第4話 ふりの重さ
朝の冷気が部屋の隅に溜まっていた。
カーテンを開けると、雲の切れ間から少しだけ光が射した。
安西直は、いつもよりゆっくり動いた。
体が重いというより、心が動くのを待っている感じだった。
コーヒーを淹れて、湯気を見つめる。
ノートを開くと、昨日の文字が目に入った。
〈僕という言葉だけが、まだ息をしている〉
読み返すたびに、胸の奥で何かが沈む。
“息をしている”という言葉が、まるで他人の書いたもののように見えた。
仕事へ向かう電車の中。
いつも通り吊革を握り、窓の外を見る。
駅をいくつか過ぎた頃、彼女は小さく笑った。
——今日も、“演じる”日だ。
会社に入ると、空気がすぐに変わる。
「おはようございます」
少しおどおどした声。
“いつもの直さんだ”という顔を同僚たちがする。
机の上の書類が山になっていた。
「これ、お願いしていい?」
「はい……えっと、頑張ります」
わざと語尾を弱めて答える。
“頼まれる側”でいることが安全だと知っているから。
ほんとは三分で終わる仕事。でも、ゆっくり動く。
“できない人”を演じる手の震えも、もう自動的に出せるようになっていた。
昼休み。
トイレの鏡の前で、髪を整えるふりをしながら、自分を観察する。
「お前らが思う“自閉症”って、これやろ」
心の中でつぶやいた。
ゆっくりと、視線を合わせないようにして、口元を曖昧に笑う。
“このくらい不器用なら、信じてもらえる”。
そうやって何年もやってきた。
でも、罪悪感は消えなかった。
「ほんまに困ってる人たちのこと、利用してるんちゃうか」
夜、布団の中でその言葉が何度も頭に浮かぶ。
——自分の演技が、誰かの偏見を強くしてる。
分かっていてもやめられない。やめたら、信じてもらえないから。
そんな生活の中で、鈴木からまたメッセージが届いた。
《今度、映画を観に行きませんか》
突然の誘いだった。
《僕、最近“人が作った感情”を見るのが怖くて。
でも、あなたとなら見られる気がして》
画面の文字を見つめながら、直は少し笑った。
——“人が作った感情”。それをずっと自分がやってきたのに。
週末、映画館の前。
鈴木はいつものように“普通”に見えた。
穏やかな表情、きちんとした服装。
でも、彼の手の甲の震えは今日もあった。
「今日は何を観ます?」
「どれでも。……僕、内容より空気を観に来てるから」
「空気?」
「周りの人がどんなときに笑うかとか、泣くかとか。
それを見ると安心するんです。自分がズレてるのが確認できるから」
「……それ、私もです」
2人は少し笑った。
暗い館内に入ると、冷たい空気が頬に触れた。
上映中、直はストーリーよりも観客を見ていた。
隣で鈴木が静かに息をしている。
画面の光が、彼の横顔を白く照らす。
“普通そう”な顔。
でも、その奥で何かがいつもギリギリに保たれている。
彼もまた、“ふり”の中で生きている。
そのことが、なぜか少し嬉しかった。
映画が終わると、外の光が眩しかった。
人混みの中を歩きながら、鈴木が言った。
「演技って、悪いことだと思います?」
「場合によると思います」
「自分を守るための演技でも?」
「それでも、時々、罪悪感が残ります」
「どうして」
「“本当の障がい者”を、私が壊してる気がして」
鈴木はしばらく黙っていた。
「壊すって、誰が決めるんですかね」
「……え?」
「“本物の障がい者”って言葉自体、誰かが作った線でしょ。
あなたは、線の上で生きるために仮面を選んだだけだと思う」
その言葉に、直は立ち止まった。
胸の奥で何かがほどけるような感覚。
だけど同時に、涙がこみ上げた。
「そんなふうに言ってくれたの、初めてです」
「初めて、僕も言いました」
2人のあいだに、短い沈黙が落ちた。
夕方、別れ際。
鈴木は改札の前で振り向いた。
「僕たち、似てますね」
「たぶん。でも、あなたのほうが優しい」
「いや、あなたのほうが正直だ」
直は小さく笑った。
「演技してるのに?」
「演技にも、本音がある気がします」
家に戻ると、空は群青色だった。
机にノートを開き、ペンを走らせる。
〈“障がい者のふり”をすることで、生き延びてきた。〉
〈それでも、誰かの偏見を壊す言葉を探している。〉
〈鈴木さんの“普通”は、私の仮面よりも静かだ。〉
手が止まる。
胸の奥に痛みと安堵が同時にあった。
〈ふりの中にも、真実がある。〉
その一行をゆっくりと書いて、ノートを閉じた。
窓の外で、夜風が揺れていた。
「僕」はまだ、口の中で形を持っていた。
演技の外に出なくても、少しだけ自分の声を信じられる気がした。




