〈 3 〉
人事部課長の長谷川潤は小澄孝之と同期入社だ。頭脳明晰で行動力もあり、同期の中では出世頭だ。細身のスーツが良く似合っている。痩身だか引き締まった身体でキビキビ動く。整った顔立ちのイケメンで、女子社員からの人気も高い。
潤は立ち上がった孝之と夏実を両手で制してソファに座らせ、その向かいに腰を下ろした。潤は早速用件に入る。
「忙しいところ申し訳ない。今日呼び出したのはお二人にお願いしたいことがあってね。端的に言うと、次回の社内報の原稿をお願いしたい。」
「社内報ですか。」
夏実が意外そうな顔をする。そんな依頼を受けるのは初めてのことだ。
「そう、社内報『オアシス』の9月号だよ。」
「オアシス!」
孝之の夏実は顔を見合わせた。そう言えばS百貨店グループの社内報はオアシスという名だった。
その昔、百貨店が小売の王様として君臨していた頃、ある商業誌のライターが百貨店のことをこう呼んだ。「都会のオアシス」。S百貨店のグループ社内報の名前はここから採られた。しかし今、百貨店をオアシスとイメージする人が、果たしてどれくらいいるだろうかと孝之は訝しむ。
社内報オアシスは隔月で各支店持ち回りで特集が組まれる。次号は孝之たちの店の番だ。潤が言葉を続ける。
「次号で巻頭を飾るのが、われらが坂木店長のインタビュー記事だ。店長の要望で通例の店長インタビューの1.5倍のボリュームがある。」
店長のインタビュー記事は社内報お決まりのネタではあるが、孝之はいつもスルーしてしまう。ほとんどの社員がそうではないだろうか。学生時代の校長先生の話と一緒だ。
「店長は力が入ってるだろうな。」
孝之の言葉に潤は大きくうなずいた。
「今年は創業70周年ということで社長からもゲキを飛ばされているようで、店長はいつにも増して精力的だ。社内報のトピック記事についても直々に指定があった。」
「そのトピック記事をぼくたちに書けってことかい。」
「その通り。責任は重大だよ。」
「一体何についての記事なんですか。わたしたちの仕事の内容紹介ですか。」
夏実が、口をはさむ。
「あまり面白い記事になりそうもないですけど。」
潤は夏実を見てかぶりを振った。
「いや、そうじゃない。店長が今、力を入れているクラブ活動のことだ。そう言えば分かるんじゃないかな、稲森さんにも。」
勿体ぶった言い方で夏実の顔を見る。謎掛けをするスフィンクスをふと連想した。
孝之は少し考えてから成る程とうなずいた。
「スポーツ活動、その中でも店長一推しの卓球クラブのことを取り上げるんだね。ぼくが依頼された理由もわかったよ。」
S百貨店では店内交流の活性化、健康増進などの目的で、課外スポーツ活動に力を入れはじめている。体育会系で自称武闘派の坂木店長が赴任してから、その傾向は加速している。中でも力を入れられているのが卓球だ。たまたま社員の中に本格的な実力者が揃っていたのと、比較的場所を取らず、設備などでもお金がかからないというのも、その理由の一つだ。
「坂木店長自身、卓球が好きみたいだよ。かく言うぼくも、一応コーチという名目でクラブに所属している。」
そう言って潤はニッコリ笑った。
潤の卓球歴は大したもので、高校の全国大会でベスト4に入ったこともある。スケールの大きな卓球で、逸材として期待されたが、大学で肩を壊して以来、もっぱら趣味としてこのスポーツに向き合っている。
「そして小澄さん、きみも卓球経験者だよね。」
潤の言葉に孝之は少し気まずそうな顔で頷く。たしかに高校時代に卓球部に所属していたが、戦歴は潤と比べものにならない。市内大会で3回戦に進むのがやっとだった。
「だからぼくに白羽の矢が立ったのか。」
「そういうこと。」
潤が書けばいいのにと孝之は思う。でも仕方が無い。人事部は忙しいし、社内報の原稿など地味な仕事に時間を取られたくないというのが本音だろう。
「でも、わたしがなぜ小澄さんと一緒に選ばれたんですか。」
夏実が首をかしげて潤を見る。
「わたしは卓球部でもなかったし。」
「文才がある。」
潤は言葉に力を込めた。
「研修のレポートなどを拝見していると、実にしっかりした文章を書いている。簡潔でわかりやすい。」
褒められて、夏実は少し顔を赤らめる。
「恐縮です。つたないレポートでも見てくれてるんですね。」
「人事だからね。」
潤は少し眉を上げて微笑んだ。孝之は夏実と顔を見合わせて、
「わかったよ。原稿締め切りはいつ?」
少々面倒な気もしたが、人事部課長からの依頼だ。どのみち断わる訳にはいかない。店内のさまざまな雑事にかり出されるのは、目の前の営業活動に直接かかわっていないサービス部門の宿命だ。
