第6話「デヱト」
ヤエは環に連れられて香ばしいような、独特な匂いが漂う喫茶店に来ていた。
温かな雰囲気の店内に、ヤエはキョロキョロと周りを見回す。
流行の西洋館ではないが、和と西洋の良いところ取りをしており、雰囲気がいい。
厨房の奥には、重厚な食器棚が設けられており、ティーカップがこれでもかというほど並べられている。
店内にはちらちらと環とヤエを見比べてはコソコソと話す女性客や、優雅にお茶を飲む客など様々だ。
店長一人で切り盛りしているのか、初老の男性が厨房から環へ声をかけた。
「おう、隊長さんじゃねぇか。今日は女連れかい」
「あぁ。口説いてる最中なんだよ、邪魔しないでくれ」
「かー! 若いねぇ」
適当にあしらった環に、ヤエは首を傾げる。
「隊長?」
「あぁ。晴嵐家の当主になる前から軍部に所属している」
「そうなんだ」
「心底興味がないって顔だな。そんなつれない姿も可愛いが。まぁいい。何を食べる? 店長はああだが、腕は確かだぞ」
厨房から「ああとは何だ⁉」と聞こえたが、環はすまし顔を崩さない。
(店主もそこまで彼の言葉を気にしてないみたい。贔屓の店なのね)
そんな事を考えながら、環から渡されたメニュー表に目を落とす。
しかし、書かれた料理名から食事が想像できず、ヤエは眉を寄せた。
(チヨコレイト、は確かお菓子よね……? サンドウヰッチはかろうじて分かる。って、チキンカツレツが四十銭!?)
目が飛び出そうな金額に、ヤエは固まった。
五十銭あれば一升の米が買えてしまう。
恐る恐る環へと視線を戻せば、楽しげに細められた目とかち合った。
「どうした? 食べたいものが決まらないのか?」
「えっと……」
「……適当に選んでもいいか?」
言い淀んだヤエに、何かを感じたのか環は魅力的な提案を上げる。
明らかにほっとした顔でヤエが頷けば、環が店長へ注文を告げた。
彼の声を聞き流していると、ゴリゴリと削る音が響き始める。
ヤエが突然響いた大きな音に驚いていると、環の口角が弧を描く。
「珍しいか?」
「うん。聞いたことのない音だわ」
「そうか。楽しみにしてろ」
無知をからかわれなかったと驚きつつも、ヤエは料理が提供されるまでの間、環とたわいのないのない話を続けた。
しばらくすると、机に料理が運ばれてくる。
(まさかこんな量が出てくるなんて……)
ヤエの目の前に置かれたのはビフテキとカステイラ、そして先ほどの音の正体である珈琲。
独特だが、どこかほっとするような不思議な匂いがふわりと香る。
ミルクと砂糖も配膳され、ヤエはほとほと困ってしまう。
(どうして飲むのが正解なのか、検討がつかないのよね。珈琲の飲み方なんて、教科書に載っていなかったし……)
ヤエが困惑していると、環から声がかかった。
「食べないのか?」
「いや、えっと……。こんなに食べきれないなって思って」
用意されたカトラリーをちらりと見て、ヤエは話題を逸らす。
挙動不審なヤエにふっと笑った環は意外にも乗ってくれた。
「値段の割りに量が多くて評判だったんだが、そうか、多いか」
「そうね、半分も食べられないかも」
「わかった。残した分は俺が食べよう。入る分だけ食べれば良い」
解決だと言わんばかりに微笑まれ、ヤエはさらに話題を逸らした。
少しでも環の視線がヤエから逸れることを願って。
「えっと、ここにはよく来るの?」
「あぁ。部下と昼食を食べに来たりするな。ビフテキは俺の好みだが、女子は甘い物がすきだろ? 俺は甘い物はあまり頼まないんだが、部下に甘い物に目がないやつがいてな。カステイラはそいつのお墨付きだ」
「へぇ……。じゃあ、いただきます」
