第52話 崩落原因調査① 朝の段取り
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朝、目を開けた瞬間に、身体がもう起きていた。
重さが消えたわけじゃない。骨の内側に、筋の奥に、ちゃんと張りがある。けれど、それが動きの邪魔をしない。関節が引っかからない。寝返りの勢いで誤魔化さなくても、起き上がれる。
起き上がる前から呼吸が腹に入っている。胸が先に上がらない。背中が固まらない。
ルーシーは腹で息を吸い、止め、吐き、止めた。
昨日より少しだけ深く入る。
深く入ると、落ち着く。落ち着くと、余計な感覚が浮いてくる。
布団の重み。枕の位置。指先の冷え。部屋の乾いた匂い。遠くの街の足音。ひとつずつ拾って、必要のないものは落とす。
もう一度、吸って止める。吐いて止める。息の「止め」があると、動きが急がない。起き上がるまでの一拍が、きちんと作れる。
最初から、整っている。
(……いい状態だ)
水で顔を洗う。冷たいのに、カルディナの朝ほど刺さらない。乾いた冷え方だ。髪をまとめ、服の皺を伸ばして革帯を締める。剣を背負い、吊り位置を指で確かめる。留め具を二つ、手触りで確認する。
窓を少しだけ開ける。エルデンの朝は冷たい。湿り気がまとわりつかない。乾いた冷気が頬を締めて、頭がすっきりする。遠くで焼き窯の匂いが混じり、濡れた木の匂いがほのかに残る。
昨夜の食事の余韻が、胃の底じゃなく胸の奥に残っていた。
店の灯り。料理の湯気。エリーの緊張した声。マレーナの落ち着いた笑い。ああいう時間を、エルデンで持てたのが新鮮だった。外で食べることそのものが、まだ「特別」に感じる。
カルディナで一度それを知ってしまったせいで、戻ってきた街でも“ちゃんとした食事”を、身体が覚えている。
靴を履く前に、もう一度だけ呼吸を入れる。
腹で吸い、止め、吐き、止めた。
身体の内側が揃う。今日の段取りの順番が、自然に並ぶ。急がない。遅れない。
鍵を持ち、扉を開ける。
家の鍵を掛ける音が小さく鳴った。
その音が、ちゃんと「帰ってきた」をくれる。
◇
ギルドに入ると、空気が変わる。
薬草の匂い。紙の擦れる音。声の重なり。掲示板の前で依頼書を剥がす乾いた音が続いている。エルデンの朝はカルディナほど喧騒が濃くない。だから余計に、ギルドの中の音が整って聞こえる。
受付へ向かうと、マレーナが顔を上げた。隣にエリー。もうひとつの窓口にフィリスがいる。
「おはようございます」
「おはよう」
マレーナの返事は短い。けれど、目がこちらをちゃんと見ている。
ルーシーは一拍置いて、頭を下げた。
「昨日は、ありがとうございました。マレーナさん」
マレーナはほんの少しだけ目を細めた。
「こちらこそ。ごちそうさま。楽しい時間をありがとう」
その言い方が、妙に嬉しかった。“受付”の声ではなく、昨日の席にいた大人の声だ。
エリーが慌てて続ける。声が少しだけ上ずる。背筋がきれいに伸びていて、新人の「ちゃんとしなきゃ」が、そのまま形になっている。
「わ、私も……ありがとうございました。すごく……おいしかったです。あと……その、すごく……楽しかったです」
言い切った瞬間、本人が恥ずかしくなったのか、視線が帳簿へ逃げる。耳が少し赤い。
フィリスが咳払いをひとつして、わざとらしく言った。
「なるほど。女性会だったわけだ」
マレーナが視線だけで刺す。
「朝から余計なこと言わない」
「いや、いいんだ。分かる。分かるよ。俺が混ざると空気が変わる」
「自分でもわかってるんだ」
