第10話「奇襲」
環と入れ替わるようにして沓守が運転席へ乗り込んだ。
助手席に座ったまま、ヤエは頭を下げる。
薄水色の髪が顔に釣られて揺れた。
「よろしくお願いします。海凪ヤエと申します」
「あぁ。沓守椿だ。よろしく」
沓守から柔らかな笑みを向けられ、ヤエの固まっていた体から力が抜けた。
童話喰ライという化け物を見てしまったからか、体が強ばっていたらしい。
大きく息をすればようやくざわついた心が落ち着いた気がした。
エンジンをかけながら沓守は独りごちる。
「隊長の婚約者がこんなに可愛らしい方だとは思わなかったな」
「へ?」
「隊の中で話題でね。あの仕事の鬼が毎日定時には帰るもんだから、もう尻に敷かれてるのかって笑ってた隊員もいたぐらいなんだ」
目を丸くするヤエをよそに車が走り出す。
沓守の言葉が理解できず、ヤエの頭は疑問で埋め尽くされた。
(環が尻に敷かれる……? 毎日定時に帰るって……?)
せわしなく瞬くヤエの姿は滑稽だろう。
困惑しきったヤエを横目で見た沓守の口からくすりと笑い声が漏れた。
沓守は運転をしながら美男子顔負けのいたずらな笑みを浮かべる。
「でもそれは今日で終わりだね。こんなに可愛い女の子が家で待ってるんだ、早く帰りたくなってもしかたない」
彼女の言葉に、ヤエの頬が少し色づいた。
環はヤエが嫁いだ日から仕事以外はずっと家にいたらしい。
晴嵐家に嫁いでからというもの、ヤエは毎日部屋に引きこもっていたため知らなかった。
女中たちとは必要最低限の言葉しか交わさない上、環とは食事すら別々に摂っているのだから知りようもない。
そこまで思考を回して、はたと気がつく。
(もしかして、一緒に夕食を食べようとしてくれていたの……?)
ヤエが一人部屋で籠もって夕食を食べていた間、ずっと、環は待っていたのだろうか。
声をかけるわけでもなく、ただ、ヤエの心が向くのをずっと……。
(っ、そんなの、ずるい)
有無を言わせず晴嵐家に連れて行った男と同じ人物だとは思えないほど、謙虚な態度だ。
肝心なところで自己主張をしない彼の気持ちが、ヤエにはわからない。
ただ、あの広い屋敷の一室で、一人寂しく食事を取る環を思うと、少しばかり胸が締め付けられる。
ヤエは後ろ髪を引かれるように振り返った。
一寸先が見えない闇の中で、様々な異能がぶつかり、弾ける。
飛び散った童話喰ライを目にした途端、ぞわりと、全身の毛が逆立つような感覚に襲われた。
(……え?)
闇夜だというのに、なぜかヤエの視界に影が落ちる。
影を見上げたヤエの目に飛び込んできたのは、人間のようなナニカだ。
窓から車内を覗き込むように童話喰ライがぐねぐねと動く。
耳があるはずの場所には魚のヒレがあり、口から飛び出ている歯は獰猛な肉食獣のように鋭い。
噛まれてしまえばひとたまりもないだろう。
ぎょろりと出目金のような目が、ヤエを捉えた。
『見ツケタ』
『見ツケタ』
「ひっ」
「こんな所にまで……!」
急停車した車から沓守が飛び出し、踊るように童話喰ライを蹴り飛ばす。
しかし、水でできた童話喰ライには傷一つつけることができなかった。
舌打ちをした沓守が蹴りをした勢いのままくるりと反転し、ヤエへ目を向ける。
「くっ、ヤエ様! お逃げください! ここは私が引き受けます」
沓守が叫ぶも、ヤエの体はピクリとも動いてはくれない。
板のように固まったかと思えば、がたがたと膝が震えだしてしまう。
(動け、動け、あたしの体……!)
震える手で扉を開ける。
それが悪手だったと悟ったのは、開いた扉の上からにたりと笑った童話喰ライが現れてからだ。
喉から漏れた恐怖が、ヤエを一層強ばらせた。
童話喰ライが近づいてくる様が、スローモーションのように見える。
それがぐわりと口を開けた瞬間。
爆ぜた。
「っ!?」
激しい風がヤエを襲う。
体を支えていた車の扉が大きく開き、ヤエは助手席から滑り落ちた。
「きゃっ」
仰向けで落ちたヤエは、痛みに呻きながらも周りの様子へと目を向ける。
爆発の影響か、童話喰ライは水の塊へと成り果てていた。
車のいたるところにどす黒い水が付着しているが、元に戻る気配はない。
よく見れば、ヤエを中心として半円を描くように童話喰ライだったものが飛び散っていた。
(あたしの方から、吹き飛んだ……?)
四散した童話喰ライをヤエが見つめていると、また元の姿へと戻りだす。
うにょうにょと動くさまは、この世の物とは思えない。
真っ青になったヤエはただ、童話喰ライが元に戻っていくのを眺めているしかなかった。
「ヤエ! 無事か!」
焦りを滲ませた環がヤエを庇うように立つ。
大きな背中に、ヤエはやっと息ができたような気がした。
ヤエがよろよろと立ち上がると、環の腕が回った。
彼の鼓動がひどく安心してしまう。
ヤエは震える手で環の胸元の着物を握りしめる。
肩に回った腕に力が込められる。
「環……?」
「あぁ、怖い思いをさせてすまない。沓守も、俺が来るまでよく耐えた」
「いえ、私が不甲斐ないばかりに、ヤエ様に負担を強いました」
沓守を見れば、白い軍服の袖が赤く染まっていた。手の甲を伝ってぽたぽたと地面に赤いシミを作る。
「あたしのせいで、怪我を……」
「ヤエ様のせいではありません。全ては私の力不足ゆえです」
「……救護班に合流を、と言いたいところだが、来るぞ」
ぼこぼこと音を立てていた水が集まり、童話喰ライが原型を取り戻す。
『王子』『王子』『ナゼ』『ナゼ?』『人魚』『人魚』『愛シ合ウノハ王――』
「消えろ」
『――ギャッ!』
言葉の途中で童話喰ライが奇声を上げ、また爆ぜる。
形すら残らず、ヤエはいままでの光景が幻だったのではないかと錯覚を覚えた。