覚悟を決めたヤエはカトラリーを巧みに使い、ビフテキを口に入れる。
肉汁の甘みが広がり、口の中が幸せだ。
「姿勢がいいな。臆してた割に、作法も問題ない。何が気になってたんだ?」
「……無理に褒めなくてもいいわ。私の作法が見苦しいものだっていうのは、私がよく知ってるから」
「は? 本気で言ってるのか?」
環の驚く意味が分からず、ヤエはきょとんとする。
「それはヤエの努力の賜物だろ? そもそも、初めて食事をしたときも思ってたんだ。綺麗な所作だと」
「……あなたに言われても嬉しくないわよ」
珈琲を優雅に飲む環をじとりと睨む。
目の前に生まれながらにして一流の男がいるのだ。納得がいかないに決まっている。
(そもそも顔がいいのが悪いわ。何をしても許されそうだもの)
あらぬ方向へと思考を飛ばすヤエは、環と同じように何も入れず珈琲を飲もうとして、彼に止められた。
「最初はミルクと砂糖を入れた方がいい」
「? わかった」
首を傾げながらも、環の言う通りにミルクと砂糖を入れてから、珈琲に口を付けた。
独特の匂いからも想像していたが、独特な風味が口の中に広がる。
「うまいか?」
「ちょっと苦いけど、おいしい」
こくこくと頷けば、環が満足そうに微笑んだ。
その笑みがなんだか気恥ずかしくなり、彼から目を逸らした。
少し顔が熱いのは、温かい珈琲を飲んだからに違いない。
幸せを噛み締めるように目を細めた環が口を開く。
「なぁ。ヤエ。お前の心を俺にくれないか?」
「嫌よ」
脊髄反射のように口から漏れた答えに、なぜかヤエが目を丸くする。
まるで自分の意思とは関係なく口から零れてしまったかのようだ。
(泡になるのは嫌なはずなのに、どうして驚く必要があるの?)
ヤエの戸惑いを知ってか知らずか、軽く笑った環が頬杖をついてヤエを見る。
「童話憑きだからか」
「えぇ」
忌々しくもヤエの魂には、人魚姫の運命が刻まれている。
それは、どうやっても抗えないものだ。
(そうよ。あたしは人魚姫で、彼は王子。絶対に結ばれないんだから)
ヤエの内心を知ってか知らずか、環はそっと笑う。
「その言い方だと童話憑きじゃなければ俺と結婚してもいいと思っている、ということになるが?」
「っ!?」
考えもしなかった視点に、ヤエは黒曜石のような色の目をこぼれ落ちそうなほど見開いた。
童話憑きは逃れられない運命だ。
だからこそ、ヤエは王子に会う日を少しでも遅らせるために逃げ続けていた。
しかし、ヤエが童話憑きでなければ? 環が童話憑きでなければどうだ?
(もし、あたしが只人であったなら……?)
環は一度目にすれば頭から離れないほどに器量がいい。
その上、晴嵐家という華族の家長だ。
普通の婦女子であれたなら、きっと、玉の輿だと喜んで婚姻に飛びついただろう。
それはヤエだって同じはずだ。
(きっと受け入れたわね。童話憑きでさえなければ、だけど)
ありえないことを考えたヤエを見透かしたかのように、環が追い打ちをかける。
「童話憑きでなければ俺は受け入れられただろ?」
「……そんなことないわ。それに、あたしたちは童話憑きよ。仮定の話に意味はないわ。どう足掻いても運命からは逃れられないの」
「今までの童話憑きができなかったからと諦めるのか? 俺は嫌だね」
真剣な濃藍色の瞳がヤエを射貫く。
ヤエには環が人魚姫に執着する理由が分からない。
「……あたしだって諦めたくないに決まってる。でも、結局あんたに見つかった。運命通りなのよ」
「俺に惚れることも?」
「馬鹿にしないで。あんたには何も思ってない。それに」
「それに?」
「あたしは二度と恋をしないって決めてるの」




