第67話 普通の仕事② 最悪の始まり
最悪のタイミングで、弓が鳴った。
弦が震える乾いた音が、森の湿った空気の中でやけに目立つ。矢は葉を裂き、見えない何かへ向かって消えた。命中したのか外れたのか――そんな確認をする前に、上の枝が一斉にざわついた。
空気が変わる。
風じゃない。揺れの質が違う。重さがある。枝が撓み、何かが「踏み替えた」音が混じる。
「……来ます」
ルーシーの声は低かった。自分でも驚くほど落ち着いている。落ち着こうとしている、が正しい。焦ると、刃が先に走る。いまはそれが一番怖い。
「全員、止まれ。周りをよく見ろ」
カイゼルの指示は短い。
だが、声よりも早く上から、石が来た。
拳ほどの石が二つ、三つ。角度をつけて、頭の上を狙っている。落ち葉と枝の影で、どこから来るか見にくい。反射が遅れる。
「危ない!」
いつも冷静な、セリナが叫んだ。
カイゼルが盾を上げる。ガン、と鈍い衝撃。腕が沈む。もう一つが横へ弾け、土を抉った。
その瞬間、ケスディアが笑った。
「ほら、当たりだ」
自慢の声が、森に散った瞬間――上が、静かになった。
静かになるのは、相手の準備ができたからだ。
ルーシーは視線を上げる。枝の間に、皮膜の影が見えた。前腕から脇腹、後脚へ伸びる厚い膜。鳥の羽じゃない。翼っぽい「皮」だ。猿の体型に不釣り合いな滑空のための形。
「スクラヴァルだ」
カイゼルが名前を静か伝えた。
次の瞬間、影が落ちてきた。
上から斜めに滑ってくる。木から木へ、地面には降りない。降りるのは、当てる瞬間だけだ。こちらの頭上を越え、背中側へ回ろうとする。
「囲まれる……!」
セリナが歯を食いしばる。
ケスディアはようやく顔色を変えた。矢をつがえる指は早いが、周りが見えていない。
「動くな!」
カイゼルが短く刺す。だがケスディアは反射で一歩前に出た。射線を取るための癖だ。
その一歩が、最悪だった。
上の一体が、ひゅっと角度を変える。ケスディアの真上へ落ちる軌道。狙いが一瞬で切り替わる。合図もなく、滑らかに連携する。
「――っ!」
ケスディアが顔を上げた時には遅い。スクラヴァルの爪が光り、引き裂きに来た。
ケスディアは身を捻り、肩を守った。だが、その代わりに右腕が晒された。
バキン、と嫌な音。
爪の先が肌を切り裂き骨で止まり、鮮血が飛び散る。
「ぐっ……!」
ケスディアが膝をつき、勢いで弓を手放す。手放した瞬間、二体目が横から来た。今度は投石だ。顔めがげて飛んでくる。避ければ体勢が崩れ、次が致命傷になりかねない。
「伏せろ!」
カイゼルが踏み込み、盾でケスディアの頭を覆う。石が盾に当たり、ガン、ガン、と二つの石を防ぐ。
ルーシーは一歩迷った。
今強化をコントロールできれば、間に合う。ただミスすれば、最悪味方をかすめる。昨日までの訓練で、強化を「上げる」より「戻す」を叩き込まれた。いま必要なのは、戻す方だ。
腹の底で短く吐く。肩を落とす。手首の余計な力を戻す。
剣の柄を握る。いつもの重さ。少しだけ安心感。
「セリナ、木の根を背にして、さがって」
ルーシーが言う。セリナは即座に頷いた。すぐに行動に移す。
「了解。……ケスディア、傷口見てる場合じゃない。スキができる!」
セリナの声は苛立ち混じりだ。嫌いでもしょうがないから直す。
ケスディアが口を開きかけ、すぐ閉じた。言い返す余裕がない。痛みと屈辱が混ざっている。
「ルーシー、行けるか」
カイゼルが背中越しに確認する。目は上を見ている。盾で受けながら、次どこから来るか読む。
「はい。これくらいなら」
言った瞬間、ルーシーは自分の言い方が冷たすぎると気づき、内心で眉をひそめた。言い直す時間はない。今は仕事だ。
上で、鳴き声がした。
甲高い、短い音。命令の音だ。群れの動きが揃う。右から二体、左から一体。上から一体。役割が分かれている。囮が動き、石が来て、滑空して攻撃。
その中心――一段高い枝に、少し大きい影がいる。胸と前腕、皮膜がやけに大きい。頭がこちらに向くたび、群れの動きが変わる。
