第50話 帰還護衛③ 評価と判断
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六日目の朝は、音が少なかった。
夜明けの冷えがまだ地面に残り、街道の土はしっとりと締まっている。荷車の車輪が小石を噛む音も、どこか鈍く、遠くへは伸びなかった。
視界の先に、白い線が見え始める。
城壁だ。
エルデン。
御者が息を吐き、馬の歩調をほんのわずかに落とす。手綱の引き具合が変わっただけなのに、隊列の空気が一段だけ緩むのが分かった。
「最後まで同じだ」
ブレイデンの声は短い。
誰も返事をしない。返す必要がない。
ここまで一度も崩していないものを、門が見えたからといって変える理由はなかった。
ルーシーは中央の外側を歩き続けた。荷車との距離は一定。歩幅も一定。呼吸は腹に落ちたまま、浅くも深くもならない。
(……終わる)
派手な勝ち方はしていない。
だが、事故もない。
護衛として、いちばん価値のある終わり方だ。
◇
東門を抜けると、空気が変わった。
石畳に靴音が返る。
人の声が近くなる。
馬具の金具が、土の上よりはっきり鳴る。
街の中の音だ。
隊列は自然に解けたが、散り方が雑にならない。プロの護衛の終わり方は、最後まで「形」を残す。
客人の馬車が止まる。幌が静かに持ち上がり、中から一人の女性が降りた。年若いが、動きに迷いがない。周囲を見る目が、すでに「見られる側」のそれだった。
ルーシーは視線を向けない。護衛の仕事は、相手を見て安心することではなく、相手が安心できるように「余計な気配を出さない」ことだ。
「到着だ。異常なし」
ブレイデンが告げる。
「ご苦労でした」
女は短くそう言って、深くは踏み込まなかった。
礼は礼として置き、関係を増やさない。こういう場で余計な近さは、むしろ危険になる。
護衛は一礼し、下がった。
これで仕事は終わり——ではない。
帰ってからの報告が、まだ残っている。
◇
ギルドの扉を押すと、昼の喧騒が一気に流れ込んできた。
掲示板の前の人の塊。
受付に並ぶ商人。
依頼の報告を終えて、肩を回す冒険者。
エルデンのギルドは、相変わらず「動いている」。
ルーシーはその流れの端を歩いた。
報告窓口へは向かわない。正式な報告はブレイデンがまとめる。自分は“含まれている側”で、前に出る側ではない。
壁際を抜け、出口に向かった、その時だった。
「……ルーシー?」
声が、わずかに揺れた。
足が止まる。
振り返ると、カウンターの内側にマレーナがいた。書類を手にしたまま、立ち上がりかけている。立ち上がるつもりだったのに、途中で止めたみたいな動きだった。
目が、こちらを一度で捉える。
怪我はないか。
どこかを庇っていないか。
顔色はどうか。
確認するような視線が、上から下へ流れた。
「……おかえり」
それだけ言って、マレーナは息を吐いた。声に、抑えきれない安堵が滲んでいる。
けれど、職員としての顔は崩さない。崩しそうなところを、自分で押さえ込んでいる。
「ただいま、です」
ルーシーは自然に答えていた。
挨拶というより、条件反射に近い。
「長かったわね」
マレーナはそう言ってから、小さく笑った。笑いは柔らかいのに、目の奥がまだ落ち着いていない。心配が完全には抜けていないのが分かる。
「顔、見ておきたかったの」
それ以上は言わない。
聞かない。
抱きしめない。
ここはギルドだ。仕事の場所だ。
それでも「見ておきたかった」と口にするのは、抑えた感情の端だけを外に出した形だった。
「問題は?」
問いは短い。
内容は、仕事の確認だ。
「ありません」
ルーシーも短く返す。
ここで余計な言葉を増やすと、空気が崩れるのが分かっている。
「そう」
一拍。
「……それなら、いいわ」
それで十分だった。
帰ってきた。生きている。動けている。
その確認だけで、胸の奥の何かが少しだけ落ちる。
少し離れた場所で、エリーがこちらを見ていた。いつものように背筋が伸びていて、軽く会釈をしてくる。
「お久しぶりです」
「お久しぶりです」
余計な言葉はない。
それがエリーの礼儀で、ルーシーにも心地よい距離だった。
マレーナは書類に視線を戻したまま言う。
「今日は、もう戻っていいわ」
「はい」
「……自分の家に、ね」
一瞬だけ視線が上がる。
真っ直ぐではない。だが確かに、そこに「帰る場所」を確認する目がある。
「ちゃんと、帰りなさい」
命令ではない。叱責でもない。
“帰るまでが仕事”という言い方にも似ているが、それよりもずっと個人的な温度が混ざっていた。
「分かりました」
ルーシーが答えると、マレーナは小さく頷いた。
そして、ルーシーが扉を出るまで、その背中から視線を外さなかった。
