〈 12 〉
夕刻になって陽が陰り、さしもの暑さも少し和らいだ。人通りの多い歩道を稲森夏実は長谷川潤の後を一歩遅れて歩いている。
市内の企業合同の会社説明会が市民ホールで開催され、人事部の潤とサービス部の夏実が出席した。夏実の役目はもっぱら案内と雑用だった。夕方には説明会は終了し、店への帰り道だ。店まで歩いて15分ほどの距離だ。通りの右手奥に赤い大きな鳥居が見える。菊田神社の大鳥居だ。潤は立ち止まって夏実を振り返った。
「ちょっと寄って行こうか。」
夏実も鳥居を見上げてうなずいた。通りを右に折れ、鳥居の脇で2人は立ち止まる。
「このあたりに事件の凶器が捨てられていたんだよね。サバイバルナイフが。」
「ええ、そう聞いています。」
潤は少し眉を寄せて首をかしげる。事件について思いを巡らせているようだ。
犯人の告白から5日が経った。この5日間、卓球クラブのメンバーへの警察の接触は無い。
「あまり警察の捜査は進んでないようだね。」
「ええ、わたしの知るかぎりは。卓球クラブの人達の何らかの関与が、まったく疑われていないわけでは無いようですけど、説明できないこともあって。」
「凶器のことだよね。」
「そうです。ここに捨てられていたナイフが犯行の凶器である事は間違いないはずなのに、卓球クラブの人達には凶器を捨てる機会が無い。」
「どうやって店外へ持ち出したかも謎だよね、他の誰かが捨てたとしても。」
「犯行の時に着ていたというレインコートと手袋の件も不思議です。ビニール袋に入れて裏の倉庫に隠したそうですが、警察がそれを見落とすわけが無いと思います。」
「血の付いたレインコートと手袋だものね。ディスプレイとかダミーのテーブルとか椅子とかは、使い道が
分からないと事件に関連しているとは思われないだろうけれど。」
「そうですよね。」
「それにしても、なぜこんな場所に凶器を捨てたんただろう。このあたりは夜遅くまで人通りが絶えない繁華街だ。」
「まるで、見つけてくださいって言ってるようなものですね。」
潤はしばらく首を捻っていたが、口調を改めて、「まあ事件の事は置いておいて、ここまで来たんだから、お参りしていこう。」
鳥居をくぐって参道へ歩みを進めた。夏実もその後を追う。
参拝を済ませた2人は本殿裏の「菊田の森」にぶらりと入って行った。都会に残されたささやかな森。クスノキの茂る、気持ちのいい散歩道になっている。
小さな祠があって立札がある。夏実は興味深そうに書かれた文字を見る。
「開運の神様ですって。この木に触れると御利益があるそうです。」
夏実は祠の横に立っている大木の幹に手のひらを当てる。潤がつと歩み寄って、夏実の手に自分の手を重ねて置いた。
「えっ。」
夏実は驚いて潤の横顔を見る。ぴったりと重ねられた潤の手のひらがあたたかい。
「この神様は縁結びの神様でもあるんだよ。」
潤はそう言って夏実に向き直る。潤の目に真剣な光か宿っている。夏実は目を見開いて見つめ返す。
潤がゆっくりと顔を近づけてくる。射すくめられたように夏実は動けない。
その時、夏実の頭に一人の男の顔がよぎった。
『夏実!』
あの時、卓球台の上の夏実の首を見て叫んだその声、抱き締められた腕のぬくもりとともに。
夏実は潤の手のひらの下から自分の手を引いて、一歩後ずさった。
「ごめんなさい、長谷川さん。わたし・・」
少し目を伏せて言ってから、夏実は決然とした顔を上げた。
「わたし、わたし帰らないと。」
潤は静かにその真っすぐなまなざしを受け止めていたが、ふと淋しげに微笑んで夏実の肩をたたいた。
「分かったよ。帰ってあげて。稲森さんの心の中にいる人に、ぼくは敵わないってことだね。」
潤は夏実の身体を後ろ向きにすると、その背中を優しく押した。夏実は一度振り返って頭を下げてから、早足で去っていった。
夏実の後ろ姿が見えなくなると、潤は小さくため息をついて祠の横の大木を見上げた。淋しげな様子は消え、どこか満足そうな表情になっている。
「なるほど、きみが縁結びの神さまだったってことかい。」
背後で声がして、潤は驚いて振り返る。そこにはクスノキの木立があるだけだ。
「なかなか手の込んだ憎いことをするね。」
はっきりした滑舌のいい口調だが、かすかに機械的な響きを含んだような不思議な声だ。
「だれだっ!」
潤は辺りを見回すが、人影はない。声はすぐ近くから聞こえてくるのに。その声が続ける。
「あの女の子をトリックの実験台にしたのも、きみの作戦だよね。ああでもしないと。あの二人の仲は進展しないと思ったからだろ。見ていて歯がゆいと言うか何というか。そこできみが、お節介を焼いたと言う事だね。カッコいいじゃないか。」
「きみは誰だ。姿を見せろ。」
「きみの目の前にいるんだけどね。残念ながらきみには見えない。」
「透明人間・・・」
潤は茫然としたようにつぶやく。
「きみは透明人間なのか。」
「フフ、それが妥当な名前かな。まあ、どんな風に呼んでもらっても構わないよ。」
潤は何も見えない空間に目を凝らす。おぼろげに陽炎のように揺らめく影が見えたような気がした。
「きみはあの時も見ていたのか、いつから僕達のそばにいたのだ。」
「いつも見ていたわけじゃないよ。でもあの事件の起こる前から、きみたちの店には時々お邪魔してたんだよ。百貨店は好きなんだ。」
「もしかしたら、凶器のナイフを運んで来て捨てたのも、レインコートと手袋を処分したのも、きみのやった事なのか。」
「まあ、想像にまかせるよ。ただ、ぼくもあの店長は好きではなかったとだけ言っておくよ。」
「きみはいったい誰なんだ。何が目的なんだ。」
「うーん、これといった目的があるわけじゃない。その時々でやりたいように行動するだけ。でも、今回の件は今日でぼくも満足したよ。あの娘の事はぼくも少なからず気にかかっていたからね。」
不思議な声は少しずつ遠ざかっていく。潤はあわてて声を掛ける。
「待て、どこへ行くんだ。」
「どこへ行くかはノーコメント。安心してくれ、もうきみたちの前にはあらわれないよ。透明人間が近くにいたら落ち着かないだろう。ではさようなら、卓球クラブの人たちにもよろしく。」
声が小さくなって消えた。陽炎のような揺らめきもどこにも見えない。木立の中を吹き抜ける涼しい風が、かすかに葉をゆらしているだけだ。
潤はゆっくりと首を左右にふった。今のことは夢か幻覚なのか。潤はたそがれの空を見上げて目を閉じる。まぶたの裏で、瑠璃色のカーテンが閉じて行くような気がした。




