第5話「買い物」
晴嵐家に来て早一週間。
ヤエは初日以降、毎食料理を自室に運んでもらうことで部屋から一歩も出ずに過ごしていた。
ほんの僅かな抵抗と少しの意地だ。
なにせ晴嵐家の食事は海凪家とは違い、とても豪勢だ。
環は見惚れそうなほど美しい所作で食事をしていたが、ヤエは満足な作法を見せることができなかった。
赤子と大人のような差に愕然としてしまい、一人食事をしながら所作の練習をすることにしたのだ。
拒否されるかと思いきや、ヤエの意向は簡単に受け入れられた。
女中がむやみに外に連れ出そうともしない。何もしなくても豪勢な食事が与えられる、上流階級の人間のような気分を味わった。
不相応だから家事を手伝いたいと申し出たのは、嫁いで三日経った頃だったか。
しかし女中に大慌てで遠慮されてしまい、叶わなかった。
(あれは申し訳ないことをしたわ)
そっと息を吐き、針山へ針を戻す。
暇つぶしにと裁縫箱を差し出されたヤエはこれ幸いと着物を繕っていた。
華族令嬢の嗜みとして裁縫をすることはよくある。
(令嬢は着物なんて縫わないだろうけど)
着古した着物は裾や袖などがすり切れて使い物にならなくなる。
そんな着物をいつまで使っているのかと呆れられるかもしれない。
だが、捨てることはできなかった。
「お母さん……」
誰にも届かない呟きは、虚空へと消えていく。
ヤエが立ち上がると、襖の向こうから声をかけられた。
「ヤエ。環だ。今いいか?」
胡瓜を見た猫のように飛び上がる。
慌てて着物と文机に置きっぱなしだった食事作法の本を箪笥へと隠しながら、ヤエは返事をした。
「なに?」
「開けても?」
強引な環だが、普段は律儀な性格なようで許可がないと部屋には入ってこない。
襖を開こうともしない彼は好感が持てた。
座布団に座り直し、ヤエが許可を出せばゆっくりと襖が開かれる。
襖の向こうには少し寝ぐせの残る黒髪を携えた環がいた。
少し気だるげな濃い藍色の瞳がなんとも艶っぽい。
あまりにも官能的な姿を直視してしまい、ヤエの喉が鳴った。
気の抜けた様子だが、服装は着流しではなく環の目と同じ色をした縦横絣の大島紬だ。
環にとってそれは、一握りしか手にすることのできない着物ではなく、普段の装いなのだろう。
同じ華族でも天と地ほどの差がありありと浮かべば、嫉妬する気も起きない。
「朝食はちゃんと食べたのか?」
「? 食べたわ」
「そうか」
黙り込む環に、ヤエは首を傾げる。
(もしかしてずっと自室で食べたてたのを気にしてる? それともあたしがちゃんとご飯を食べてるかの確認……?)
じっと環を見つめるが、表情からは何を考えているのか分からなかった。
「どうしたの?」
「……ちゃんと食べているならいい。なぁ、買い物にでも行かないか?」
「えっと、あたしは……」
いきなりの申し出にヤエは言い淀む。
中身がほとんど入っていない箪笥に目をやり、内心そっと息を吐いた。
(隣を歩くなんて、恐れ多くてできないわね)
環と並んで歩けるような着物は持ち合わせていない。それよりも一緒に出掛ける理由がない。
「俺は一週間、ずっと我慢をした。ヤエが慣れるまではそっとしておこうと仕事に励んだつもりなんだが……。俺は自分の忍耐力の高さを自画自賛したいぐらいだ」
「それは……」
「ヤエの時間を少しは俺にくれ。いいだろ?」
環の気遣いと、これまで一緒に食事をとらなかった負い目から、ヤエは環の申し出を断ることが出来なかった。
◇◆◇
いわゆる老舗や高級という枕詞が付く呉服店に連れてこられたヤエは、店先に飾られた椿の着物に目を奪われた。
といっても女主人に呼ばれるまでの数秒であったが、冬らしい白地に真っ赤な椿が描かれたそれは見た目に反してとても温かそうだった。
後ろ髪を引かれながら個室に通されたヤエは、鮮やかな夏らしい絽の反物を合わせられる。
突然のことにヤエが目を白黒させていれば、環が「似合う物はすべて買おう」と言ったために、女主人が張り切ってしまった。
(あたしは店先に飾られていた着物が好きなんだけど……)
とは口が裂けても言えず、女主人がああでもないこうでもないと頭を悩ませる。
めまぐるしく変わる反物に、ヤエは酔ってしまいそうだ。
「あたしが何を着ても変わらないと思うのだけれど……?」
「いいえ。ヤエ様。宝石の原石は磨けば輝きますでしょう? それと一緒ですわ」
女主人の目に見えたお世辞にヤエは苦笑いを零す。
