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異世界で普通に生きるために危ない仕事をする  作者: Yuki


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第51話 静かな店で

ここまで読んでいただき、ありがとうございます!

「面白かった」「続きが気になる」と思っていただけたら、上にある【ブックマーク】や【評価(☆☆☆☆☆)】を押していただけると、執筆の励みになります!

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夕方のギルドは、昼とは別の温度をしている。

 掲示板の前の人だかりは消え、代わりに、紙の擦れる音と、帳簿のページがめくられる音が空間の芯を作っていた。石畳を歩く靴音が、昼より少しだけ遠く感じる。


 ルーシーはカウンターに立ち、短く報告した。


「以上です。本日の依頼、問題ありませんでした」


 マレーナは頷き、差し出された用紙に目を落とす。

 その動作に無駄がない。線を引くところ、確認するところ、迷いがない。カウンターの端ではフィリスが別の束を整え、依頼票を仕分けしていた。視線は上げないが、話の流れはきちんと同じ机の上に置かれている。


「ええ。記録するわ。お疲れさま」


「ありがとうございました」


 これでルーシーの用事は終わる。冒険者の報告は、手続きを済ませた瞬間に切れる。残るのは、今日をどう終えるかだけだ。


 隣でエリーが控えめに立っていた。まだ新人らしく、手が動いている間は集中しているが、終わりが近づくと微かに呼吸が浅くなる。自分の緊張が抜けていくのが分かって、逆に落ち着かなくなる。そういう年齢の揺れが、仕事の所作の端に出る。


 マレーナは書類をまとめ、エリーの方だけを見た。


「エリー、今日はここまででいいわ。もう上がって大丈夫」


「は、はい……!」


 返事が少しだけ高い。

 エリーはペンを揃え、椅子を引く音を立てないように気をつけて立った。立ち上がった瞬間、肩が一段落ちる。自分でも分かるくらい、ほっとしている。


 その“切れ目”に、ルーシーは一拍置いた。

 勢いで言うのは違う。こういうことは、切り替えの瞬間に、静かに置く方がいい。


「……あの」


 二人の視線が向く。


「前に、お世話になりました。もしご都合がよければ、今日……外で食事でも」


 言い切ってから、少しだけ間を作る。

 説明はしない。長く語った瞬間に、重くなる。


 それから付け足した。


「エリーさんも、ご一緒できれば」


 エリーは一瞬、完全に固まった。

 目が丸くなる。頬がわずかに赤くなって、視線が宙を泳ぐ。憧れの冒険者に誘われた、と頭が理解するより先に、身体が反応している。


「え……あ……」


 喉が鳴る音が聞こえそうなくらい、息を飲む。


 マレーナはその様子を見て、ほんの少しだけ目を細めた。拒む気配はない。ただ、受け取るための静けさがある。


「いいわ。行きましょう」


 エリーは慌てて背筋を伸ばした。


「ご、ご一緒しても……よろしいのでしたら……!」


 敬語は崩れない。だが、声に滲む熱が隠しきれていない。

 その反応が、逆に健全だった。


          ◇


 ギルドを出ると、エルデンの夜は静かだった。

 カルディナの夜のような、熱と喧噪の塊がない。人の流れは早く家へ向かい、通りに残るのは、ぽつぽつと点る灯りと、帰り道の足音だけだ。店の扉から漏れる匂いも、騒音に潰されず、一本の線になって鼻を掠める。


 冷えた空気の中で、匂いは遠くまで届く。

 焼けた油の匂いよりも、煮込みの湯気の匂い。木の煙。乾いた香草。乳の甘い匂い。


 エリーが歩きながら、小さく言った。


「……夜のエルデンって、こんなに静かなんですね」


「はい。カルディナより、人が引くのが早いです」


 ルーシーも同じことを思っていた。

 エルデンで、夜に外食するのは初めてだ。自分の家を借りたまま、ほとんど住めずに流されて、ずっと宿と現場を往復してきた。落ち着いて“店に入って食べる”という当たり前が、ここではまだ自分の生活に馴染んでいない。


