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季節は巡り、神殿を覆う雪たちが少しずつ小川へと姿を変えようとしている。
例年よりは遅い雪解けで、緑の若芽はまだあまり増えていない。
本来なら春と呼べる頃なのに、未だ冬の気配を色濃く残している。
「片目は、まだ戻らないですか」
「はい。そのようです」
初めて円卓の間で話し合いをして数日後、片目は神殿を出て自ら情報収集の旅に出てしまった。
雪解けの頃に戻りますと言い残して。
定期的に報告が届いているから元気なのかもしれないけれど、長い不在に不安になる。
「きっとまだ雪の壁が峠をふさいでいるのでしょう。もう少し暖かくなったら戻ってくると思います」
淡々と述べるシレルを仰ぎ見、「そうね」とだけ返す。
もう何日もこんな会話をしている。
結局のところ、熊やカカシが熱心に色々調べてくれたけれど、レツを救う手立ては見つけられなかった。
何か手がかりが見つかるだろうと思っていたから、毎回円卓の間に集まるたびに、みんな溜息をついた。
「慣例も実例も無くては、一体我々はどうすべきなのでしょうか」
呟くように言った傭兵の言葉が、胸にトゲのように突き刺さっている。
レツを助ける方法はないのだろうか。
もしかしたら片目が何かを見つけてきてくれるかもしれない。
私たちは心のどこかで、片目が帰ってきて朗報をもたらしてくれると信じている。
それはごくごく僅かな可能性でしかないことはわかっているのだけれども。
深呼吸をして、椅子から立ち上がる。
「行きましょうか」
「畏まりました」
シレルを伴い、奥殿へと続く回廊へと向かう。
どんなに春が来るのが遅かったとしても、春が来たら巫女としてやらなくてはいけないことがある。
その為に奥殿へと続く道を行くと、丁度回廊の前で熊の姿を見つける。
普段はそれぞれの仕事があるので、特に用があったり、長老からの召集が無い限りは顔を合わせることなんてないのに。
どうしたんだろう。
熊はこちらの姿に気が付いたようで、深々と頭を下げる。
「こんにちは」
当たり障りのない挨拶をすると、熊が顔を上げて微笑む。
「お元気そうで何よりです。巫女様」
「ありがとうございます。それよりも何か御用でも?」
こんなところに熊がいるなんてありえない。彼の主な職場は祭壇や礼拝堂のはずだもの。
今までここで姿を見たことなんてないし。
「いえ、文書の中にある奥殿への参道の整備というものがどういったものなのか、個人的に興味がありまして。拝見させていただければと思い、参りました」
成程。熊らしいといえば、熊らしい。
「でも、見てもつまらないですよ。きっと」
ただの肉体労働でしかないんだもの。前殿と奥殿の間の雪かきをして、雪の重みで折れた枝を片付けて、掃き清める。
それは、ただの掃除と何ら変わりは無いと思うのだけれど。
「百聞は一見にしかずですよ。巫女様」
にっこりと微笑む熊に笑い返して、見えないように溜息をつく。
きっと何を言ってもムダだわ。
シレルに目線を送ると、無言で軍手とスコップを渡される。
「何、それ」
熊の驚愕の声は、私じゃなくてシレルに向けられている。
「参道を清める道具ですが」
目を見開いたまま固まる熊の様子を気に止めることもなく、シレルは参道に続く道の脇に置いてある台車を指差す。
「あちらに台車も用意しておきましたが、どうぞご無理をなさいませんよう。少々でもお体に異変がございましたら、わたくしにお声をお掛け下さい」
倒れて寝込んで以来、すぐに高熱を出して寝込むことが増えたので、シレルの言葉に素直に頷く。
ちょっと無理をしても大丈夫かななんて思うと、何日も寝込む羽目になる。
「5メートル。さすがに10メートルは無理でしょうか」
「始めから根を詰めると疲れてしまいますから、ゆっくりでよろしいかと存じます」
「そうですね」
まるで彫刻のように固まって動かなくなってしまった熊の横をすり抜け、参道に足を踏み入れる。
冬の間、誰一人として足を踏み入れる事の無かった道は、積もった雪が凍り付いていて、本来そこにあるべき飛び石の姿は見えない。
胸まで高さのあるスコップに足を掛け、ざくっと雪の塊に楔を入れる。
レツに会うためには、まず物理的障害を片付ける事から始めなくてはいけない。
だけどそれでも何かがレツの為に出来るのなら、少しだけ気持ちが楽になるのも嘘じゃない。
