10
恭しく供物を捧げ持つ神官から一つ一つ供物を受け取り、奥殿へと続く回廊の前に出来上がった祭壇に供えていく。
全ての作業が終わると供物を持ってきた神官たちは一礼して去り、熊とシレルだけが残る。
三人で出来上がった祭壇を眺める。
一人で作った時よりもずーっと立派な気がする。
何であんなに汗水垂らして作ってたんだろう。毎年こうすればいいのに。そのほうがしっかりと祭壇も作れるし、供物だって沢山捧げられる。
そう言うと熊が苦笑する。
「巫女様にご負担をかけますが、少しでも水竜様のお傍にお供えさせて頂きたいと我々は考えております。祭壇の立派さよりも大切な事があるのではないかと思うからです」
その言葉に目先の大変さだけを考えた浅はかさを咎められたようで、赤面する。
「そうですね、来年は奥殿に作れるといいですね」
そう返答すると、にっこりと熊が笑って一礼する。
「巫女様。この後来客の予定がございますので、お部屋にそろそろお戻りになりませんと」
シレルの言葉で、今日ウィズがくることを思い出す。
「そうでしたね。では、また後程」
もう一度頭を下げた熊に背を向けて、自分の部屋へとシレルと共に向かう。
明日から大祭が始まる。
あっという間に一年が経ってしまった。
結局レツの声は聴こえるようにはならなかったし、奥殿へと行く事も出来ないまま大祭を迎える事になる。
ご神託を言わなくてはいけないという不安は今も変わらずあるけれど、それ以上にもう一度あの大木を越えて奥殿へ行く事のほうが怖い。
擦り傷と切り傷だらけで部屋に戻った私に、長老と助手から雷が落ちた。
決して一人で無理をして奥殿へ行こうとしないことと約束させられたのは、かえって好都合だったかもしれない。
何がそんなに恐怖感を煽るのかわからないけれど、あそこに入ってまた「何か」と対峙すると考えただけで全身に震えが襲ってくる。
もしかしたら「何か」と対峙しなくてはレツには会えないのかもしれない。
だけれど一人っきりであそこにもう一度いく勇気はない。
どうして大木を越えたりなんて出来たんだろう。今はそれすら不思議でしょうがない。
神官長様の執務室でウィズと向き合うと、ウィズはとてもにこやかな笑みを浮かべる。
数ヶ月前に言っていた「成すべきこと」は終わったのだろうか。
きっと終わったのだろう。だからそんな風に笑っていられるんだろう。
ウィズの笑顔とは対照的に、神殿の中の状況は全然笑えるような状態じゃない。神殿の中じゃなくて、私だけかな。
「こんにちは、祭宮様。お元気そうですね」
いつものように挨拶をして近付くと、ほんの少しだけウィズの頬がこけているような気がする。
「あれ、痩せました?」
お元気そうなんて言ってから気が付いて挨拶の言葉に付け足すと、ウィズの目を細めて笑う。
「大丈夫ですよ。ご心配頂いて有難うございます」
それ以上は答える気が無いのだろう。いつものようにソファに促されるので、こちらからそれ以上問いかける事はしない。
ソファに座るとシレルがお茶を運んできてくれるので、そのお茶に口をつけて喉を潤す。
祭壇を作ったりバタバタしていたので、お茶を飲む時間すら無かったから。
「巫女様はお変わりありませんか」
ウィズの問いかけに、一瞬奥殿に行く途中で怪我をした事が脳裏に浮かんだけれど、それは言うべき話じゃないと思ったので口には出さない。
「ええ。最近は体調も良くて、なんとか大祭をこなせそうです」
「そうですか」
ふっとウィズの表情が曇る。なんだろう。何か言いたげだけれども。
「色々やる事があるとおっしゃていましたが、そちらは終わったんですか?」
この間言っていた、大祭までに片付ける事があるというのはどうなったんだろう。
それが何なのかはわからないけれど、曇った顔に籠められた何かを聞くのも怖くて違う話を振ってみる。
少し表情が和らいで、ウィズが苦笑いを浮かべる。
「全部片付きましたと言いたいところですが、あと一押しといったところでしょうかね。力不足としか言いようがありませんね。片付いていれば、良かったんですが」
それだけ言うと、また険しい顔つきに戻ってしまう。