 ただ、カルディナで一度、外で食べる飯の旨さを知ってしまった。

 あの熱い皿、湯気、脂、塩気。あれが体に入った瞬間の回復。

 だから、今日は最初から期待している。


 ルーシーが選んだのは、賑やかな酒場ではなく、食事のための店だった。入口の灯りは控えめで、看板も派手ではない。けれど、扉の隙間から漏れる匂いが、ここが“ちゃんと料理を出す”場所だと教えてくれる。


(……悪くない)


 扉を押すと、暖かい空気が一枚、顔に当たった。

 湯気と匂いが混ざった室内の温度。木の床の乾いた匂い。どこかで煮えた鍋が泡を立てる音。


 エリーがまた小さく息を呑む。


「……わ……」


 ルーシーも、内心で同じ声を出していた。

 静かな店だ。客は多くないが、皆、食べるために座っている。笑い声は低く、皿と器の音がよく聞こえる。


 三人は奥の席に通され、腰を下ろした。


「エリーさんは、こういう店……」


 ルーシーが言いかけると、エリーはすぐに首を振った。


「初めてです。夜に外で食べるのも……ほとんど……」


 言いながら、自分の声が小さすぎたことに気づいたのか、慌てて続ける。


「いえ、昼にパンを買うことはあります。でも、こういう……座って、ちゃんと……」


 語尾が消える。照れと緊張が混ざって、頬がまた少し赤くなる。


「私も、エルデンでは初めてです」


 ルーシーが言うと、エリーは驚いたように目を向けた。


「……そうなんですか?」


「カルディナでは、ありました。仕事終わりに」


 その“仕事終わり”という言い方だけで、エリーの目が少しだけ輝く。

 すぐに質問が飛んできそうな気配がある。


 マレーナは、注文を急がせない。

 ただ席に座り、店の空気が落ち着くのを待つ。その間、ルーシーの表情だけを静かに見ている。忙しい時の視線ではない。職員の目でもない。もっと個人的な、確かめる目だ。


 最初に運ばれてきたのは、飲み物ではなかった。

 小さな木皿に、薄く切られた野菜の漬け物。塩と香草で締めたものらしく、青い匂いがする。噛むと、しゃり、と音が立つ。舌に走る酸味が、口の中を一度、リセットする。


 次に、まだ熱い布で包まれた丸いパンが置かれた。

 布を開いた瞬間、湯気がふわっと上がる。焼けた麦の匂いが、鼻の奥をくすぐった。


 ルーシーはパンを割った。

 表面は薄く硬いが、中は柔らかい。指に小麦の粉が付く。ちぎった断面から、湯気が逃げていく。


 小皿が添えられる。

 白い、濃い塊。山羊乳のチーズだ。匂いが強すぎない。むしろ、温かいパンと合わせるための、控えめな香り。


 パンにチーズを乗せ、噛む。

 最初にパンの甘み。次にチーズの塩気。舌の上で溶ける脂が、ほんの少しだけ喉に残る。


(……いい)


 カルディナで食べた“脂の爆発”とは違う。

 これは静かな旨さだ。胃に落ちる速さが、落ち着いている。


 エリーが、ぱっと顔を上げた。


「……これ、すごく……匂いが……」


 言い終える前に、また別の皿が来た。

 白身魚の蒸し煮。川魚だ。骨を抜いてあるのか、身が崩れやすい。乳と刻んだ茸で作った薄いソースがかかっていて、湯気に茸の匂いが混じる。


 スプーンを入れると、身がほろ、と割れた。

 柔らかい。水分が多い。噛むと、淡い甘みが広がる。ソースがそれを押さえ、茸の香りで輪郭を作る。


 エリーがすぐ話しかけてくる。


「これ、どうやって食べるのが……正しいんでしょうか」

「骨……ないんですか?」

「茸って、こんな匂いになるんですね……!」


 質問が止まらない。

 ただし、どれも上からではない。純粋な興味だ。初めての店、初めての皿、初めての夜の外食。緊張が、好奇心に押し出されている。


 ルーシーは短く答えながら、食べる。

 だが、内心では別の計算をしていた。


(……まだ足りない)


