〈 4 〉
乾いた打球音がリズミカルに重なり合う。小澄孝之にとっては久しぶりに聞くなじみ深い音だ。
S百貨店地下2階、倉庫を改修した体育室だ。地下2階は倉庫のフロアで、商品や備品が積み上げられている。在庫リスクを下げる方針のため、最近は空きスペースが増えている。空いたスペースを一部体育室に転用したのだ。100坪ほどの長方形の体育室に卓球台が横に3台並んでいる。天井の低さが少し気になるが、床面積はプレーするのに十分な広さだ。体育室の壁面は、木目調の壁紙が貼られているが、床は灰色のコンクリートがむき出しのままだ。空調機は十分に設置されている。
3台の卓球台に6人の部員が白いボールを打ち合っている。そのうち4人が女性だ。今日は社内報の取材があるということで、全員おそろいのユニフォームだ。関西百貨店対抗リーグ戦女子の部で優勝した事を記念して、店が作ってくれた。スカイブルーの地にオレンジのダリアの花があしらわれたデザインだ。ダリアはS百貨店の店花である。
入口から見て一番右手のテーブルが正面に見える。コーチの長谷川潤の姿がある。教科書的なフォームだ。軽く打ってるようだが、ボールはしっかりとした意志を持った放物線を描いて相手コートに弾む。
潤と打ち合っているのが、婦人服売場の江口亜梨須だ。すらりとした体躯。サウスポーで長い腕をムチのようにしならせて打つ。ジャストミートしたドライブは男子顔負けの威力だ。キリリとした表情にポニーテールが似合っている。
中央のコートでは松崎翔子が身体を弾ませながらボールを打っている。亜梨須の売場の後輩にあたる。背は低いが、バネのある動きで小気味良くスピードボールを連打する。ショートカットの髪を揺らして、時折気合のこもった声を上げる。普段も元気一杯の仕事ぶりだ。
翔子のボールを追っているのが、婦人靴売場の小和田真由だ。テーブルから距離を取り、翔子の強打を流れるようなフォームでバックスピンをかけて何本も返球する。プレイスタイルと同じように仕事ぶりも堅実で粘り強い。派手な性格ではないが、時折見せる笑顔は優しさと親しみが溢れている。
一番左手のコートでは化粧品売場の深津芽衣が淡々とした表情でラケットを振っている。低反発のラバーを使った変則卓球。コートにピッタリついてあまり動かず、タイミングを外した変化球で翻弄するスタイルだ。「もう年だから」と言うのが口癖のアラフォー。少し口は悪いが、面倒見が良く、明るい性格だ。
芽衣の相手をしているのが、食品売場の河野竜二だ。芽衣の変化球をのらりくらりと軽打で返す。パワーボールは持っていないが、何でも器用にこなすオールラウンダー。お喋り好きなムードメーカーだ。
体育室を眺め渡し、軽快に響く打球音、床をこするシューズの音を聞きながら、孝之は無心にボールを追った青春時代の思い出に浸っていた。
「おお、やってるやってる。みんな頑張ってるね。」
孝之の感傷的な回想は背後からの太い声で断ち切られた。振り返ると店長の坂木博志の大柄な姿があった。全員が動きを止める。
「お疲れさまです。」
メンバーが口々に出す声には改まった中にどこかよそよそしさが含まれている。店長が現れた時の空気はいつもこんな調子だ。ニコニコしていても、いつ機嫌が変わるかわからない。どこか微妙な緊張感がある。
江口亜梨須は店長には見向きもしない。代わりに力いっぱいのスマッシュを長谷川潤のコートに叩きこんだ。
「ナイスボール!」
店長が声を掛けるが、亜梨須は反応を返さず、すぐに次のプレーに移っている。見事なスルーの仕方に孝之は感心する。店長は意に介した様子も無く、体育室の中に入ってきた。店長もダリアのユニフォームを身に着けている。全員で社内報の写真を撮るためだ。
「やっぱりいいよね、スポーツは。健康な身体あってこそ立派な仕事ができる。」
店長はメンバーを見渡しながら言う。時折亜梨須の姿に視線を止める。少し目を細めて、まとわりつくような目だ。亜梨須は目を合わさない。
「では皆で集合写真を撮りましょう。」
河野竜二が深津芽衣とのラリーを中断して声をあげた。一同はプレーをやめて、コートの後方に集合した。