ウィズがやろうとしていることがどういう事なのかもわからないので、それ以上何も言えなくなってしまい、部屋の中には重たい空気が流れる。
「大祭は例年通り行う予定ですか」
ウィズのその言葉で、部屋の中の雰囲気は一転して軽くなる。
「ええ。そのつもりです。明日から三日間の予定ですわ」
神官長様の口調も明るく、にこやかにウィズに語りかける。
「あー……」
何かを言いかけ、それからウィズが顎を指で掴むようにして考え込む。
ぐるりと宙を見回し、奥殿が見える窓の方を向いてから、すーっと息を大きく吸い込む。
「大祭、規模を縮小する事は不可能でしょうか」
言いにくそうに切り出したウィズに対し、神官長様はあからさまに眉をひそめる。
「どういう意味かしら。祭宮殿下」
不快感をあらわにしたような言い方にウィズが小さく溜息をつく。
「外の情勢を考えますと、例年通りに大祭を行う事には危険が伴うのではないかと容易に想像出来ますが、神殿の皆様はどのようにお考えでしょうか」
壁際に居並ぶ神官たちをも見回し、ウィズが神官長様に問いかける。
大祭を行う事が危険って。私、そんなこと聞いてない。
そんなに外の情勢は酷いことになっているの? 傭兵も長老も何も言っていなかったのに。
視線を長老に送ると、表情を曇らせて首を縦に振る。
そっか。あんまり良くない情勢なのね。
そんなことは今まで一言も言っていなかったのに。
といっても、話し合う機会を拒絶していたのは私だから、あまり文句は言えないのかもしれない。
神官長様からは幾度と無く円卓の間での話し合いを打診されたけれど、体調不良等を理由に断り続けたから。
どうしてもあの場所で神官長様と話し合う気にはなれなかった。
子供じみていると思うけれど、あそこは私だけの特別な場所であって欲しかったから。
だから神官長様が最初にあの場所に来られた時に、大切にしていたものが壊れてしまったような気がした。
あの場所に集まっていた神官にだけ、心の中を打ち明けていたのに。信頼していたのに。
そんなことを思ってもしょうがないのに、どうしても神官たちに対しても恨みがましい気持ちになってしまう。それが自分の器量の狭さを示しているとわかっている。
醜い自分を見つめる事からも逃げ出して、奥殿の「何か」からも逃げ出して、一ヶ月の間部屋に篭りきりになっていた。
また書庫に行って、あの場所で神官長様と遭遇するのさえ嫌だった。
何がそんなに拒否反応を起こしているのか、自分自身でも掴めないでいる。
「わたくしは例年通りに行うつもりですわ。外がどうであれ、神殿の中に入れる人数も限られていますし、神殿の警備の者も祭宮殿下の配下の軍もいることですから大事には至らないと思いますわ」
「楽天的ですね、神官長様は」
ウィズの表情があからさまに曇る。
険しい顔で神官たちに目を向けて、それからこちらの方を向く。
「巫女様はどのようにお考えですか」
振られてしまって、返答に詰まる。
どうもこうも、何にも考えていなかったから。
明日から大祭だな。ご神託はどうしたらいいんだろう。レツの声が聴こえないのに。
それだけが懸案であって、大祭そのものをどうするかなんて考えてさえいなかったから。
「私は……」
促されて答えようとしたものの自分自身の中に答えがないので、それ以上何も言えなくなってしまう。
呆れたような表情で溜息をつくウィズに対し、何ともいえない罪悪感のような気持ちと恥ずかしさがこみ上げてくる。
巫女としての私の意見を聞いてくれたのに、それに対して何も答えられないなんて。
自責の念ばかりが強くなる。
「水竜様はどのようにお考えなんでしょうか」
ウィズの言葉に、部屋の中の空気が凍りつく。何気ない言葉に、誰もが息を呑む。
それに対する答えは無い事を、ウィズ以外の全員は知っていたから。
文字通りしーんと静まり返った部屋の中で、唾を飲み込む音が響いた気がする。
どうしよう。
レツがどう思っているかなんて、答えられない。
正直にレツの声が聴こえないって言うべきなんだろうか。でもそれを言っちゃったら。
ぐるぐると考え、どうしようどうしようで頭が一杯になっていると、よく通る声が部屋に響く。