(あれが……)
ボスだと直感した。合図はそこから出てる。
ルーシーが踏み込む前に、石が来た。膝を狙う低い軌道。こちらを狙っている。
ルーシーは、半歩ずれて、剣の腹で弾く。カン、と乾いた音。剣が手首で暴れそうになる。
(戻す)
柄を強く握りこまない。強めると強化が走り、刃が早くなる。当てたいところより先に行く。グレイヴの声が耳の奥で刺さる。
『出したら戻せ』
ルーシーは手首を「戻す」方向にだけ意識を置いた。刃の軌道が収まる。収まった瞬間、上から影が落ちた。
真っ直ぐではない。少し捻って落ちる。爪が先に来る。次に膜の縁。最後に体。受けると持っていかれそうになる。避けると背中を取られる。
ルーシーは一歩だけ前へ出た。前へ出て、距離を詰める。落下の勢いが乗る前に、当てる。
狙うのは胴。
だが、焦りが混じった。
身体が予定より早く動いた。剣が先に走る。刃先が、カイゼルの盾のすぐ横をかすめた。
「ルーシー!」
カイゼルの声が鋭くなる。怒鳴ってはいない。だが、圧がある。
「すみません、今のは――」
「詫びは後だ。まずは倒せ」
言葉で切られ、ルーシーは戻ることに集中する。余計なことを考えると、また速くなる。
腹で息を吐く。肩を落とす。視界の端の味方を固定する。刃の軌道を一段遅くするのではない。自分の中の「早すぎる部分」を揃える。
上から来る影が、もう一度角度を変えた。ルーシーへ真っ直ぐ刺しに来る。
ルーシーは剣を構えた。高く構えない。振りかぶらない。小さく、短く。
滑空してくる体の中心線に刃を合わせるだけ。
刃が、影に触れた瞬間――重さが乗った。
相手が落ちてくる重さ。こちらが踏み込む重さ。二つが合わさる。
ズン、と手に重みが来て、次の瞬間、抵抗が抜けた。
皮膜が裂け、体が一瞬だけ「形」を失う。落下しながら崩れ、影が土へ叩きつけられた。
ルーシーは深追いせず、刃と体を戻す。
倒れたスクラヴァルはピクリともしない。体が真っ二つに分断され血しぶきをあげている。
「……うそ」
セリナが声を上げた。驚きが混じっている。魔法じゃない。剣の一撃。見た目以上の力で、スクラヴァルを切りつけた。
ケスディアが目を見開いた。痛みで青い顔のまま、声が出ない。だが視線が、ルーシーの剣に釘付けになっている。
「なんだ……今の……」
言いかけて、喉が詰まった。弓で距離を取って戦う人間が、近接の「一閃」で空中の獣を落とす場面を見たことがない。
カイゼルも一瞬だけ目を細めた。
(この剣……)
知っている。ヴァルキアの圧。見たことがある。だが、知っているものとは違う。押し潰す感じではなく、動きを揃えた上で、必要な瞬間だけ力が乗っていた。
希望が、顔を出す。
しかし、森はまだ終わらせてくれない。
上で、ボスの鳴き声がもう一度走った。今度は低い。短い。苛立ちの音。群れが一斉に動いた。石が来る。角度が変わる。落ちる影が増える。
「来るぞ、近くに集まれ!」
カイゼルが指示する。盾を上げたまま、後ろを庇う位置へ行き、守る形が完成する。
ルーシーは倒した一体の前から離れ、カイゼルの右へ戻る。倒した直後は身体が前へ行きたがる。そこを戻す。
「セリナ、ケスディアを直してくれ。動けないなら、動かすな」
「もうやってる。……手動かすな。黙って」
セリナが膝をつき、ケスディアの前腕に手をあてている。下位の回復魔法は幹部に直接ふれ、生命力を活性化させ回復速度を上げる。その結果、血の流れが止まり、裂けた皮膚が寄っていく。
「痛いのは我慢。動いたらまた裂けるから」
「うるさい……!」
「うるさいのはあんたよ」
セリナが噛みつく。嫌いでも仕事だから直す。
ケスディアは歯を食いしばる。悔しさが先に来ている。だが、声は弱い。
ルーシーはその横目を一瞬だけ見て、すぐ森に戻す。私の役目は、慰めることじゃない。前を切り開くことだ。
上の影が、また落ちる。
今度は二体同時。片方は囮。もう片方が刺す。囮がわざと大きく見せ、刺す方が影に紛れる。
「左!」