「ほら」
エリーが小さく吹きそうになって、慌てて口元を押さえた。堪えきれずに肩が震えているのが、逆に分かりやすい。
マレーナが一度だけ、口元を隠すように息を吐く。笑いそうになったのを抑えた顔だった。
次の瞬間、マレーナは帳簿を閉じる。空気が仕事の顔になる。
「……それで。マスターが奥で話があるそうよ。時間、ある?」
「あります」
「じゃあ、奥へ」
ルーシーが頷くと、フィリスが最後にだけ声を落とした。
「気をつけろよ。今日は……話、長くなるかもな」
「はい」
返事をして通路へ向かう。背中に視線が残る。心配というより、仕事の前の確認みたいな温度だ。
◇
奥の通路は静かだった。靴音が反響して、自分の呼吸が返ってくる。
ルーシーは腹で息を吸い、止め、吐き、止めた。
昨日より少しだけ深く入る。
深く入ると、落ち着く。落ち着くと、余計な感覚が浮いてくる。
靴底が拾う小石の感触。革の擦れ。壁の湿り。遠くの水滴。順番に入ってきて、順番に流れる。
角を曲がったところに、レッドスティールがいた。
グレンが先に視線を上げる。
「来たか」
「おはようございます」
返した瞬間、グレンは言葉を落とした。飾りがないぶん、重い。
「この前は世話になったな」
ルーシーは一瞬、何を返すべきか迷ったが、素直に思ったことを言った。
「……やれることをやっただけです」
「十分だ」
ミラが顎で会釈する。前よりも棘が薄い。
「こっちはやっと落ち着いた。二人ともちゃんと回復できた。……今は一緒に仕事をしてる」
ハウルがわざと大げさに腕を回した。
「見ろ。今回は片腕じゃない」
ルーシーは自然に言っていた。
「治ったんですね」
「当たり前だろ。治らないなら盾役は降りるしかねえ」
セインが治療鞄を持ち直す。革の鳴る音のあと、瓶の小さな音が重なった。前より中身が多い。
「前回の反省で、強いのを持ってきた。……もう『できる範囲』で誤魔化さない」
言い切って、セインは視線を逸らさない。自分に言い聞かせている顔だった。
その横に見慣れない男がいる。泥色の外套。短い杖。指先が乾いた土で汚れている。立ち方が軽いのに、足裏がぶれない。
グレンが短く言った。
「ヴィレクス。Bランク。今日はこいつも同行する」
男が軽く会釈する。
「ヴィレクスだ。噂は聞いてる。一緒に組むのを、楽しみにしてた」
その軽さが、場を軽くするための軽さだと分かる程度には、ルーシーも空気に慣れてきていた。
グレンが扉へ向き直る。
「行くぞ」
◇
扉の向こうで、ローデリックが机の前に立っていた。視線の圧が変わらない。
「今回はヴェルダーン坑道。崩落原因の調査だ」
地図の印を指で叩く。
「坑道が崩れて回収班が入れない。崩れ方も不自然だ。内側から押し広げた痕があるそうだ」
“そうだ”で置く言い方が重かった。まだ決めていない。だからこそ、決める前に見に行かせる。
「目的は原因の確認と危険域の特定。奥へ突っ込む必要はない。危険なら引き返せ。戻って報告、それで十分だ」
グレンが頷く。
「入口から崩落手前まで。状況を押さえて戻る。余計な戦闘はしない」
ローデリックはそれにだけ頷いた。
グレンが続ける。
「坑道で厄介なモンスターは二つ。シルトリスとグロザード」
ルーシーは名前を頭に入れる。知らない危険は、判断を遅らせる。
「シルトリスは床と壁に膜を貼る。見えたら止まれ。踏むと滑る」
「グロザードは甲殻の掘削獣だ。狭い通路で身体を寄せて塞ぐ。斬りつけると暴れる。暴れたら、揺れが増える」
ヴィレクスが杖を軽く持ち上げて言った。
