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“ふつう”をやめた私と、“自然”をやめた彼。  作者: 妙原奇天


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第3話 壊れた普通

 休日の午前、外は薄く曇っていた。

 窓を開けると、風が冷たく頬に触れる。

 カーテンがわずかに揺れ、その影が床に落ちた。

 安西直は、机の上に開いたノートを見つめていた。

 そこには昨夜書きかけた一文がある。

 〈鈴木さんは、“普通”を装うのが上手い〉

 その下に、書き足しかけの線が止まっている。


 スマホが震えた。

 《今から、少し話せますか》

 差出人:鈴木。

 文章の端に、迷いが混ざっているように見えた。

 《いいですよ》と打ち込み、送信。

 指の先が、わずかに冷たかった。


 待ち合わせは前と同じ、駅前の喫茶店。

 窓際の席に座ると、店員が「お砂糖入れますか」と尋ねた。

 直は小さく首を振った。

 コーヒーに何かを足すのが昔から苦手だった。

 甘くすると、味の輪郭がぼやけてしまう気がする。


 鈴木が現れたのは約束の五分後だった。

 グレーのコートに、黒いリュック。

 髪は整っていて、清潔感のある“普通の人”の姿。

 だけど、彼が椅子に腰を下ろした瞬間、その手の甲が微かに震えているのが見えた。

 直は何も言わなかった。

 彼もまた、何かを“保とう”としているのだと分かった。


 「この前の会、行きました?」

 鈴木が尋ねた。

 「行ってません。……ああいう場、エネルギー使います」

 「わかります。僕も無理でした。……でも、行かないと、また閉じる気もして」

 直はコーヒーをひと口飲んだ。

 「閉じる、って?」

 「自分が。外の音を全部、遮断してしまう感じです」

 「……わかります」

 その“わかります”は、共感ではなく共鳴に近かった。

 似た周波数を持つ音が、互いを探し合っているような。


 少しの沈黙のあと、鈴木が言った。

 「安西さん、どうして自分を“僕”って呼ぶんですか」

 直の手が一瞬止まった。

 「……聞こえてました?」

 「はい。前に、ポツッと。違和感あって」

 「変ですよね」

 「いえ。ただ、僕も子どものころ、自分を“僕”って呼んでました」

 「……男の子だから、ですよね」

 「いや、今思えば、あれも“防御”だったのかも。誰でもない自分を作るために」


 直は視線をカップに落とした。

 表面の黒が、天井の光をぼんやり映している。

 「……私も似てます。防御。

  本当の自分を出すと、みんな、引くから。

  だから、“ふつうの女の人”を演じるようになった」

 鈴木が顔を上げる。

 「演じる、ですか」

 「はい。服の選び方も、声のトーンも。

  こうしてると、安心してもらえるから。……安心させるための努力って、変ですよね」

 「変じゃないですよ。僕も、“話しかけやすい人”を演じてます」

 「でも、あなたは自然に見えます」

 鈴木は小さく笑った。

 「それが演技の成功ってやつです」


 直も笑った。

 少しだけ、肩の力が抜ける。

 笑いながら、頭のどこかで思っていた。

 ――この人は、きっと普通のふりをするのが僕より上手だ。

 でも、上手い人ほど、壊れやすい。


 「僕ね、前の会社で倒れたんです」

 鈴木の声が少し低くなった。

 「倒れた?」

 「朝、急に手が動かなくなって。

  病院で『パニック発作です』って言われて。

  でも、誰にも言えなかった」

 「どうして」

 「“あの人がそんなことになるなんて”って、言われるのが怖くて」

 直はカップを両手で包んだ。

 「……わかる気がします」

 「安西さんも?」

 「僕も、“そんなふうに見えないのに”って、言われるのがいちばん嫌いです」

 鈴木が軽くうなずく。

 「“見えるようにしない努力”をしてるのに、ですよね」

 その一言に、直の胸が痛くなった。


 店を出ると、午後の光がビルの壁に反射していた。

 風が少し冷たい。

 駅まで並んで歩く。

 鈴木は鞄の肩紐を指でつまみながら言った。

 「安西さんって、強いですね」

 「そんなこと、ないです」

 「僕、あなたみたいに、自分を“作れる”人のほうがずっと強いと思う」

 「……それ、褒めてます?」

 「たぶん」

 二人とも笑った。


 駅の階段の手前で立ち止まる。

 「また、会えますか」

 「さあ。……でも、もしまた会ったら、そのときは“演技してる方の自分”を教え合いましょう」

 鈴木が少し驚いたように笑った。

 「面白い約束ですね」

 「演技のままでも、たぶん、本当の話はできるから」


 家に帰ると、空気が静かだった。

 靴を脱いで、リビングの照明をつける。

 机の上のノートを開き、ペンを持つ。

 〈彼の“普通”は、音がしない。〉

 〈私の“女”も、音がしない。〉

 ペン先が止まる。

 指が少し震える。

 〈僕という言葉だけが、まだ息をしている。〉


 その一行を書いたあと、ペンを置いた。

 窓の外の空は、薄く青かった。

 遠くで電車の音がして、すぐに消えた。

 彼女は深呼吸をして、声を出してみた。

 「僕は、ここにいる」

 その声が小さく震えたあと、部屋の中にゆっくりと溶けていった。

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