酒に呑まれた一夜のあとで 〜騎士たちの日常・桜の季節〜
酒は飲んでも飲まれるな、とはよく言ったものだ。特に、好いた相手と飲むときは。
……いや、好いた相手だったからよかったと言うべきか。これがもし、どうとも思っていない相手とだったらと考えると、罪悪感と己の無節操さにゾッとするところである。
朝目が覚めて状況を把握したとき、俺は自分自身を殴りたくなった。第二騎士団の宿舎、自分の部屋のベッド、ここまでは普段どおり。違っていたのは、隣で同僚のヴァイオラがすやすやと眠っていたこと。それも、あられもない姿で。
昨夜、一緒に酒を飲んでいたのは覚えている。楽しい時間だったはずだ。騎士として規律正しい生活を送る中での、たまの休日。同僚との気兼ねない酒席。場が盛り上がって、それで、つまり――そういうことだろう。
ずっと密かに想いを寄せてきたヴァイオラ。彼女が相手だったからと言って、「よかった」ということにはならない。物事には順序というものがある。大事な相手ならなおさら。しかも詳細は記憶にない。一体何をやっているんだ……と、重い頭を抱えて愕然としたあと、しかし俺は腹を括った。
言うんだ、「責任を取らせてください」と。順番を違えてしまったことについては申し訳もない、だけど俺はずっと君のことが――
「ラルフ、すまない。昨夜のことは、なかったことにしてほしい」
「…………へ?」
けれどもいつの間にか目を覚ましていたヴァイオラに、俺の決心はあっさりと打ち砕かれた。
* * *
事の発端は、王女殿下が急に言い出した「働き方改革」だ。
突然だが、我が国の騎士たちは皆、勤勉である。長らく平和が続いている現代の世にあっても、王家に忠誠を尽くし、主君と国民の安全のために働き、日々の鍛練を惜しまない。
そんな中、王女殿下が近衞騎士の一人と結婚することになった。大変喜ばしいことだが、ひとつ問題が発生する。王女殿下のお相手の騎士も御多分に洩れず勤勉で、新婚旅行のために長期間も職務を離れるのは考えられない、と言ったとかなんとか。
それで二人は喧嘩した――といっても微笑ましいものだろうが――挙げ句、王女殿下が言い放った。
「そもそもあなたたちは皆働きすぎなのです。たまには仕事を忘れ、家族や友人、恋人と過ごす時間を大切にするべきですわ!」
そのとばっちり(?)で、我々騎士団員も、交代で一週間の休暇を取ることになった。「休暇中は、家族・友人・恋人等、各々の大切な相手と一緒に、食事や酒を楽しむ機会を設けること」というお達し付きで。
「うーん……、誰かと食事か……」
王女殿下の通達に関して上官から話があったあと、隣でヴァイオラが小さく唸っていた。
惚れた相手についてこう言うのもなんだが、彼女には友人らしい友人がいない。真面目な騎士たちの中でもずば抜けて真面目で、暇さえあれば剣ばかり振っているから。そもそも女性騎士は少なく、近くに似た立場の者がいれば気が合っただろうが、第二騎士団所属の女性は現在彼女だけ。
男性陣はというと、簡単に言えば少々引いている。そこらの男性より強い彼女を恐れる者も多い。見るからに屈強で筋骨隆々、とかではまったくないのだが。
剣を握ったヴァイオラは、瞳がすっと据わり、静かな威圧感を放つ。腕前は相当なもので、細身の体のどこからそんなに力強い斬撃が繰り出されるのかと目を見張るほど。
つまり、ヴァイオラは「剣術馬鹿」だ。聞くところによると、幼少期は言葉を発するより早く、そのへんにあった木刀を振り回して遊んでいたとか。そのへんに木刀がある家ってなんなんだという話だが、彼女の父は第一騎士団の要職に携わる、さらなる脳筋なのだから仕方ない。
というわけで、鍛練と節制生活に明け暮れる彼女には、気軽に食事をするような友人はいなかった。
チャンスだ、と思った。普段は彼女の生活を邪魔しないよう気を遣っているが、王女殿下の通達が名目であれば、誘いに乗ってくれるだろうと。
*
そうしてめでたく約束を取り付けた俺は、高鳴る胸を抑えて彼女との休日デートへ向かった。