「水竜様にお伺いする必要はありませんわ。大祭は水竜様を崇めるお祭りであって、わたくしたち人間が主体となって行うもの。それを水竜様がやれとかやるなとか口出しすること自体がおかしいですわ」
何かを言おうと口を開きかけたウィズに、神官長様は更に畳み掛ける。
「どれだけわたくし共が水竜様を大切に思い、そして感謝の気持ちを持っているのか。それを示すのが大祭の意義。そして今年の五穀豊穣を願うという目的もあります。やらないわけにはいかないのではなくて」
首を傾げてウィズに微笑みかける神官長様は、言外に文句なんて言わせないと言わんばかりの迫力がある。
正直助かった。
こんな風に上手く切り抜けること、私には出来ないもの。
「ということは、神殿の方々は大祭を強行されるおつもりですか」
「強行とは随分な言い方ですこと。わたくしたちは誰に咎められる謂れもありませんわ。水竜の神殿として粛々と行事をこなすだけのことですもの」
鼻で笑ってウィズをあしらう。
確かに、神官長様のおっしゃるとおりだ。理にかなっている。これではウィズも口を挟む余地がないだろう。
ほっとして計らずも溜息が出てしまう。
神官長様のおかげでご神託を言わなくて済んで良かった。
それに神官長様がおっしゃるように、神殿で行う年中行事のことを外部から口を挟まれるのはあまりいい気がしない。
「粛々と、出来るとお思いですか。この状況下で」
ウィズが目を吊り上げて神官長様に問いただす。
「何も大祭をやるなとは申しておりません。暴動が起こり巫女様や神殿の方々へ危害が加えられる可能性もあるというのに、そう暢気に構えておられるのはいかがなものかと思いますが」
「暢気ですって? わたくしは警備の者や近衛の兵を信頼しているだけですわっ」
キっと神官長様がウィズを睨みつける。
「ではあなたは外の状況をその目でご覧になられたのか。その上でそう言い切れるのか。あなた自身のその目で確かめてからおっしゃって頂きたい」
「まあっ、何て失礼な」
神官長様が目を見開いてウィズを非難する。
そんなに強く言うなんて、よっぽど外の状況は悪いんだろうか。
でも、大祭をやりたい。
私にはもう大祭しか希望の糸は残っていない。
だって、ここまで色々考えたり策を講じたりしてきたつもりだけれど、結局レツの声を聴こえるようにはなっていない。
だからもしかしたら大祭というきっかけがあれば、何か変わるかもしれない。
誰にも言ってはいないけれど、心の中にそういう期待感がある。
奥殿へ行く事は怖いけれど、一年に一度の最も大きなお祭りで礼拝堂でお祈りをしたら、もしかしたらレツの声が聴こえるようになるかもしれない。
何の確信があるわけでも、前例がある訳でもないから、誰にも言ったりはしていないけれど。
ウィズが言う規模の縮小というのがどういったものを示しているのかわからない。だけど大祭をしないっていうのだけは受け入れられない。
「規模を縮小というのは、どの程度のものをお考えなのでしょうか」
やめろとは言っていないので、ウィズに問いかけると、少しほっとしたような表情でこちらを振り返る。
「例えば礼拝の回数を減らすとか、礼拝堂への一般人の入場を規制するといったものです」
それは、私には判断できないな。
咄嗟に熊のほうを振り返ると、険しい表情で何かを考えているようだった。
傭兵も眉間に皺を寄せたまま考え込んでいる。
それに表向きの事は神官長様に指揮権があるので、私がどうこう口出しする事は出来ない。
「あの、個人的な意見なのですけれどいいでしょうか」
「どうぞ」
「まず礼拝の回数を減らすということですけれど、参拝者が多い場合には寧ろ回数を増やすのが通例です。それと年に一度の大祭で、こちらに来て大祭に参加する事を楽しみにしていらっしゃる方もいるかと思いますので、一般の方の入場を規制するというのも難しいのではと思います」
「まあ、そうでしょうね」
否定もせずにさらっと受け流されてしまう。
神官長様はどう思っていらっしゃるんだろう。
そう思って表情を伺うと、らしからぬ険しい表情を浮かべている。