◇
同じ頃。ギルドの奥。
執務室の空気は、表の喧騒と切り離されていた。壁が厚いわけでもないのに、聞こえる音が違う。必要なものだけが残っている。
ブレイデンは報告書を机に置いた。余計な装飾のない紙。余計な感想のない文字。
ローデリックが受け取り、目を通す。
視線の動きが速い。読むというより、確認している。
「事故は」
「ない」
「独断は」
「ない」
「追撃は」
「させていない」
短い問答が、淡々と続く。
ローデリックは紙を机に置き、腕を組んだ。
「……中央はどうだった」
中央。
つまり、ルーシーの位置だ。
「前に出ない」
ブレイデンは一拍置いて続ける。
「だが、抜けない。隊列に穴を作らない」
「撃ったか」
「撃っていない」
「倒したか」
「倒していない」
ローデリックの眉が、ほんのわずかに動く。
不満ではない。むしろ、確認が取れた反応だった。
「止めた、ということか」
「止めただけだ」
ブレイデンは言い切る。
それは評価というより、事実だ。
ローデリックは息を吐き、椅子にもたれた。
「Dに置く理由は」
問う声は、低い。
ここが、分岐点だ。
ブレイデンは即答しなかった。
一瞬だけ、考えるふりをした。
だが、その間の短さが、答えを決めていた。
「ない」
ローデリックは頷く。
「……なら、次はCの基準で見る」
それが、判断だった。
書類に判を押す音が、乾いて響く。
「本人には?」
ブレイデンが確認する。
「言うな」
ローデリックは即答する。
「知らずに動けるなら、その方がいい。
“知って慎重になる”のは、時に形を崩す」
ブレイデンは短く頷いた。
「分かった」
それ以上の会話はない。
決まったことは、決まったこととして置かれる。
◇
ルーシーは街路を歩いた。
ギルドから離れるほど、人の流れが変わる。仕事帰りの商人。市場へ向かう子ども。荷物を抱えた職人。冒険者の気配が薄れ、生活の匂いが濃くなる。
角を曲がる。もう一つ曲がる。
見慣れた塀が見えた。
商業ギルドが管理する敷地の一角。
商家の離れとして整えられた、小さな建物。
自分の家。
(……帰ってきた)
鍵を取り出す。
金属が指に冷たい。
錠に差し込み、回す。
カチャリ。
静かな音なのに、胸の奥に落ちる重さがある。
外側の世界と、内側の世界が分かれる音だ。
扉を開ける。
誰の声もない。
誰の気配もない。
部屋の匂いは、少しだけ埃っぽい。
長く留守にしていた家の匂いだ。
それでも嫌ではない。むしろ、落ち着く。
靴を脱ぎ、壁に手をつく。
身体から鎧を外す動作が、ここでは急がなくていい。
剣を立てかける位置も決まっている。
あの時、ようやく整えた“城”。
借りた家だ。
だが、「借りた」だけで終わっていない。
寝具を運び込み、水場を確認し、鍵の感触を確かめた。
扉を閉めた夜の静けさを、ちゃんと覚えている。
だから、戻ってくる価値がある。
「……はぁ」
息が零れた。
疲労は残っている。
だが、緊張がほどけていく速度が、野営や宿とは違う。
椅子に腰を下ろし、天井を見上げる。
梁の位置も、染みの形も、記憶と一致する。
(……生き延びたな)
大げさな言葉じゃない。
ただ、事実として。
ふと、過去の場面が浮かぶ。
この世界に来て、まだ二か月。
寮で暮らしていた頃。
ギルド貸し出しの装備を確認する、と言って、マレーナは訪ねてきた。
用事はすぐ終わった。装備の状態を見て、書類を確認して、それで終わるはずだった。
それでも帰らなかった。
椅子に座って、急かさず、問い詰めず、
ただ「話せるなら聞く」という姿勢でそこにいた。
後になって分かった。
あれは用事ではなく、口実だった。
心配して来てくれたのだ。
助けを求めたわけじゃない。
泣きついたわけでもない。
それでも、救われた。
その“借り”が、まだ返せていない。
(……明日、誘おう)
家に呼ぶのはまだ違う。
部屋が整っていないというより、こちらの気持ちが整っていない。
だから外でいい。
礼を返すのに、十分な場所は街にある。
ルーシーは立ち上がり、水場へ向かった。
桶の水に手を浸す。冷たさが指先から上がり、疲労の輪郭がはっきりする。
洗い流す。
拭き取る。
装備を片付ける。
ひとつずつ、自分の手で整える。
そういう順番が、今は必要だった。
灯りを落とすと、部屋の静けさが増した。
外の音は遠い。ここは内側だ。
明日、ギルドへ行けば、いつも通りの顔で仕事が回る。
マレーナも、エリーも、いつも通りにいる。
その中で、少しだけ、礼を返す。
ルーシーは布団に身を沈めた。
野営の硬さでも、宿のよそよそしさでもない。
自分の城の、いつもの重さ。
目を閉じると、眠りは早かった。
――何かが決まったことを、まだ知らないまま。