カイゼルが盾を振る。左の影を弾く。だが右が来る。右はルーシーを狙っている。――いや、違う。ルーシーの後ろ。セリナの位置だ。
ルーシーの身体が先に動きそうになる。速くなれば、また味方の近くをかすめる。だが、遅れればセリナが刺される。選ぶのは速さではない。軌道だ。
ルーシーは足を半歩だけずらし、剣を水平に出した。払うのではない。そこに置く。
影がそこへ入った。
カン、と硬い音。爪が刃に当たった。衝撃が重い。人間の腕力じゃない。
ルーシーの手首が跳ねそうになる。
(戻す)
戻す。肩を落とす。肘を緩める。刃の角度だけを残す。
影が一瞬止まった。止まったのは恐れではない。次の合図を待っている。群れの動きはボスが決める。
上で、ボスがこちらを見た。
目が合った気がした。
次の瞬間、ボスが短く鳴いた。合図。群れが一斉に高い位置へ散る。今度は落ちてこない。石が、来る。視界の外から。
「近くに、あつまれ!」
カイゼルが叫ぶ。盾を上げたまま、後ろを庇う位置へ。守る形が完成する。
ルーシーは剣を低く構え直した。派手に振るな。軌道を揃えろ。昨日までの三日が、今ここに繋がっている。
上で鳴き声が乱れる。焦りの混ざった音。だが、ボスの命令がそれを押し潰すように、もう一度低く響いた。
カイゼルが息を吐いた。短い。だが、顔が少しだけ変わった。
「……いける。まだ、いけるぞ」
希望の言葉だった。隊列の中心に落とす言葉。
ケスディアが、治りかけた腕を握りしめた。痛みで顔が歪む。それでも目はルーシーから離れない。憎いのか、怖いのか、分からない。
セリナが小さく舌打ちする。
「ほら、見た? 口じゃなくて、行動よ。……次、勝手に撃ったら本気で殴る」
ケスディアは何も言えなかった。
ボスは胸を張り、前腕を大きく振った。枝が鳴る。鳴き声が二度、短く続く。
一度目で散れ。二度目で回れ。意味が透けて見える。六、七の影が同時に動き、同じ高さで円を描くように移る。木から木へ、同じ速さ。息を合わせている。
「……気持ち悪いくらい揃ってる」
セリナが呟いた。恐怖と苛立ちが混ざった声だ。
ケスディアが、ようやく周りを見る余裕を取り戻す。唇が震え、目だけが必死に動く。
「ち、違う……こんなの、聞いてない……!」
「聞いてないで済むなら、最初から黙ってたらよかったのよ!」
セリナが吐き捨てる。言い返す余裕がないケスディアは、悔しさだけを飲み込んだ。
上から、また石が落ちる。今度は狙いが二段階だ。最初の石で盾を上げさせ、次で足元を叩く。
カイゼルが盾を上げた瞬間、二つ目がルーシーの足元へ跳ねた。跳ねた石は、刃より厄介だ。見えづらく、足首を取る。
ルーシーは躱す。躱しただけで、身体が速く動きそうになる。速くなるのを、戻す。戻して、止まる。
止まった瞬間、上の影が落ちてきた。
「――来る!」
カイゼルが盾で受けに行く。受ける音が重い。だが、今度の影は受けた場所に留まらない。膜で滑り、盾の縁を撫でて、横へ抜ける。
狙いはルーシー。正面じゃない。剣を振らせて隙を作りたいのだろう。
だがルーシーは剣を振らない。
刃を小さく起こし、肘を締め、相手の通り道だけ塞ぐ。相手が自分で刺さりに来るのを待つ。
刃先が触れた瞬間、スクラヴァルが甲高く鳴いた。痛みの声ではない。仲間へ送る声だ。
同時に、別の影が背後で動いた。
「後ろから、来る!」
セリナの声が跳ねる。
カイゼルがすぐ後ろへ体を回す。盾がセリナを覆い、何とか間に合った。だが、間に合ったからこそ、次が来る。
ボスの鳴き声が、もう一度低く落ちた。焦りじゃない。支配の音。
ルーシーは剣を戻し、足を揃えた。
目線を上げる。ボスのいる枝を見た瞬間、背筋が凍る。
今あれが動けば、ここは終わる。だからこそ、まだ動かない。動かせない。
ルーシーは息を吐いた。
刃を構えたまま、ただ静かに言う。
「……こちらから、攻めます」
それは仲間に伝える言葉ではなく、ルーシーがこの世界にきて初めて全力で戦うという宣言だった。




