第55話 基礎修行⑧ やらない判断
朝のカルディナは、相変わらず人の動きが早い。
商人は日の出と同時に動き出し、荷車は城門の開閉を待たずに列を作る。冒険者も同じだ。仕事を取る者、昨日の報告を済ませる者、次の依頼に向けて装備を整える者。街は常に、何かを「進めている」。
ルーシーは、その流れから外れるように街を出た。
時間は朝。だが目的は仕事ではない。今日のこの時間帯は、三ヶ月続けてきた“自主練”の枠だ。
街道を少し外れ、踏み固められていない道を進む。
足裏に伝わる感触が変わる。石畳から土へ。整えられた地面から、不揃いな地面へ。
剣は背中にある。
抜かない前提で、そこにある。
カルヴァンに言われた言葉は、ずっと変わらない。
――追うな。
――終わらせに行くな。
それだけだ。
修行の最初は、もっと言葉が多かった。
姿勢、距離、踏み込み、剣先の角度。
だが一ヶ月も経たないうちに、説明は減り、指示は短くなった。最後に残ったのが、この二つだけだ。
ルーシーは、足を止めた。
空き地に着いたからではない。
“止まる癖”を、ここで一度挟む。
呼吸を乱さない。
整え直すというほど大げさなことはしない。
ただ、身体が勝手に前に出ないかを確認する。
――行ける気がする。
その感覚が出たら、今日は危ない。
だから、行けるかどうかを考えない。
空き地の端に、カルヴァンがいた。
外套は羽織っていない。杖もない。
最近はずっとこの格好だ。魔法使いとしてではなく、観測者として立つ日が増えていた。
「おはようございます」
「ああ」
それだけの挨拶。
揃ってから、余計な確認はしない。
カルヴァンは、少しだけ立ち位置を変えた。
正面ではない。横でもない。
斜め後ろ。視界の端に入る位置。
――見られている。
この感覚は、三ヶ月経っても消えない。
だが、消えなくていい。
消えたら、判断が緩む。
「今日は――」
カルヴァンが言いかけて、止めた。
そして、いつもの言葉だけを落とす。
「出力は上げるな」
「はい」
「追うな」
「はい」
一拍。
「終わらせに行くな」
「はい」
それで終わりだ。
今日も、説明はない。
ルーシーは視線を前に戻した。
空き地は静かだ。
草の揺れ、遠くの音、風の向き。すべて、いつもと変わらない。
しばらく、何も起きない。
この時間が長いことは、分かっている。
長いからこそ、頭が動く。
――今日は何も来ないかもしれない。
――来ないなら、少し動いて確認したい。
――確認しないと、判断が正しかったか分からない。
(やらない)
確認は、追いの入口だ。
入口に立った時点で、事故に近い。
ルーシーは、足裏の感覚だけを拾った。
土の柔らかさ。小石の位置。
今ここに立っている、という事実だけを残す。
振動が来た。
地面の奥から、鈍い揺れ。
数は複数。間隔はばらけている。
視線を上げる前に、身体が反応しそうになる。
止める。
剣に触れない。
触れたら、そこから先は“戦闘”になる。
瓦礫の影から、三つの影が現れた。
距離はまだある。だが、こちらを意識している。
ヴァルだ。
一体が低く唸り、もう一体が横へ動く。
残りは間を詰める機会を待っている。
囲みに来ている。
だが、まだ揃っていない。
――ここで踏み込めば、終わる。
ルーシーは半歩、横へ動いた。
前ではない。後ろでもない。
正面を外す。
距離が変わる。
相手の動きが、一瞬だけ遅れる。
この瞬間、身体が「行ける」と判断する。
踏み込める。
剣を抜いて、制圧できる。
(終わらせに行くな)
踵を地面に残す。
前足に体重を乗せない。
一体が距離を詰めた。
近い。
だが、まだ致命的ではない。
ルーシーは剣を抜いた。
抜いたが、振らない。
剣先を低く、地面すれすれに向ける。
先端で土を撫でるほどの高さで、線を引く。
ここから先は来るな、という線。
声は出さない。
威嚇はしない。
剣の位置と距離だけで押す。
一体が止まる。
止まった瞬間、横へ回ろうとしていた影も足を止める。
三体の動きが揃わない。
揃わなければ、踏み込めない。
時間が引き延ばされる。
背中の内側に、熱が溜まる。
身体が楽になる兆し。
出力を上げれば、すぐに終わる。
(上げない)
ルーシーは、ほんのわずかに距離を取った。
下がる。
追わない代わりに、下がる。
距離が広がると、相手の集中が薄れる。
三体のうち一体が後ずさり、もう一体もそれに引かれる。
最後の一体が粘る。
だが踏み込まない。
――追えば、終わる。
追わない。
ルーシーは剣先の位置を保ったまま、動かない。
動かないこと自体が、選択だ。
やがて、三体は揃って瓦礫の向こうへ退いた。
唸り声が遠ざかる。
ルーシーは追わない。
剣も、まだ納めない。
終わったと思った瞬間が、一番危ない。
呼吸を乱さず、足裏の感覚を拾い続ける。
何も起きない時間が戻る。
この時間が、もう一度来る。
――確認したい。
――今の判断は正しかったか。
――もう少し前に出ても良かったのではないか。
(やらない)
確認のための行動は、追いだ。
追いは、事故につながる。
ルーシーは視線を下げた。
地面を見る。
今に戻る。
しばらくして、背後で足音が鳴った。
「……そこまでだ」
カルヴァンの声は短い。
評価も、説明も含まれていない。
ルーシーは剣を納めた。
速くしない。
鞘に刃が触れる音を小さくして、最後まで同じ速度で。
納め終えてから、振り返る。
「はい」
理由を聞かない。
結果も聞かない。
カルヴァンは一歩前に出て、空き地を見回した。
敵を探す視線ではない。
余計な動きがなかったかを確かめる視線だ。
「基礎は、ここまでだ」
それだけ言って、踵を返す。
次の指示はない。
次の課題もない。
だが、区切りだと分かる。
ルーシーは一礼した。
「ありがとうございました」
カルヴァンは足を止めず、横顔だけで返した。
「……崩れなかったな」
それで十分だった。
崩れなかった。
追わなかった。
終わらせに行かなかった。
派手な成果はない。
だが、事故もない。
ルーシーは歩き出した。
来たときと同じ速度で。
速くならない。
速くなるのは、追いが出た証拠だ。
街が近づく。
人の声が増え、石畳の音が戻る。
背中の剣は、そのままそこにある。
抜くためではなく、抜かずに済ませるために。
基礎は、ここまで。
そう言われた言葉が、遅れて胸に沈んだ。
終わったという実感は、静かだった。
だが、確かに残る。
ルーシーは人の流れに紛れ、カルディナの朝へ戻っていった。