「端的に申し上げますわ。あなたの配下をもってしても、民を抑えられない可能性が高いという事かしら」
「武力という面で押さえつける事は可能です。しかしそれを行う事はかえってこの国の傷を広げる事になりますから、そのような命令は出せません」
ふうっと溜息をついてウィズが続ける。
「国益と神殿の皆様の安全を考慮した結果、このような提案をさせて頂いております」
少しへりくだった言い方をしたせいか、神官長様の肩の力がふっと抜ける。
「そう。そうね、考えておきます。明日までにお答えするのでよろしいかしら」
暫くの間があってから、ウィズがゆっくりと頷く。
「明朝までにお願いいたします」
「わかりましたわ」
どのような結論が出るのかわからないけれど、私は大祭という大きな節目の行事をこなす事に集中しなくちゃ。
話もまとまったようだったので、二人に挨拶をしてその場を退席する。
部屋に戻って着替えた後、シレルに声を掛けると私が座っていた椅子の傍まで歩み寄り、ゆっくりと膝を床に付ける。
「そんなことしなくていいので、少しだけ話を聞いてもいいですか」
「いえ。わたしはこれで結構です。お気遣いありがとうございます」
せめて椅子に座ってくれたらいいのにと思うのだけれど、ずっと頑なに拒絶され続けているので、これ以上無理にはすすめない。
「祭宮様がおっしゃっていた事なんですけれど」
「はい。外の情勢があまり良くないということですね」
「何か聞いていますか」
打てば響くようなシレルの返答が止まって空白の時間が流れる。
表情はそのままで、少しだけ首を傾げるように動かすだけで、何を考えているのか読み取る事は出来ない。
「巫女様にご心労を与えても良くないだろうという判断で、今までお話するのを控えておりましたが」
意を決したかのように顔を上げると、シレルは普段以上に饒舌になり話し出す。
「大祭を目前にして、国中から水竜様のご加護を求めて神殿に人々がやってきております。例年よりもかなり多い数です。元々難民となった人々が神殿の周りに仮住まいの居を構えておりましたし、昨年の数倍の数になっているかもしれません」
「そんなに」
「はい。早い時期から神殿を目指してきた難民たちは特に強く水竜様の奇跡を求めておりますし、この大祭になんとしてでも参加したいという想いが大変強いかと思います。行き過ぎた想いから暴動が起こる事もあるようですが」
シレルの話に相槌を打つ事しか出来ない。全く想像していなかった話だったから。
ううん、そういうことがあるのは知っていたけれど、自分には無関係だと思っていたのかもしれない。
「ですので礼拝堂の前には既に多くの人が列を成しています。我先にと礼拝堂の中へと駆け込むかもしれません。その結果怪我をする者もでるやもしれません」
「はい」
「ただでなくとも水竜様、ひいては巫女様へ求められているのは奇跡です。礼拝堂の中で怪我人が出た場合、目の前で奇跡が起こる事を求める声が高まるかもしれません」
「はい」
「残念ながら、我々にはその民の声を無視する事は出来ません」
「事実は事実としてありのままの全てを受け止め、水竜様へと祈る」
そう返事をすると、シレルが更に言葉を紡ぐ。
「その通りです。巫女様。私共に出来る事は、より多くの声を水竜様にお届けする事だけ。その為に何が最善なのか、わたしには判断が出来ません」
最後に呟くように言った言葉はとても重たくて、そして泣きたい気持ちにすらなる。
水竜の神殿として、年に一度のこの機会を待つ全ての人に大祭を同じ場所で祝って欲しいと思う。
けれどそれには様々な危険が伴うし、怪我人を出してしまうかもしれない。
何よりも今、私はレツの声が聴こえないから、何かあったとしても対応しきれない。
レツの声が聴こえたら、それなりの対応をとることも可能かもしれないのに。
深く沈むシレルの表情が、決してお祭り気分だけでは迎えられない明日を予感させた。
そして何かを暗示するかのように、空には暗雲が垂れ込めていた。
大祭の日に悪天候に見舞われるなんて事、カカシ曰く「神殿開闢の頃からありません」ということらしい。
どうなるんだろう。大祭。