ザクザクと雪を掘り返して台車に積む作業をしていると、熊がぼそりと呟く。
「まさに重要な事は一文で済ませてある」
手を止めて熊の方を振り向くと、苦笑いを浮かべる。
「すみません、独り言のつもりだったのですが」
「いいえ。そろそろ休憩したほうがいいかなとも思っていたので」
スコップを立てかけ、軍手を外す。
本当はまだ疲れているわけではないけれど、最初から根を詰めてもきっと疲れてしまうから、このくらいで一度休憩したほうがいいかもしれない。
「カカシが言っていた事ですか? 重要な事は一文でっていうのは」
「ええ。その通りです。巫女様」
苦笑いをしたままの熊が、バツの悪そうな顔で頭をかく。
「雪解けの頃、参道の整備をし、奥殿への道を開く。これでおしまいなんですよ。今、巫女様がなさっている作業は」
「そうなんですか。その一文からは、こんな肉体労働は想像つかないですね」
笑い返すと、熊が微妙に笑いの種類を変える。
しかしその顔からはあっという間に穏やかさは消える。
「どんな事を隠しているのでしょうね。水竜の神殿を建立したという一文の中に」
「さあ。想像もつきません」
数ヶ月前、目の下にクマを作ったカカシが沢山の本を抱えて円卓の間に入ってきた。
そして開口一番。私たちの希望を打ち砕いた。
「奥殿建設に関わる、一切の資料がございません。それどころか、水竜の神殿の建設に関わる資料は全くありませんでした」
それは謎を解明しようと思っていた私たちにとって、信じられないような一言だった。
「それはおかしいのう。水竜の神殿創設のあらまし等の古文書は残っているというのにのう」
こくりとカカシが頷き返す。
「いかに水竜の神殿が重要か、水竜がこの国にとって無くてはならない存在か。創設の所以に関してはかなりの数が残されています。ここにお持ちした物もその一部です。しかし一方で、初期の水竜の神殿がどのような姿をしていたのか等の記載のある文書が一つもありません」
「図面は?」
助手の問いかけに答えたのは傭兵だった。
「古来より警備の関係上、地図の類の製作は禁止されている。外部への情報漏えいを恐れてな」
「しかし、これだけの建物を建築するにあたって、図面もないというのはおかしくないですか」
助手の言葉に、部屋の中が静まりかえる。
「誰かが隠匿したのかもしれませんね、意図的に」
シレルが暫くの間を置いてから、呟くように言う。
それぞれの心の中にあった疑念が、その言葉でしっかりとした形になる。
昔、誰かが何らかの意図を持って、奥殿および前殿の姿を隠そうとした。
何の為にそんなことをしたのだろう。
どうしてそんな事をする必要があったんだろう。
「しかしのう、建設時のゴタゴタの最中に失われてしまったのかも知れん」
かなり疑わしい気持ちになっていた私たちを諌めるかのように、長老が呟く。
だけれど、一度疑ってしまったので、そのような偶然でこういう結果をもたらしたとは思えない。
一冊ならともかく、全ての書物に建設に関わる記述が無いなんておかしいもの。
誰が。何の為に? 考えても当然のように答えは出てこない。
何にせよ、私たちは永久に奥殿の真の構造を知ることは出来ない。
奥殿の二重構造について解明できたら、何か解決の糸口が見えてくるかもと思っていたのに。
「では、アプローチの方法を変えるしかありませんね」
「どのようにだ」
熊の言葉に傭兵が体を乗り出して聞く。
「二つの奥殿の真相がわからなければ、次は始まりの巫女の言葉でしょうね」
「どういう意味だ」
「水竜様は血に酔うとわざわざ言い残された所以です。何かあるからこそ、そのような言葉が後世まで伝わっているのでしょう」
「成程な」
短い言葉で同意を表し、傭兵は腕組みをする。
「水竜様は血に酔う。その答えはすでにわかっています」
カカシは目を閉じ、まるで吟遊詩人の語る物語のように、水竜と始まりの巫女の話を紡ぎだす。
水竜様は人を喰らう生き物であるというのは、ご存知かと思います。
年に一度の祭りで捧げられた命。
それを喰らい、血を貪るケダモノ。
人が忌避する存在であった水竜様。
ある時、考えた挙句に水竜様に一つではなく、複数の命を献上したことがありました。
かなりの旱魃と凶作で、人民に多大なる影響が出ていた年だということです。
多くの命を捧げれば、それだけ大きな平穏が訪れると考えたのでしょう。
両手足の指、すべての数よりも多い犠牲者が出たそうです。
結果、水竜様は血に酔い、正気を失われたと文献にはあります。
