第7話「名前」
「あたしは二度と恋はしないって決めているの」
「ほぉ?」
告げた言葉に、環は興味深そうに笑う。
目で続きを促され、ヤエは口を開いた。
「恋をしてしまったら、あたしは後戻りができないから。当たり前でしょ」
「そうか。だからヤエは恋に落ちてしまわないように、俺の名も呼ばないんだな」
流れるようにヤエの隣へと移動した環がヤエの手の甲を撫でる。
ぞわりとした未知の感覚に、ヤエはばっと環へ目を向けた。
楽しげに目を細める環と視線が絡む。
引き寄せられるように近づいてきた環から顔を逸らせば、耳元へ唇を寄せた彼が艶のある声色で囁いた。
「なぁ。俺の名前はなんだ?」
たったそれだけのことで体温が上がってしまったヤエは、顔を見られないよう環とは反対側に向ける。
だがヤエの努力もむなしく、環がヤエの頬に指先をすべらし、顎を掴んだ。
強制的に顔を環へと向けられてしまい、ヤエは目を逸らすしかない。
遠くで黄色い声が聞こえる。
ヤエは自身の視野が狭くなり、環しか見えていなかったと自覚してしまった。
(そ、そうよ、ここ、屋敷じゃ……!)
意識が外野へと向こうとした瞬間に、声が降ってきた。
「俺を見ろ」
有無を言わさぬ声色に、ヤエはそろそろと環に視線を戻す。
すると満足そうな顔が目に入った。
全身が燃え上がりそうなほど熱い。
特に環の息使いがありありと感じられる耳は真っ赤に染まっている。
ヤエの目にはすでに環しか映っていない。
「俺の名はなんだ?」
「……晴嵐」
誤魔化すように苗字を口にする。
しかし、環は気に食わないといわんばかりに眉を寄せた。
「それは苗字だろう? 俺は名を聞いている」
名前を口にするまで離してはくれないだろうと、ヤエは直感した。
二人の間に沈黙が降りる。周りの音すら忘れ、ただ環だけを見つめる。
深海の底に飲まれそうなほど綺麗な瞳に、ヤエは思わず唾を飲んだ。
名前にこだわる理由や、その他のことで話題を逸らすことは出来たはずだった。
だが、できなかった。
ヤエを見つめる目が、それを許してくれなかった。
数回はくはくと口を開閉し、震える声で彼の名を口にする。
「た、環」
「あぁ」
名を呼ばれただけ。だというのに、環はとろけるような笑みを浮かべた。
砂糖を煮詰め、その上に巣蜜をかけたような甘さを含んだそれは、ヤエの心の臓を大きく跳ねさせた。
その表情に胸が高鳴ってしまうのは仕方のないことだろう。
誰だって見目麗しい美丈夫が心底嬉しいと言わんばかりの顔をすればときめくに決まっている。
(ただ、それだけ。この動悸にそれ以上の他意はない、他意はないの)
自分自身にそう言い聞かせた。
のぼせそうな体も、きっと童話憑きのせいだ。
でなければこのそわそわと落ち着かない気持ちに説明がつかない。
ヤエはそっと環から視線を外す。
「環。いつまでこうしてるの?」
「そうだな、口づけをするまでと言ったら?」
「!?」
逸らしたはずの視線が強制的に戻される。
公衆の面前で接吻をされてはたまらない。
明らかに強張ったヤエの身体に、環は苦笑した。
「冗談だ。ヤエの心が決まるまで待ってやる」
彼はヤエから手を離し、言い聞かせるように告げられる。
意外すぎる返答にヤエは拍子抜けしてしまった。
目を丸くして環を見つめれば、彼は不服そうに顔を歪める。
「なんだ。その意外そうな顔は」
「いや、だって、強引に奪われるかと思って……」
意外だと言わんばかりのヤエに、環は心外だと顔をしかめた。
環は呆れたように息を吐く。
「こんな場所でしない」
ヤエが安堵に胸を撫で下ろした瞬間、耳に唇が寄せられる。
「最初の一回ぐらいはな」
いやに甘く、耳に残る言葉だ。
思わず耳を隠したヤエだったが、すでに環の顔はそこにない。
引きかけた熱がまた戻ってくる。ヤエは羞恥心で全身を沸騰させた。
「さ、最初の一回って……そんなはしたない」
「好いた女といて接吻を我慢してるんだ。もっとありがたがってくれてもいいんだぞ?」
「ありがたがるって、言われても……」
我慢していると言われたとて、男性経験のないヤエにとって、環の欲求は未知の物だ。
一般的にどれだけ欲しがるものか分からなければ、ありがたみも感じられない。
ただ知識として、接吻は愛し合う異性がするものだと知っているだけだ。
「俺だって男だぞ。そもそもお前は俺をなんだと思ってるんだ」
「……待てのできない犬?」
「くくっ。晴嵐家の当主にそれ言うか?」
ヤエの返答に、環から甘い雰囲気がなくなった。
肩を震わせて笑いだした環は、心底楽しそうだ。
その様子に釈然とせずヤエは唇を尖らせる。
「環を見極めるための期間でしょ? なのに勝手に婚姻を結んでるし、強引だわ」
「ヤエを手に入れるためならなんだってする」
「あたしが人魚姫だからでしょ。人魚姫じゃなかったら、環はあたしに見向きもしなかったはずよ」
「それを確かめるための期間だろ? だが、これだけは言わせてくれ。俺は人魚姫ではなく、ヤエを愛している」
真剣でからかいの色が一切ない顔で告げられ、ヤエは黙り込んだ。
環は簡単に愛の言葉を口にする。
(軽々しい愛の言葉なんて、信じられないはずなのに……。環が嘘をついているようには見えない)
吸い込まれそうなほど真っ直ぐな濃藍色の瞳に、ヤエは狼狽してしまう。
ヤエに向ける表情だけで嘘偽りではなく、本気なのだと察せられる。
(人魚姫とあたしを切り離して考えることなんて、できるはずない。なのに、どうして……)
環の目に映るヤエの瞳が不安げに揺れる。
不安定な心を誤魔化すかのように、カステイラと手を伸ばした。