「編集の都合で、あまり時間は無い。一週間で仕上げて欲しい。メンバーの紹介とインタビュー、練習風景、対外試合の戦績など内容自体は難しくない。小澄さんは経験者として、卓球というスポーツの魅力紹介も織り込んで欲しい。」
「了解。」
一週間あればなんとかなるだろう。だか潤の次の言葉に孝之は表情を固くした。
「坂木店長も校正には参加する。そのつもりで取り組んでくれ。」
それだけ店長が力を入れている社内報であれば、社員、特に各部門の課長、係長は一言一句必死になって目を通すことになるだろう。社内の会議、朝終礼などいろんな場面で店長は社内報を話題にするはずだ。的確に答えられなければ、全員の前で罵倒されることは間違いない。
孝之の考えを察したように、潤は口の端を少しゆがめた。
「最近の店長のツッコミは厳しいからね。ミーティングでの質問も売上動向はもちろん、時事問題、世界情勢、天候気候、流行語、人気ドラマなど予測不能の分野にまで及ぶ。答えに詰まると『そんなことも知らねえならデパートマンなんか辞めちまえ。』だからね。特に夕礼時、その日の売上の芳しくない部門の課長たちは戦々恐々としている。そういう課長には、わざと答えられないような問いをして、つるし上げるのを楽しんでいるかのようにも見えなくもない。課長たちは、陰で店長のことを『スフィンクス』と呼んでいる。質問に答えられなければ食べられてしまう恐ろしい怪物になぞらえて。」
「スフィンクス!」
夏実と孝之は同時に大きな声を上げる。潤は二人のリアクションに少し面食らう。
「そんなに驚く?」
「だってわたしの夢に・・」
夏実は言いよどんだが、潤は耳ざとく夏実に目をやって、
「稲森さんの夢ってどういう事。」
「大したことじゃないんです。昨日見た夢にスフィンクスが出てきたから。」
夏実はあわてて顔の前で手を振って言葉を濁したが、潤は身を乗り出してきた。
「その夢の話、ぜひ聞かせてくれないか。」
夏実は小さくため息をついた。こうやって自分の夢に興味を持たれる展開が多い気がする。夏実は昨夜の夢の話をかいつまんで話した。潤は興味深そうに耳を傾けた。
「その夢がこれから起こることを暗示してるというの。それにしてもオアシスにスフィンクスか、偶然の一致にしては出来過ぎてるね。でも、神話の物語なんて良く知ってたね。」
「そんなに詳しいわけでは無いんです。謎掛けにも答えられなかったし。」
「握手とか万年筆とか拳銃とかは神話には出てこなかったはずだけど・・・」
あっと声を出したのは孝之だ。夏実と潤は孝之の顔を見る。
「わかったよ、握手、万年筆、拳銃、それが何を意味しているか。」
「どういう事。スフィンクスの謎掛けより見当がつかないわ。」
夏実は首をかしげる。孝之は右手を握り、人差し指を突き出した格好を潤に見せる。潤の顔にひらめきの色が広がった。
「そうか、それが表しているのは卓球だね。」
「ピンポ―ン、大正解。」
潤はぷっと吹き出した。夏実はポカンとしている。孝之は夏実に説明する。
「握手はシェイクハンド、万年筆を持つ手はペンホルダー、卓球のラケットの握り方だよ。」
「シェイクハンドとペンホルダーは知ってるけど、拳銃って何なの。」
潤が説明を引き取る。
「卓球にはピストルグリップというものもある。ごく少数派だけどね。ハンドソウグリップとも言って、以前は結構広く市販されていた。今では特注品としてしか手に入らない。その名の通り、ピストルを持つようにラケットを握る。そんな希少なものが、よく稲森さんの潜在意識にあったものだ。」
夏実はしばらく黙ったあと、ぽつりとつぶやく。
「わたしの夢はこういう未来を予言していた。とすると・・・」
孝之も真剣は口調になる。
「だとすると、少し不吉な予言だね。」
「切り株と斧か。」
潤も真面目な顔になって、
「断頭台のイメージだね。」
「断頭台ってギロチンのことじゃないの。」
「ギロチンも断頭台の一種だけれど、その昔、ヨーロッパでは切り株のような台の上で斧を使って首を落とした。首を切るのは簡単な仕事ではなく、一撃で切り落とせないこともたまにあったらしい。」
「それは最悪ですね。」
「失敗しないように考えだされたのがギロチンだ。その意味でギロチンは人道的な装置だった。」
孝之はうーんと唸って、
「夏実の夢でも斧が使われてスフィンクスを切りつけていた・・・」
夏実は目を閉じてうつむいた。孝之も額を押さえて黙り込む。沈黙を破ったのは潤だ。
「まあ、夢の話は置いておいて。今夜、卓球クラブの練習がある。できれば早速取材に取りかかってもらえないかな。」
その声は明るさを取り戻していた。