「で、どのようにして水竜様は正気に戻られたのだ」
結論を急ぐ傭兵の言葉に、カカシは目を開いて首を振る。
「その後水竜様は正気に戻られ、大地には平和が訪れたとのみ記載されています」
「それだけか」
「それだけです」
誰がついたのか、部屋中の全員がついたのか、大きな溜息の音が部屋に響く。
そこに手がかりはあったはずなのに。
何でそんなに短い一文で終わってしまっているの。
「正気に戻したのは、始まりの巫女だったんですか」
シレルの言葉に、カカシはまた首を横に振る。
「書いていない。誰が正気に戻したのか。それはいつの事だったのかも。ただそういう事実が過去にあったという記載があるだけなんだ」
長老はうーんと唸り声を上げて、頭を抱えてしまった。
「わしらは水竜様の事を知っているつもりでおったが、何も知らないという事じゃな」
「残念ながら」
短いカカシの言葉は、私たちを打ちのめすのに十分すぎるほどだったのに、更に追い討ちをかける。
「重要な事は一文で済ませてありました。建国王及び始まりの巫女は水竜の神殿の建立を決意した。数年後水竜の神殿が立ち、信仰の中心となる。これが、水竜の神殿建立に関わる一文です」
もう誰も、何も言えなくなってしまった。
それからも何度か円卓の間で片目を除く全員が集まったけれど、結局何にもわからずじまいだった。
「百聞は一見にしかず、なんでしょうけれどね。我々には打つ手がありませんね」
熊はニコリともせずに、参道の奥を見つめている。
確かに、水竜の神殿を建設する現場を見られたならば、探している答えはあっという間に見つけられる。
だけれど、そんな事出来るはずも無い。
そんな非現実的な事に思いを馳せてしまうなんて馬鹿馬鹿しいと、熊を一蹴する事は出来ない。
私自身、そうできたら良かったのって思うもの。
この奥に、全てを知りえる存在である水竜がいる。けれど、その水竜の声を今は聴くことが出来ない。
確かに熊の言うように、どうしようもない。
八方ふさがりで、答えのわからない問題を前に頭を抱えるばかりだ。
「でも、それでも、きっとやるべき事をやっていれば、見つかる事があるかもしれません」
そう信じたかった。
この道を全て清めたら、レツのところへ辿り着けたら、もしかしたら答えがわかるかもしれない。
今は自分が出来ることを粛々とこなすしかない。
「続きをやります」
熊に告げて、少し表面の見えてきた参道へ足を進める。
この雪を全て掻き分けてレツのところまで道を作れた時、きっと未来が見えてくる。
ザクザクと雪を掘り返し、台車に積んで脇に避けている間、熊は一言も発する事は無く佇んでいる。
もしかしたら何か考え事をしているのかもしれない。
シレルはいつものように淡々と、参道から前殿に寄せられた雪を外に運び出す準備をしている。
見上げた空はどんよりと曇り空で、レツのはじけるような笑顔にはまだまだ遠い気がする。
何だか、レツに語り掛けない事にも慣れてきてしまっている。
慣れって怖い。
最初は絶対に無理だと思っていた巫女にも、今はもう慣れてしまっている。
傅かれる事にも、巫女として振舞う事も。
レツの声が聴こえなくて不安だったはずなのに、今は聴こえないということを受け入れてしまっている。
当たり前って何なんだろう。
村娘のササが、ずっと私にとっての当たり前だったはずなのに、今は巫女であるサーシャが当たり前になっている。
神官服も着慣れているし、巫女の正装になるときに沢山の宝飾品をつけてもらうこと、お化粧を施してもらう事にも慣れている。
本当は、レツの声が聴こえない事に慣れたくなかったのに。
苦しくて苦しくて仕方なかったのに。
もう一度、レツを取り戻したいという気持ちは変わらないのに。
でもどこか少し冷めている自分がいるんじゃないかっていう気持ちが湧き上がってくる。
熱望していたはずなのに。
今は冷静に、レツを取り戻す為にすべき事に向き合っている。
そのことが怖い。
レツがいないことに慣れてしまって、いつかそれが本当のことになってしまうんじゃないかって。
聴こえなくても、レツがいるように振舞う事が出来てしまうんだもの。
もしかして、私が「最後の巫女」になってしまうんじゃないかしら。
不安は、決して消えることはない。
どんなに自問自答しても、答えなんて出るわけが無い。
これでいいんだろうか。
私、これで間違っていないよね。
きっとレツを取り戻せるよね。