「ぼくが撮りましょうか。」
孝之の言葉に竜二は首を振って、
「撮影はぼくが担当します。こう見えても、カメラは得意です。」
そう言って、自慢のカメラを取り出した。カメラは竜二の趣味なのだ。卓球台を背景にメンバーは整列する。店長は真ん中に陣取って、左隣りの亜梨須にピッタリと身を寄せる。亜梨須は静かに身体を離した。店長はなおもその身体を引き寄せようと、亜梨須の肩に手を回したが、その手が弾かれるように振り払われた。店長は驚いて亜梨須を見たが、亜梨須は両手を身体の前で組んだまま、身じろぎもしていない。店長は周りを見回して不思議そうな顔をしたが、竜二の声に顔を上げた。
「こちらを向いて、はい、チーズ。」
シャッター音が数回響いた。竜二はニッコリ笑ってオーケーマークを作った。
「それではみんな、コートに戻ってください。プレーしているところを撮っていきます。」
「よし、それじゃ俺も入れてもらおうか。」
店長は腕をぐるぐる回して一番右手のコートに向かう。亜梨須の打っていた台だ。
「さあ江口君、一丁おねがいするよ。」
店長が声を掛けたが、亜梨須は無表情で顔をそらせて言い放つ。
「一休みさせてくれませんか。今日は早朝出勤で疲れてるので。」
潤があわててコートに向かいながら、
「店長、ぼくがお相手しましょう。」
店長は少し不満気に顔を曇らせたが、仕方ないという様子で、潤とコートを挟んで向かい合う。
ゆっくりしたテンポでボールが行き交う。店長のフォームは素人の域を出ていない。それでも意外なほどにラリーが続く。潤の返球が絶妙なのだ。コース、高さ、スピードともに店長が一番打ちやすい所へ打ち込んでいる。1球打つたびに店長の口から唸り声が上がる。力を込めているわりには、ボールに勢いはない。
亜梨須が孝之たちに近づいてきて、
「小澄さん、稲森さん、取材に協力しますよ。」
「そうだね、エースのインタビューをぜひおねがいします。」
「エースかどうかわからないけど。じゃあ、休憩所で話をしましょう。」
少し照れたように笑いながら、亜梨須は手に持ったラケットを器用にクルクル回した。
体育室を出て通路をはさんで休憩所がある。20坪ほどの四角いスペースにソファ椅子が並んでいる。壁面には飲料とカップ麺の自販機がある。この部屋も心地よく空調が効いている。
夏実と孝之はアイスコーヒー、亜梨須はアイスティーのカップを持って座った。かなり激しく動いていたわりに、亜梨須はほとんど汗をかいていない。
「何からお話ししたらいいですか。」
亜梨須は大きな瞳で孝之をまっすぐに見る。孝之は一緒に仕事をしたことがないが、こうして近くで見るとなかなかの美人だ。
孝之の求めに応じて、亜梨須は卓球の経歴を話しだした。両親が卓球選手だった亜梨須は小さい頃から卓球に親しんでいた。
「よく妹と卓球して遊んでました。」
そう言って亜梨須は遠い目をする。中学までお遊びだったが、進学した高校がインターハイ常連の名門校。そこで亜梨須は卓球に没頭した。エースとしてインターハイに出場し、関東の名門校に惜敗した。大学は強豪校ではなかったが、それでもシングルスの地方大会で優勝経験がある。S百貨店卓球クラブでも実力は頭ひとつ抜け出している。
「妹さんも卓球やってるの。」
孝之の何気ない問いに、夏実は黙って孝之の袖をひいた。振り返ると夏実が静かに首を振っている。
「妹は亡くなったの。わたしに負けないくらいの卓球選手だった。」
亜梨須はそう言って目を落とした。
「すいません、余計なことを聞いてしまって、」
孝之は狼狽して言った。夏実はその事を知っていたのか。
「いいんですよ。もう昔の思い出だから。」
亜梨須は顔を上げて微笑んだ。孝之は軽く咳払いしてから、
「それじゃ、江口さんの仕事について紹介してもらいましょうか。」
社内報という性格上、仕事の話も盛り込む必要がある。亜梨須は真面目な顔になって話をはじめた。夏実も一生懸命メモをとる。
亜梨須の話が一段落した時、休憩所のドアが開いた。入ってきたのは長谷川潤だ。
「店長は?」
孝之の問いに、潤はタオルで顔の汗をぬぐいながら腰を下ろした。
