第2話「突然の来訪者」
がたりと窓が揺れた音で目が覚めた。
煎餅布団から起き上がり、ヤエは一つ伸びをする。
ヤエは衣桁にかかった浅葱色の振袖に目を向けながら、大きなため息をついた。
(昨日は散々だったわ)
昨夜の出来事を思い出しながら、ヤエは布団から出た。
夜会で出会ってしまった王子は、きっとヤエを探すだろう。しかし、ヤエは捕まるわけにいかない。なにせ、命がかかっているのだから。
布団を畳んでから窓を開け放てば、冬の冷たく乾いた風が薄水色の髪を攫う。
窓の外はまだ夜は明け切っておらず、空は黒と紺の混じった色をしていた。
(海凪家から逃げ回ったように、もう一度逃げる……?)
ため息を一つこぼし、ヤエは写真立ての置かれた箪笥へと足を向ける。
年季の入った箪笥は引き出しにくくガタガタと揺れてしまう。
引き出しを開けた拍子に写真立てが倒れた。着物を取り出してから、写真立てを元に戻す。
(私だけなら逃げられる。でも……)
写真の中で、ヤエそっくりな女性が真っ白な部屋の寝台に腰掛けて微笑んでいる。
(弱気なことを考えている暇はないわ。お母さんの為に海凪家に来たんだから)
写真の女性を穏やかな顔をして見つめたヤエは、寝間着の浴衣を脱ぎ、普段着である綿の着物を広げた。
(お母さんの着物、だいぶ薄くなってしまったわね)
同じ所を何度も縫い直したからか、針を刺した部分の布が薄くなってしまっている。
(着物、あと何着あったかしら? ……二着あれば良い方かもしれないわ)
まだ着られる手持ちの普段着を思い出し、ヤエはまたため息をつく。
そして、繕いすぎて薄くなった着物に手を通した。
振袖のかかった衣桁を部屋の真ん中に移動させ、部屋の襖を開け放つ。
「考えても仕方がないわね。気乗りしないけど、朝食を作りに行きますか」
◇◆◇
(いつも通り過ごそうとしただけなのに、どうしてここにいるのよ)
目の前にいるのは、二度と会わないと誓った相手だ。
意図の読めない青い瞳がヤエを捕らえて離さない。
嵐のようなヤエの心中を知ってか知らずか、男は対面の長椅子に腰掛けた。
「間に合ったようだな」
艶やかな黒髪の隙間から覗く濃藍色の瞳が、安堵したように和らぐ。
(大事な用事って、このことだったのね)
ヤエはいつものように朝食を作りに本邸へと赴いただけだ。
だというのに、待ち構えていた使用人たちに囲まれ、普段与えられないような豪奢な振袖に着替えさせられた。
珍しく一緒に行動するのかとげんなりしていると、出かける用意をしていた義母が慌ててヤエを応接間へと放り込んだ。
そのため、本来の目的はわからない。
訳の分からぬまま長椅子に座り大人しくしていると、応接間に客が訪れた。
この時ほど着座を後悔したことはない。
(王子が来るなら、大人しくここにいなかったのに……!)
おそらく姉のものであろう振袖にしわをつけてはいけないと袖の中で手を握り込んだ。
(昨日の今日であたしの家を突き止めるなんて)
深呼吸をし、ヤエは長椅子に座る色男へと目を向ける。
すると花が綻んだような甘い笑みを向けられた。
「今日は大切な話をしにきた」
「……なんでしょう?」
「お前を迎えに来た」
反射的に口から出そうになった「はぁ?」という言葉を飲み込み、海凪家の令嬢として猫をかぶる。
「なぜあたしなのでしょうか?」
「理由が必要か?」
「えぇ。あなたとは初対面ですし、そもそも、私はあなたの名前も存じ上げません」
今のヤエはさながら警戒心を露わにするネコだ。
気を張り詰めて、張り詰めて、環を威嚇している。
(人魚姫のあたしと、王子が結ばれる? ありえない。でももしあたしが、彼を好いてしまったら……? それこそ後戻りできなくなる)
童話の『人魚姫』は悲劇のお話だ。
人魚姫と王子は、絶対に結ばれない。王子は隣国の王女と結ばれ、人魚姫は泡となり消える。そして、消えた人魚姫は風の精となり結ばれた二人を見守るのだ。
それが童話で決められた運命だ。
(あたしは絶対、泡になんてなりたくないのよ‼)
童話と同じ最期を迎える【童話憑き】だからこその恐怖。
王子に恋をしてしまえば最後、泡となってしまう。そんな最後から逃れるため、ヤエは彼の伴侶となるわけにはいかない。
「確かに名乗っていなかったな。俺は晴嵐環。信じるに値しないかもしれないが、俺の屋敷に来い。詳しい話は屋敷に着いてからだ。今はここから出る事を考えてほしい」
「お断りします」
自身より大きな手を差し出されるが、ヤエは握り返さずに環を睨む。しかし彼は残念そうに眉を下げるだけだ。
「事は一刻を争うんだが……」
「意味が分からないこと言わないでください」
ヤエがそっぽを向けば、視界の端で肩を竦めたのがわかった。
「凄まじく嫌われているな。何が気に食わない?」
「胸に手を当ててよく考えてみたら?」
思わず反射的に返事をしてしまい、ヤエはしまったと顔をしかめた。
王子に恋をしたヤエが泡になってしまうことを環も理解しているはず。
だというのに、言うに事欠いて『何が気に食わない?』と聞いてくる神経に、ヤエは言葉を選んでいられなかった。
しかし、環が気にした様子はない。それどころか胸に手を当て、目を閉じる。
(無防備な姿……)
長いまつげが伏せられている様は、まるで精巧に作られた石像のように美しく、ここが神社であれば神として奉られていたかもしれない。
(もしかして、本当に心当たりがなくて考えてるの……?)
