第5話 鈴木優成、壊れる
土曜の午後、雨が降っていた。
窓に水の線がいくつも走り、外の景色をゆがめている。
安西直は、濡れた傘を玄関に立てかけながら、スマホの画面を見つめた。
《少し、話したいことがあります》
鈴木からのメッセージ。
送信時刻は一時間前。
返信の指が止まる。
結局、《今から出ます》と打ち、傘を取り直した。
喫茶店のドアを開けると、いつもより静かだった。
雨のせいで客が少ない。
鈴木は奥の席にいた。
いつもより疲れた顔をしていた。
目の下のくま、結ばれた唇。
「こんにちは」
声をかけると、彼はかすかにうなずいた。
「来てくれて、ありがとうございます」
「どうしたんですか」
鈴木は、カップのふちを指でなぞった。
しばらくの沈黙。
「昨日、前の職場の人に会ったんです」
直は少し身を乗り出した。
「偶然?」
「ええ。……もう二年も経つのに、まだ“あの頃の鈴木”として話しかけられた」
「“あの頃”?」
「全部を上手くやってた頃です」
雨音がガラスを叩く。
鈴木の声は静かだった。
「僕、昔は“何でもできる人”だったんですよ。
仕事も早くて、後輩にも慕われて。
“普通の優秀な社員”って言われてました。
でもある日、急に、音が消えたんです」
「音?」
「人の声が、全部ノイズみたいに聞こえて。
それから数日で、頭の中がぐちゃぐちゃになって……。
気づいたら会社の床に倒れてました」
直は何も言えなかった。
「倒れたあと、病院で“適応障害”って診断されて。
でも、誰も信じてくれなかったんです。
“あの鈴木さんが?”って。
僕も、自分で信じられなかった。
“普通に戻らなきゃ”って思って、無理やり笑った。
でも、笑うたびに音が消えていった」
鈴木は笑った。
それは、どこか壊れた音をしていた。
直は、コーヒーを持つ手が少し震えた。
「……戻れたんですか」
「いいえ。戻る努力をやめて、ようやく息ができるようになった。
でも、その代わりに、社会では“壊れた人”になりました」
「壊れた人……」
「“普通”って、誰が決めてるんですかね。
僕、あの言葉がいちばん怖いです」
その言葉を聞いた瞬間、直は胸の奥がざらついた。
“普通”という言葉。
何度も言われ、何度も逃げてきた音。
「私も、“普通”を演じてます」
鈴木が顔を上げた。
「知ってます」
「え?」
「最初に会ったときから、なんとなく。
あなたの“おどおど”は、本物の怯えじゃない。
演技が上手すぎる人の、呼吸の浅さなんです」
その言葉に、直の心臓が跳ねた。
「……わかってたんですか」
「うん。でも、言わないほうがいいと思ってた」
「なんで」
「誰だって、生きるために仮面を使うから」
直は、言葉を失った。
“仮面”という言葉を、彼の口から聞くことになるとは思っていなかった。
「でもね」鈴木が続けた。
「あなたの“ふり”は、誰かを騙すためじゃない。
誰かを傷つけないための、優しさだと思う」
「優しさ?」
「うん。……あなたは、“理解されるための障がい者”を演じてる。
本当は、理解されなくてもいいって思ってるのに」
直は息をのんだ。
彼の言葉が、まるで自分の内側をそのまま読まれているようだった。
「私は……」
言葉が喉で止まる。
「本当の自分を出したら、また“嘘つき”って言われると思って」
「言われますよ、きっと」
「え?」
「でも、その嘘は、世界に合わせるための真実です」
鈴木の声は静かだった。
その言葉に、直は不意に涙が出そうになった。
「鈴木さん……」
「はい」
「あなたって、不器用ですね」
「よく言われます」
二人は少しだけ笑った。
外の雨は止んでいた。
窓の外で、光がアスファルトを照らしている。
その光はどこか濡れていて、やさしかった。
「また会えますか」
鈴木が言う。
「ええ。……でも、次はお互い“ふり”をやめたら、何が残るんでしょうね」
「それを見たいんです」
直は、少し黙ってからうなずいた。
「……怖いけど、見てみたい気もします」
帰り道、街の光が滲んで見えた。
信号の赤が、雨の粒に揺れている。
直は、心の中でつぶやいた。
〈彼は“普通”を壊してくれた人だ〉
〈私の“ふり”が、ようやく息をした〉
家に着いて、ノートを開いた。
〈演技と素のあいだに、私の居場所がある。〉
〈壊れた普通と、おどおどしたふり。どちらも私の一部だ。〉
ペンの先が止まり、静かな夜が戻ってきた。
〈ふりを続けながら、生きてみようと思う。〉