「もう引き上げるそうだ。今頃シャワー浴びてると思う。元体育会系と言っても年だからね。インタビューは終わったかな。」
「うん、次はコーチから話しを聞こう。卓球クラブの活動内容と今後の目標について。」
「承知した。」
潤はコーラのカップを手にして話をはじめた。
健康増進、交流促進の目的で卓球クラブは発足した。社外のクラブで活動していたメンバーたちが、勤務時間後の参加しやすさから、このクラブに定着した。レベルの高い経験者が揃っていた。
「ぼくも最初からコーチとして参加したんだけど、本当に実力者ばかりで驚いた。全国の実業団リーグへの参加も夢ではないと思ってる。」
実業団リーグで活躍すれば、企業のPR効果も高い。
「楽しんでプレーすることが第一ですから。」
亜梨須が口をはさむ。
「あまり本格的になりすぎると門戸が狭くなってしまいますよ。」
「真剣に競技に挑戦する人と気軽に楽しもうとする人の両面でバランス取っていけたらと思ってる。」
潤は言葉に力を込めてそう言った。孝之はペンを止めて、
「実力者が揃っている上に、それぞれの戦型がバラエティに富んでいるね。サウスポーのドライブ型にカット守備型、前陣速攻に変化球主体の変則型、それにオールラウンダー。」
「小澄さんも参加すればいいのに。」
夏実の言葉に孝之は首をすくめて、
「からだがついていかないよ。」
腰をさする仕草を見せる。最近たまに腰痛が出る。
しばらく卓球談義が続く。時折潤は立ち上がって手ぶり身振りで、世界のトッププレイヤーの最新のテクニックの説明をする。合いの手を入れる亜梨須もいつになく饒舌だ。
「ヤッホー、楽しそうですね。」
元気な声を上げて休憩所に入ってきたのは、メンバーで一番若い速攻型の松崎翔子だ。後ろからオールラウンダーの河野竜二が顔を見せる。
「取材は順調ですか。」
くりっとした目の愛嬌のある顔で一同を見回しながら翔子が聞く。
「ええ、インタビューは終わったわ。」
亜梨須は翔子に微笑みかける。売場でも可愛がっている後輩だ。
「それじゃ江口さん、わたしのサーブを見てください。新しいサーブが完成したんです。」
そう言って翔子は亜梨須の顔をじっと見る。
「すごいサーブですよ。江口さんもびっくりしますよ。」
竜二がウィングする。亜梨須は一瞬真面目な顔になって翔子を見返す。
「わかったわ。楽しみね、そのサーブ。」
「じゃあ待ってますね、体育室で。」
翔子は慌ただしく休憩所を後にする。亜梨須はアイスティーを飲み干すと立ち上がった。
「それ、どんなサーブなんだろう。」
孝之も興味深そうに言った。潤もコーラのカップをぐいっとあおる。
「松崎さんはスピードサーブが得意なんだ。速いサーブを速く返球させて、それを速く強打する。速攻型のお手本だね。速いだけでなく、コースがわかりにくいフォームを研究していた。それが完成したということだろう。」
そう言って潤が立ち上がった時、悲鳴が聞こえた。体育室の方向からだ。恐怖に震える甲高い悲鳴が長く続いた。
「翔子の悲鳴よ。」
亜梨須は休憩所を飛び出した。あとの3人もその後を追う。
休憩所から通路をへだてて体育室の入口のドアがある。開いたドアの前で体育室の中を向いたまま、翔子が硬直したように立っている。駆け付けた亜梨須が声をかける。
「どうしたの、松崎さん。」
翔子は亜梨須の方に振り向いた。見開いた目、口をパクパクさせるが声にならない。震える右手を上げて体育室の中を指し示した。亜梨須がその方向を見て、あっと声を上げる。追いついてきた潤たちも入口から中を覗いて立ちすくんだ。
入口から正面に卓球台が見える。3台並んだ向かって右手、潤と亜梨須が打ち合っていたテーブルだ。入口からテーブルのエンドラインまで5〜6メートルほど。その台の上に信じられないものが見える。人間の首だ。横に張られたネットの手前、テーブルの前側半面のほぼ中央。その顔には生気が無く、髪は逆立つように乱れている。目は閉じられているが口は半開きで、口の端から真っ赤な血が垂れ落ちている。
それは紛れもなく、坂木店長の首だった。




