第2話 ふたりの“ふり”
交流会から一週間が過ぎた。
あの日のことは、もう忘れたつもりだった。
でも、仕事の合間や帰り道の窓に映る自分の顔を見るたびに、あの会場の空気を思い出す。
紙コップの匂い、蛍光灯の光、少し乾いた笑い声。
そして、隅の席にいた“鈴木”という男のこと。
スマホを開くと、トーク画面に彼の名前が残っている。
《お疲れさまです》
《また、あの会に行くんですか?》
たった二往復のやり取り。
既読のまま、三日間返信していない。
文字は止まっているのに、頭の奥ではずっと続きが鳴っていた。
職場の昼休み。
同僚たちの雑談の中で、直は弁当のフタを開ける。
誰かが「今度の飲み会、絶対来なよ」と言う。
その“絶対”という音に、無意識に肩が硬くなる。
「予定、見てみます」
条件反射みたいにそう言って、笑ってみせる。
笑うと、場がなごむ。
なごむと、息ができる。
それがもう癖になっていた。
午後、上司が書類を渡しながら言う。
「安西さんって、ほんと真面目だよね」
「ありがとうございます」
その言葉は、褒め言葉に聞こえても、どこか“線”を引く響きがある。
――あなたは融通が利かないけど、真面目だから。
そんな翻訳が、頭の中で自動的に流れる。
退勤後、空気の冷たいバス停でスマホが震えた。
《こんばんは。今日、少し時間ありますか?》
差出人は鈴木だった。
“あります”と打って、すぐに消す。
結局、《少しなら》と送信した。
待ち合わせは駅前の小さな喫茶店だった。
ドアを開けると、鈴木が窓際の席にいた。
会社帰りらしく、ネクタイを少しゆるめている。
“普通の人”の格好だった。
でも、近づくと、ほんの少しだけ手が震えているのが見えた。
それを見て、直の中の警戒がゆるんだ。
「こんばんは」
「どうも」
短い挨拶のあと、少し沈黙が流れる。
店のスピーカーから流れるBGMが、やけに遠く聞こえる。
先に口を開いたのは鈴木だった。
「この前の会、どうでした?」
「疲れました」
素直に答えると、鈴木が少し笑った。
「僕も。終わったあと、何も考えられなくて」
「わかります。ああいう“安心しましょう”って雰囲気、息が詰まります」
「安心って、命令されるとしんどいですよね」
その言葉に、直はうなずいた。
しんどい。
でも、そんなふうに言葉にしてくれる人は初めてだった。
「安西さんって、何で来たんですか」
「……自分でもわかりません。たぶん、確かめたくて」
「何を?」
「自分が、ほんとに“変”なのかどうか」
鈴木は少し目を伏せた。
「変なの、悪くないと思いますけど」
「……そう言えるの、すごいですね」
「慣れです。僕、小さいころからずっと“変だ”って言われてきたんで」
直はその言葉に小さく反応した。
「学校とかで?」
「そうですね。あまり空気が読めないとか、言葉が足りないとか」
「……似てますね」
鈴木が顔を上げた。
「え?」
「私も、人の会話の“合図”がわからないんです。
笑うタイミングとか、驚くときの顔とか。
それを練習して、覚えて、ようやく“普通”の顔を作ってる」
「演技、ですか」
「そう。……演技のつもりじゃなかったけど、結果的にそうなってた」
鈴木はしばらく黙っていた。
コーヒーの湯気が、カップのふちでゆらいでいる。
「それ、疲れません?」
「ええ。でも、やめたら、全部崩れそうで」
その“崩れそうで”の部分が、思ったよりも大きな声になった。
周囲の客が少し振り向く。
直は慌てて目を伏せた。
「すみません」
「謝らなくていいです」
鈴木が静かに言う。
「僕は、あなたのそういう声の出方、すごく自然だと思う」
その一言が、思いのほか胸に残った。
自然。
ずっと避けてきた言葉だった。
喫茶店を出ると、夜の風が冷たかった。
駅までの道を並んで歩く。
「また会えますか」
鈴木がそう言った。
「……わかりません」
「無理にとは言いません。でも、話してると呼吸が楽です」
「それ、私もです」
言った瞬間、頬が熱くなった。
帰宅して、玄関の明かりをつける。
鏡を横目に見ながら、靴を脱ぐ。
自分の声の余韻がまだ部屋の中に残っている気がした。
ノートを開き、いつものように書く。
〈“普通”に見える人がいちばん怖い。〉
〈でも、彼もたぶん“ふり”をしている。〉
ペンの動きが止まる。
窓の外で風が鳴る。
〈私はまだ、女のふりを続けている。〉
最後の一行を書いた瞬間、胸の奥で何かが小さく鳴った。
それが痛みなのか、安心なのか、自分でも分からなかった。