 魚とパンとチーズ。身体は喜んでいるが、量としては足りない。

 胃の奥に、空きがある感覚が残っている。燃費の悪さは、誤魔化せない。


 次に運ばれてきたのは、香りの強いスープだった。

 透明ではない。淡い茶色で、とろみがある。麦を煮溶かしたものに、刻んだ根菜と香草が入っている。湯気から、土っぽい甘さが立つ。


 口に入れると、舌にざらりとした粒が残る。

 麦の粒だ。噛むとぷつ、と弾けて、甘みが出る。スープは濃いのに、油は少ない。熱がゆっくり落ちて、喉を温め、腹に沈む。


 ルーシーはここで、自然に追加を頼んだ。


「このスープを、もう一杯。あと、主菜も」


 言い方は淡々としている。

 注文の内容が異常だという自覚が、本人には薄い。


 エリーが一瞬、目を丸くした。


「……もう、追加されるんですか?」


「はい。多分、まだ足りません」


 言い切ってから、ルーシーはスープをまた一口飲む。

 嘘ではない。足りないものは足りない。


 マレーナは何も言わない。

 ただ、ルーシーの手元と皿を見て、ほんの少しだけ目の色を変える。驚きではなく、納得に近い。あの時、寮を訪ねた時の顔と同じだ。心配と理解が混ざった、言葉にならない表情。


 主菜が来るまで、少し間が空いた。

 店の奥で鉄板に肉が触れる音がした。じゅ、という短い音。香草が熱で弾ける匂い。

 待つ時間の間、エリーの質問はさらに加速する。


「普段って、何を食べてるんですか?」

「野営の時って、温かいもの……ないですよね?」

「装備が重いのに、歩き方が……あ、すみません、変な質問で……」

「いえ、でも、歩き方って、意識すると変わるんですか……?」


 ルーシーは笑わない。だが、嫌がってもいない。

 質問が多いのは、嫌ではなかった。

 それが“日常”の音に近いからだ。


「意識すると変わります。癖も出ます」

「癖……」

「足の置き方とか。重心とか」


 エリーは、なるほど、と何度も頷く。メモを取りたい顔だ。

 その様子に、マレーナが一度だけ、口元をわずかに緩めた。ほんの一瞬だが、確かに柔らかい。


 主菜が運ばれてきた。

 大皿ではない。深皿だ。

 香草を詰めた鳥肉の蒸し焼き。表面は薄く焼き色があり、内側の水分を閉じ込めたまま、湯気を立てている。付け合わせに、潰した根菜のペースト。色は淡く、匂いは甘い。


 ナイフを入れると、肉がすっと割れる。

 繊維が細い。白い湯気と一緒に、肉の匂いが上がる。焼いた香りではなく、蒸した香り。熱と一緒に、腹が反応する。


 噛むと、柔らかい。

 歯が沈むと同時に、肉汁が広がる。香草の匂いが舌の上に残り、飲み込んだ後に喉に少しだけ甘い後味が残る。


 根菜のペーストを合わせると、甘みが増す。

 塩気と甘みが、交互に来る。パンが欲しくなる。パンをちぎって、ソースを拭うように食べる。


 ここで、追加のスープが来た。

 同時に、パン籠が静かに補充される。店員の動きが無駄なく、言葉がない。まるで、最初から予定されていた流れみたいに。


 エリーは、途中で完全に数を数えかけた顔になり、やめた。

 数えたら負ける、とでも思ったのか、慌てて自分の皿に視線を戻す。だが、視線はまたルーシーへ戻ってしまう。


 ルーシーは、止まらない。

 食べる。飲む。噛む。パンをちぎる。

 そのたびに、身体の内側が静かに整っていく感覚がある。疲れが抜け、筋肉の重さが均される。熱が腹の底に溜まり、そこから全身へ回っていく。


(……戻ってくる)