「ずらして通る。支えて押す。暴れさせないのが先だ」
ローデリックが最後に言う。
「崩落の原因は確定していない。だが“大きい何か”が関わっている可能性はある。無理はするな。戻って来い」
「はい」
◇
坑道入口は丘の影に口を開けていた。
湿った冷気が肌に貼りつく。外の乾いた冷たさとは違う。息が重くなる。松明に火が入ると、光が揺れて影が増える。
隊列が組まれる。自然に、無駄がない。
先頭にハウル。すぐ後ろにグレン。ミラは上と後ろを見られる位置。セインは中央の後ろ。ヴィレクスは壁際。ルーシーは中央で距離を一定に保つ。
進んで十数歩で、床の感触が変わった。
薄い粘り。靴底が持っていかれる。目では見えないのに、足だけが先に気づく。
グレンが低く言った。
「止まれ。シルトリスだ」
全員が止まる。
松明の光を落として見ると、床と壁に薄い膜が張っている。油膜に近い鈍い光だ。
ヴィレクスが杖先を床へ当て、短く言った。
「テルラヴィス――撒く」
膜の上に、乾いた砂が広がった。粘りが鈍って、足裏が“戻る”。
「よし、通るぞ。踏み外すな」
ハウルが先に抜け、全員が同じ歩幅で続く。
少し先で、通路が狭くなる場所があった。
そこに、甲殻の影が寄っていた。硬そうで、押し通れる感じでもない。
グロザード。
グレンが片手を上げる。声は出さない。余計な揺れを作らないためだ。
ヴィレクスが壁際で杖を滑らせる。
「アルケティア――支える」
土がじわりと盛り上がり、甲殻の下に“受け”ができた。持ち上げるためじゃない。動いたときの落ち込みを殺すための受けだ。
ハウルが盾で押す。グレンが刃の腹で支点を作る。ミラは天井を見ている。セインは薬包の口を切ったまま、手を動かさない。
甲殻が擦れ、身体がねじれる。
その瞬間――ヴィレクスが言った。
「……今。グラーディア――押す」
受けが少しだけ持ち上がり、重心がずれる。ハウルが押し切る。グロザードが身体を引き、通路の脇へずれた。
通れる。
グレンが小さく合図する。
「通過」
ルーシーは呼吸をひとつ入れて、すり抜けた。
腹で吸い、止め、吐き、止めた。
背中の剣が壁に擦れない角度で抜ける。
――そのあたりから、匂いが変わった。
湿り気じゃない。乾いた石が削れた匂い。粉塵が喉に引っかかる。鼻の奥が少し痛い。
足裏に振動が来た。
ドン。
掘削の音じゃない。“歩いている重さ”だ。
ヴィレクスが壁へ指を当て、目を細める。
「……近い」
グレンが即座に合図を出した。
「隊列、締めろ。……来るぞ」
ハウルが盾を前へ。ミラが矢を番える。セインが一歩下がり、薬包の位置を確かめる。ヴィレクスは杖を握り直す。土が、ほんの少しだけざわつく。
ルーシーは剣に手を掛ける。抜くためじゃない。中央を守るためだ。
呼吸。
腹で吸い、止め、吐き、止めた。
暗がりが揺れた。
松明の光が、まず“皮膚”を拾う。岩みたいな質感。削れた筋。ひび割れのような線。大きい。通路の幅を使って、こちらへ出てくる。
そして――向こうの目が、光った。
見つかった。
空気が一段、冷える。
ルーシーは呼吸を止め、吐き、止めた。身体の内側だけを落ち着かせる。
グレンの声が走った。
「来たぞ!」
その瞬間、グレンがルーシーの方へ顔だけ向けて、低く言い始める。
「あれは――」
年内最後までお付き合い頂きまして本当にありがとうございました。この話を持って年内の投稿は最後とさせて頂きます。年明けからは2-3日ごとに更新していく予定です。
しばらくお休みをとってから,また連載を始めますので,引き続きよろしくお願いいたします。