数秒経っても微動だにしない彼にふと疑問が湧く。
(なら今が好機かもしれないわ。目を閉じてる今なら逃げれる)
ヤエが立ち上がった瞬間、すっと目を開けた環と視線が絡む。
驚くヤエに、環はいたずらの成功した子どものように笑う。
「やはり覚えはないな。それで? やっと重い腰を上げる気になったか」
「……あたしが立ち上がったら目を開けるつもりだったわね」
「ふっ。どうだかな。さて、ヤエ。そろそろ行こうか」
立ち上がった環がヤエの腰を抱くと、身幅の合っていない振袖がわずかに歪んだ。
一瞬、環の眉間にシワが寄ったが、ヤエが見た時にはすました顔に戻っていた。
「帰るのはあなただけよ。というか、なんであたしの名前、知ってるの?」
「? 昨夜の出席者の名前ぐらい覚えている。それに、誰かさんだけが俺に挨拶してなかったな?」
「え、あ……」
「別に咎めたりはしない。そのお陰で簡単に見つけることができたんだからな。まぁそれがなくとも俺はヤエを見つけられたが」
自身の行動が仇となったことに、ヤエは唇を噛みしめた。
間髪入れず環の手がヤエの顎を掴む。
ヤエが驚きに身を固くしていると、男らしい指が唇をなぞった。
「おい。噛むな」
「な、何するのよ」
「綺麗な唇をこれ以上痛めつけるな」
「意味が分からないわ」
大切にされているような感覚に、ヤエは眉をひそめる。
今、優しくされたところで、最後に笑うのはまだ見ぬ王女だ。
「なぁ。そんなに俺から逃げたいか?」
「当たり前でしょう?」
「そうか。だが、諦めろ。俺はヤエを離す気はない」
ぐいぐいと少しずつ扉に移動させられ、ヤエは顔を引きつらせる。
どうすればこの絶望的な現状を打開できるのか分からない。
焦燥感に包まれたヤエは、どうにかしなければと考えなしに口を開く。
「あなたの運命は人魚姫の王女でしょ!? なんで人魚姫なんかに求婚をするのよ!」
「ふはっ」
「なにがおかしいの」
「いや? 俺は一言も人魚姫の王子だから人魚姫を迎えに来た、なんて言っていない」
深海のような色の瞳が楽しげに細められる。
口に出てしまった言葉を戻すすべはない。
彼が再び口を開く前にどうにかこの場を切り抜かなければ、きっとヤエは逃げられなくなってしまう。
否定しなければと思うほど、口は動かない。
追い詰められた心境が焦燥煽る。
「っ、それは……!」
「どうしてヤエは俺が人魚姫の王子だと分かったんだろうな?」
煽るような目に、ヤエは墓穴を掘った自身の甘さを後悔した。
背中を流れる汗が気持ち悪い。
ヤエが環を人魚姫の王子だと本能で理解したように、同じ物語の童話憑きで縁のある人物であれば、誰だか分かる。
反対に、童話憑きでも物語が違えば相手が童話憑きなのかも分からないのだ。
環はすでに、ヤエが人魚姫だと確信している。
(あ、まずい)
頭に警鐘が響く。
腰に回っていた腕が背中を這い、するりと左手を取った。
ヤエが手を引く間もなく、簡単に扉へと体を押し付けられてしまう。
耳元に唇が寄せられ、腰が砕けるような声で囁かれる。
「なぁ。教えてくれないか? どうして俺が人魚姫の王子だとわかったのか」
耳元から離れた環はとても楽しそうに口角を吊り上げていた。
その姿は艶やかで、色気にあてられてくらくらしてしまいそうだ。
事実、突然接近してきた環にヤエは真っ赤に染まった顔を隠せずにいる。
「ふっ。愛い奴」
「な、な……」
小さく笑った環の右手がヤエの顎を掬う。
「ヤエの不安も最もだ。運命通りなら、泡となり死んでしまうんだからな」
「……分かってるじゃない」
「あぁ。痛いほどわかっている。だが、俺を信じてくれないか?」
「何を信じろというの?」
言葉の意図が分からずヤエは思わず聞き返した。
「俺は人魚姫の王子みたく掌を返しはしない。ヤエを二度と離したりはしない」
「そんなこと、できるわけ……」
「ないと思うなら俺の家で暮らして確かめてくれ。見極める機会をくれたっていいだろう?」
「確かめるって……。それじゃ、あたしが泡になるじゃない! いやよ!」
明らかな拒否反応だが、環は口角を吊り上げるだけだ。
「ヤエ自ら行くと言ってくれた方がよかったんだが、仕方ないか。すでにヤエの荷物は晴嵐家へ運んでいる。ここにもうヤエの部屋はない。観念するんだな」
「は……?」
「……その様子じゃ何も知らされてないのか」
意味の分からない言葉に困惑していると、顎に添えられていた手が今度は左手を掴む。
手を振りほどくこともままならない力で握られ、ヤエはますます疑問を募らせた。
「どうしてそんなに急ぐの?」
「……俺が早くヤエと暮らしたいからだ。ほら、行くぞ」
「え、ちょっと……!」
微妙な間に眉をひそめたものの、それ以上の追求は許さないと言わんばかりに環は歩き出す。ヤエは引きずられるようにして、海凪家を後にした。




