃないですよね」
「巫女っ。なんて事を言い出すのっ」
動揺した神官長様へと視線を巡らせる。
その途中で視界に入った神官たちも、驚愕の表情を浮かべている。
「じゃあ神官長様はどう思っていらっしゃるんですか。なら、今、私を祭宮様とこの部屋に二人きりにしていただけますか」
神官長様が絶句するのを見届けてから、ウィズに目を向ける。
しばらくの沈黙の後、ソファから立ち上がる。
立ち上がって、全員の顔が見えるように窓枠に手をつきながら奥殿を背に立つ。
全員の視線が集まっているけれど、今はドキドキもしないし、すごく頭の中が冷静になっている。
今、レツの声は聴こえないのに、何故かとても近くにレツの存在を感じる。
背を向けている奥殿の気配が、そっと後押ししてくれている。
「答えが無い事。それが神官長様のお答えですね」
ふっと鼻で笑うと、ウィズに目を向ける。
「ということのようです。祭宮様。弁明なさいますか」
「弁明?」
ウィズが私にしか見えないせいなのか、その表情を意地悪そうな笑みに変えて値踏みするような瞳で私のことを見る。
「私は別に巫女様が信じて下さっているのなら、それで十分ですよ」
あの言葉を信じているかどうか、真意を測ろうとしているのかしら。
『例え世界を敵に回しても、お前を傷つける者は排除する』
それを私が信じているのかどうか。
ウィズの決意に対して、私がどう答えるのか。
なんて答えたら良いんだろう。どう言えば伝わるんだろう。
片目たちは、どうして私がウィズを信じられるのかがわからないといった様子だった。
今ここに片目はいないけれど、でもここにいる誰もが多少なりともウィズの事を疑っている。
誰がなんと言おうとも、私はウィズを疑ったりする気持ちは起きなかったし、きっとこれからもそうなんだろう。
バカだって言われるかもしれないけれど、裏切られる事になるのかもしれないけれど、私はウィズを疑ったりしたくない。
「例え誰もがあなたの事を敵だと言っても、この神殿を守ってくださる限り、私はあなたを信じます」
一呼吸置いて、ウィズに微笑む。
「信じていいんですよね。祭宮カイ・ウィズラール殿下」
「あなたの信頼に足るだけの存在であり続けましょう」
ウィズが真顔で答え、ゆったりとした動作で跪く。
臣下が忠義を示すかのような態度に、足が動く。
跪いたウィズの前にしゃがみ込み、ウィズの腕を掴んで立ち上がらせる。
見上げたウィズの顔は、今までとはどこか違うように見える。
それが何故なのかはわからないけれど。
「頭を下げないで下さい。あなたは私に仕えているのではないのですから」
ものすごく近い距離にいるのに、胸は高鳴らない。
冷静にウィズの瞳を見上げる。
「膝を折らず、対等に。同じ高さで協力者として話をしましょう。私はあなたに傅いて欲しいわけじゃないんです」
ウィズが笑う。
その笑顔は私にしか見えない。
祭宮としてではない、ウィズの笑顔。
「それはわたし個人への信頼と思ってよろしいのですか。それとも王家への信頼ですか」
「解釈はご自由に」
ウィズに笑い返す。
多分、これで十分だ。ウィズには伝わっている。
「どうぞお掛け下さい。そして教えて下さい。外で何が起こっているのかを」
神官長様は一切口を挟もうとせず、他の神官たちと成り行きを見守っている。
「端的に申し上げますね。私たちにはいくつかの懸念があります」
敢えて私たちと言ったのは、控えている神官たちと神官長様への配慮があったというわけではない。
けれど不思議と複数形になってしまう。
「私たちの得た情報によると、戦乱と天変地異でかなりの被害が民と国土にあるとのことですが、その辺りはどうなんでしょう」
ウィズは祭宮の顔で、思案するように目線を宙に動かす。
暫く考え事をするように一点を見据えてから、再び視線をこちらに戻す。
「事実です。被害状況を詳細に知りたいとおっしゃるならば、報告書を後日お届けいたしましょう。端的に申し上げれば被害は甚大です」
一呼吸置いてから、ウィズが付け加える。
「巫女様のご出身地の辺りは被害が殆どありませんのでご安心下さい」
その言葉に思わず深い溜息をついてしまう。
良かった。
ママもみんなも無事なんだわ。
ほっとして気が緩むと、ウィズが目元を細めて穏やかな顔をする。
「知らせて下さって有難うございます。では報告書を急ぎではなくて結構ですので、宜しくお願いいたします」
「畏まりました」
ウィズが小さく頭を下げる。
そんな事しなくてもいいのに。
「それから、これが一番気になっているんですけれど」
言ってから、長老の方を見る。
聞いてみようと思ったものの、本当に勢いで聞いてもいいのかな。
そういう気持ちを籠めて長老を見ると、長老が深く頷き返す。
シレルも助手も熊も傭兵もカカシも、みんなゆっくりと頷く。
背中を押してくれる人たちがいて、心が軽くなる。
「軍がこちらに向かっているというのは事実ですか」
「巫女っ」
被せるように、神官長様が悲鳴のような声を上げる。
その声の主へと視線を動かすと、顔は青褪めて手許は震えている。
「そのような失礼な事を。ご自分のお立場をわきまえていらっしゃるの」
ヒステリックな声を制するように、静かな声が神官長様を諭す。
「構いませんよ。巫女様はこの国にとって至上の存在。問われればお答え致します」
私の事を立場の低い者だという神官長様に対し、ウィズは高位の存在だからと言って返す。
二人の基本的な私への対応は、その考えが根底にあるのだろう。
ウィズの言葉に、神官長様がまた黙り込んでしまう。
きっと神官長様の中では、私はずっと立場の低い、例え水竜の巫女だとしても下賤の存在なんだろう。
庶民の出だっていうことは覆しようがないわけだし。
けれどその考え方は間違っているのだと、ウィズが否定する。
否定され、神官長様は口を噤んでしまう。
「この国の大半の軍勢は、ご存知のように隣国との戦に駆り出されています。残っているのは全軍の1/5と近衛です」
「近衛?」
「ええ。王族の身辺警護を主としている者たちです。軍の中でも選りすぐりの者たちと言ってもよいでしょう」
何故そのような事を切り出したのかわからず、相槌を打って続きを促す。
「現在動いているのは近衛です。私が動かしました。今、軍を動かせるのは私しかいませんから」
片目の言葉が頭の中を巡る。
『出来る事なら神殿を手中に』
『何らかの意図があると邪推されても仕方の無い』
信じているけれど、一瞬心の中に冷たいものが流れる。
部屋の中にぴーんと緊張感が張り詰める。
「恐らく、今後民による動乱が神殿の周囲で起こるでしょう。その牽制の為に、軍を動かしました」
頭の中が真っ白になる。
民による動乱?
それって一体何なの?
どうして神殿の周囲で起こるの。何で。どうして。
「水竜への不信が広がっています。警備を強化することを進言致します」