 昼間の張り詰めた感覚が、ほどける。

 戦闘でも訓練でもない。食事だけで、身体が落ち着く。


 マレーナは、その変化を見ていた。

 ルーシーの肩の力が抜けるのを、呼吸が深くなるのを、目の下の緊張が薄くなるのを。

 声はかけない。だが、目線がずっと外れない。


 さらに一品、運ばれてきた。

 鍋ではない。小さな鉄皿。

 麦と茸を炒めてから煮た粥のような料理。粥というより、粒が立っている。熱い。スプーンを入れると、湯気が立つ。茸の匂いが濃い。乳の匂いが少しだけ混じる。


 口に入れると、まず熱い。

 舌が一瞬、引く。

 次に、麦の粒が歯に当たり、ぷつ、と潰れる。茸の旨味が出て、喉に香りが残る。油は少ないが、腹に溜まる重さがある。


 ルーシーはここで、もう一杯、スープを飲んだ。

 その上で、またパンをちぎる。


 エリーが、ついに声を絞り出す。


「……その、失礼かもしれないんですが……」

「はい」

「……ずっと、それくらい食べられるんですか?」


 質問は評価ではない。

 純粋な恐れに近い。


 ルーシーは一瞬考えて、答えた。


「多分、これでも足りない日があります」


 エリーが固まる。

 そして、次の瞬間、変なところで笑いそうになって、慌てて口を押さえた。


「……す、すみません、笑うつもりじゃ……」

「大丈夫です」


 ルーシーは淡々としている。

 その淡々が、余計におかしい。


 マレーナが、ついに一度だけ口を開いた。


「……明日の分まで食べているわけでは、ないのよね」


 声は低い。冗談の言い方ではない。

 だが、真顔で言っているからこそ、場の空気が一瞬だけ揺れて、エリーが耐えきれずに肩を震わせた。


「……っ、すみません……!」


 エリーは小さく笑ってしまい、慌てて背筋を正す。

 マレーナ自身も、言ってしまったことに少しだけ驚いたのか、視線を逸らした。ほんの一瞬だけ、耳が赤い気がした。気のせいかもしれない。


 ルーシーは真面目に返す。


「多分、今日の分です」


「……そう」


 そこで会話は終わる。

 それ以上は言わない。

 だが、マレーナのその一言だけで、場に温度が残った。


 食事はさらに続いた。

 最後に運ばれてきたのは、甘いものではなかった。

 香草を刻んだ温かい湯と、薄い乾燥果実。口の中を整えるためのものだ。甘みは弱いが、喉が楽になる。


 ルーシーはそれを飲み、ようやく息を吐いた。

 満腹というより、やっと“足りた”という感覚。胃が重いのに、身体は軽い。矛盾しているが、今の自分にはそれが普通だった。


「……ごちそうさまでした」


 声が少し柔らかい。

 自分でも分かるくらい、落ち着いている。


 エリーは、まだ興奮が残っている顔で、でも敬語を崩さずに言った。


「……すごく、おいしかったです。

 あの……質問ばかりで、すみませんでした」


「いえ。楽しかったです」


 ルーシーはそれだけ言う。

 “お礼”の説明は、やっぱりしない。

 その代わり、今ここに座って食べたという事実が、全部を代わりにしている。


 店を出ると、エルデンの夜はさらに静かになっていた。

 灯りは減り、遠くの足音がよく響く。冷たい空気が頬を撫でるが、腹の底の熱が消えない。


 マレーナが歩きながら、ぽつりと言った。


「……元気そうで、安心したわ」


 それだけだった。

 評価でも、助言でもない。

 ただ、受け取ったという合図。


「はい」


 ルーシーは短く答えた。


 それ以上の言葉は、いらなかった。

 胃の重さと身体の軽さが同居している。

 その矛盾ごと、今夜は心地よい。


 エルデンの静かな夜道を、三人はそれぞれの帰路へ分かれていった。

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