第1話 おどおどという役作り
朝、目が覚めたとき、まだ世界が動き出していなかった。
カーテンの隙間から薄い光が一本差し込み、埃の粒を浮かび上がらせている。
冷たい空気の中で、安西直はしばらく天井を見つめていた。
夢を見ていた気がする。内容は思い出せない。胸の奥だけが、ぼんやりと重い。
時計は七時を少し過ぎていた。
体を起こすと、シーツが冷たく、皮膚に貼りついた。
顔を洗う。
鏡の中の自分が、少し驚いたようにこちらを見ていた。
「……おはよう」
声を出してみる。音が部屋に溶けて消える。
その声が、誰に向けたものなのか、自分でもよく分からなかった。
彼女の部屋には、余計なものがほとんどなかった。
机と、古いノートパソコン。ベッドの横に置かれた水の入ったコップ。
それをひと口飲む。味はしない。
歯を磨いて、髪をひとつにまとめる。
化粧はしない。肌に何かを重ねると、呼吸が浅くなる気がするから。
通勤電車の中。
吊革を握る手に力が入りすぎる。
窓の外を見れば、ガラスに映るのは自分の顔。
“どこにでもいる人”の顔。
「これなら、今日も無事に通り過ぎられる」
そう思うと、ほんの少しだけ息がしやすくなる。
会社の自動ドアが開く。
「おはよう、直ちゃん!」
明るい声が背中に飛んできた。
「おはようございます」
自然に笑顔が浮かぶ。
笑顔をつくることは、もう考えるまでもない反射だった。
笑っていれば、大抵のことはやり過ごせる。
そうやって、彼女はここまで生きてきた。
午前中、上司の声が聞こえる。
「安西さん、意外とやるね」
笑いながら言われたその一言に、ほんの一瞬だけ、心が硬くなった。
“意外と”という音が、ガラスの破片みたいに胸に刺さる。
でも顔には出さない。
「ありがとうございます」とだけ返した。
相手が去るまでの数秒が、永遠みたいに長かった。
昼休み。
社員食堂の片隅、誰にも話しかけられないような席を選ぶ。
持参した弁当を開ける。
白いごはんの上に、少し焦げた卵焼き。
味は悪くない。
でも噛むたびに、口の中に自分の孤独が広がっていくような気がした。
「ねえ、直ちゃん」
正面の席にいた総務の理紗がスマホを見せてきた。
「これ、見て。支援センターの交流会。来週あるんだって。発達障害の人たちが集まって話す会らしいよ」
直は箸を止めた。
「……へえ」
「行ってみない? 気が楽になるかもよ」
その言葉を聞いた瞬間、なぜか息が止まった。
“気が楽になる”――そんな場所が、この世に本当にあるのだろうか。
「考えてみます」とだけ言った。
理紗は満足そうに笑った。
夜、家に帰ると、冷蔵庫のモーター音だけが響いていた。
洗面台の鏡を避けるように部屋へ戻る。
机の上のノートを開き、今日の記録をつける。
〈上司の“意外と”に反応。顔は動かさない。〉
〈理紗の誘い。検討中。〉
ペンの先が止まり、指に力が入る。
自分でも気づかないうちに、字がにじんでいた。
金曜日の夕方、彼女はその“検討中”のまま、支援センターのドアを押していた。
理由は自分でも分からない。
来なければ、もっと分からないままだと思った。
部屋の中は、思っていたより明るかった。
長机の上に紙コップ。壁には「リラックスして話しましょう」のポスター。
その言葉が、逆に神経を締めつける。
司会の女性が声を張る。
「では、自己紹介からいきましょう」
順番が回ってきた。
「安西です。会社で事務をしています」
声がわずかに震えた。
その震えが、他の人にどう聞こえたのか気になった。
でも誰も笑わなかった。
それだけで少し救われた。
「鈴木です」
隅の席で、黒いマスクをした男が言った。
声は低く、落ち着いていた。
「最近、診断を受けました。少し安心しています」
“安心”という言葉の響きが、どこか不自然だった。
無理に口の形を合わせて出したような、ぎこちなさがあった。
直はその瞬間、なぜか顔を上げていた。
休憩時間。
廊下に出ると、冷たい風が流れてきた。
自販機の前で、その男がコーヒーを取り出していた。
少し離れて立つと、彼が気づいて、会釈をした。
直も軽く会釈を返す。
それだけ。
それだけのやり取りが、なぜか頭から離れなかった。
帰り道。
夜の街は風が強く、信号の青が長く感じた。
「名前を呼ばれることって、まだ怖い」
そんな言葉が、心の中に浮かんだ。
家に戻ると、スマホに通知が光っていた。
《今日は話せてよかったです》
――鈴木。
直は少し迷ってから、《私もです》とだけ打った。
指先が冷たくて、文字がうまく打てなかった。
部屋の明かりを消すと、窓ガラスに自分の輪郭が映った。
化粧も、飾りもない顔。
それでも今日の自分を、ほんの少しだけ見ていたくなった。
「演じるのを、やめる練習をしてみよう」
そう口にした声が、夜の静けさの中に溶けていった。