(あとで文句言ってやる)
元凶である環を見れば、反物を合わせるヤエを見ながら、時折胸元で輝く瓶の形をしたネックレスを指先で弄んでいた。
瓶の中にはトンボ玉が入っているようで、揺れる度にコロコロと転がる。
ネックレスを見つめる彼は、ヤエが見たこともないような優しい顔をしていた。
「坊ちゃんのネックレス、気になりますか?」
「え? えっと……」
「あれは坊ちゃんが幼い頃に海で拾った物ですわ。ずっと大切にされておられて、婦女子の間では初恋の人の物だともっぱらの噂ですのよ。ヤエ様が初恋の人やも……?」
「いえ、そんなことはないと思います」
思いのほか響いた声に、ヤエは口を噤む。
目を丸くした女主人はばつの悪そうな顔をしているが、ヤエは曖昧に微笑んだ。
もし女主人の言うことが本当なら、環は己の財力をもってしてその初恋の女性を探し出すはずだ。
人魚姫のヤエを大切にするのは童話憑きだからで、彼の意思ではないのだろう。
(ほらやっぱり。別に好いた人がいるんじゃない)
人魚姫を助けなければならないという義務心からだろうか。そんな中途半端な想いは空しいだけだ。
ヤエの顔が曇っていることに気がついたのか、環から声がかかる。
「そろそろ俺にヤエを返してくれないか?」
少し拗ねたような口調に、女主人がにんまりと笑う。
「そうですわよね。男は愛する人の前で格好付けたい生き物ですものね。えぇ、わかりますとも」
「あぁ、そうだな」
「あらあら、大胆ですこと! ついに坊ちゃんにも春がきたのですね!」
「えっと、反物を下ろしていただいても……?」
段々と環に近づいていく女主人に声をかける。
ごめんなさいねと戻ってきた彼女に、肩にかかっていた反物を取ってもらい、ヤエは環の隣へと逃げた。
(これ以上着せ替え人形になるのはごめんだわ!)
警戒する子猫のようなヤエに、環が小さく笑った。
環の近くに行き過ぎたのか、彼に腰を引かれてしまう。
「これからデヱトだからな。これ以上時間は裂けん」
「へ?」
「あら! いいですわね。ではいつも通り仕上がりましたらお持ちいたします」
女主人が視線を向けたのは、環が気に入ったであろう反物の山だ。
一反で目が飛び出るほどの金額なのは間違いない。
ヤエはそっと反物から目を逸らし、現実逃避を決め込んだ。
環がどれだけ稼いでいるのか知らないが、買っても大丈夫なのかと聞くほど野暮ではなかった。
「あぁ。一着、そうだな、店先の椿が描かれた着物をヤエに着せてくれ」
「へ?」
「ここに来た時からずっと気にしてただろ」
「それは……」
「俺もヤエに似合うと思う。ちゃんとヤエが好きな物も贈らせてほしい」
許しを請うように眉を下げる環に、言葉に詰まってしまう。
その隙を見逃さなかった女主人はとてもいい笑みを浮かべ、ヤエの手を引いた。
「ささ、ヤエ様。お着替えしましょうね」
困惑するヤエを無視して振袖の帯に女主人の手がかかり、抗議する間もなく帯がほどかれる。
「ひゃあっ!」
婚姻前の女子が肌を見せるなどあってはならない。
ばっと環を見れば、いつの間にか後ろを向いていた。
(一応、配慮はしてくれるのね。そういうとろこだけ紳士なのずるいわ)
言わずともヤエの気持ちを汲んでくれる様に、ほんのり心が温かくなる。
すでに仕立てられている着物に恐る恐る手を通せば、素早く着付けされる。
椿の着物は、まるでヤエのために誂えられたかのように裄丈や身丈が丁度良い。
不思議に思い首を傾げていれば、優しげな顔で笑う女主人に髪を掬われた。
「ちょっと髪を結わせてくださいな」
「え? はい、お好きに……」
ヤエの了承を得ると、女主人はさっと髪を結んだ。
手鏡を向けられ、覗き込む。
鏡の中のヤエは二つのお団子が耳を隠すように結ばれていた。
よく見れば、髪は三つ編みにされており、それをくるくると巻いているようだ。
「今流行の髪型なんですよ。ラジオのレシーバーみたいで可愛らしいでしょう? これで坊ちゃんもヤエさまから目が離せませんね」
茶目っ気たっぷりに笑いかけられ、ヤエは眉を下げる。
「できましたよ。ほら、坊ちゃん」
後ろを向いていた環が振り返る。
「見立て通り、似合っているな。さて、準備はできたようだし、行くぞ」
「え、ちょっ!?」
急かされるように手を引かれ、店を出る。
ありがとうございましたと頭を下げる女主人を背に、環とヤエは呉服屋を後にした。