待ち合わせは訓練場の前。念願の初デートにしては色気がなさすぎるが、いいのだ。きっと「デート」だと思っているのは俺だけ。彼女にとって、王女殿下の通達による同僚との食事なんて、職務の延長だろう。
案の定、彼女は騎士制服を纏って現れた。しっかり帯剣もしている。
颯爽という言葉がこれほど似合うひとはいるだろうか。とっくに待ち合わせ場所に着いて待つ俺のもとへ、真っ直ぐ芯の通った人影が歩いてくる。高い位置でひとつに束ねられた黒髪が、ふわりと揺れて、表面に紫の艶をつくっていた。
「すまない、待たせたか?」
「いや、俺も今来たところだ」
もちろん嘘だ。
「訓練場まで来たのに訓練できないとは……なんだかそわそわするな」
「仕事を忘れて」という言葉どおり、騎士たちは訓練も休むよう言われていた。ただし、一週間も訓練を禁じられてはさすがに腕が鈍るということで、休暇期間の最初の一日だけ。その初日である。落ち着かない様子で剣柄を弄っている彼女が仕事を忘れられているかどうかは、あやしい。
「まあ今日だけだし、せっかくだから休日を楽しもう。広場には祭りの屋台が出ているって話だ、行ってみないか?」
王都の街が祭り気分に包まれているのは、王女殿下の結婚を祝福してのことである。
教会前の広場には、軽食や菓子を売る屋台が立ち並んでいた。香ばしかったり甘かったり、食欲をそそる匂いがあちこちから漂う。春だというのに、樹々には冬にするような電飾が取り付けられている。夜になるとライトアップするらしい。
しかし、軽く一周して売り物のラインナップを確認したところで、ヴァイオラは不意に俯いてしまった。三食きっちり宿舎や訓練施設の食堂でバランスよい食事を取っている彼女には、祭りの屋台は気に召さなかったのかもしれない。
失敗したか……と反省していると、周囲の喧騒にかき消されそうなほどの音量で、隣から声が聞こえた。
「実は……、好きなんだ」
「え?」
「甘いもの。体づくりのため、普段は控えている。でも、今日は仕事を忘れてということだから……」
なぜだか許可を求めるように、俺のほうをちらりと見上げてくる。そんな捨て犬みたいな上目遣い、一体どこで覚えてきたんだ。………………。
言葉にならない想いが込み上げるのを必死に抑えて、俺は同僚として精一杯爽やかな笑みを浮かべた。
「ああ、今日は無礼講だ。今日くらい、甘い菓子でもなんでも思う存分に食べよう」
――だが、結果、無理。なんかいろいろ無理だった。俺の“爽やかで理解ある同僚ムーブ”は、絶えず薄氷の上に立たされることとなった。理性との戦い。
だって……、可愛すぎるのだ。ヴァイオラが。
「ラルフ、見てみろ! 揚げドーナツ、こんなに種類があるぞ。苺ジャムにカシス、チョコレートという手もあるのか、迷うな」
「あのバターがのったポテト、美味しそうだな……でも、さすがに食べすぎか?」
いつも剣術のことばかりの彼女が、祭りひとつでこんなにはしゃぐとは思わなかった。
職務や訓練中の彼女は真剣で、どちらかというと険しい顔つきをしている。周囲から怖がられる理由のひとつでもある。彼女のことを「可愛い」なんて言えば、男性騎士の同僚たちからは目を丸くされるかもしれない。
だが、わかってないなと俺は思う。休日の彼女は特別可愛いけれど、普段だって同じくらい可愛いのだから。
等級の近い騎士で、彼女と互角に剣でやり合える者はほぼいない。できれば練習相手になりたくないというのが皆の本音。だから彼女の相手は大概、少年時代から一緒に鍛え上げてきた俺になる。周囲からは同情の目を向けられるが、むしろ役得でしかない。
険しい表情が基本のヴァイオラだが、ある条件下においては屈託なく笑うのだ。それは、良い試合ができたとき。勝敗は関係ない。互いの力を余すことなく出し切り、とりわけ内容の濃い戦いができたと納得したときにだけ、彼女は嘘みたいに顔を崩して笑う。
……その輝きを知っているから、俺は好敵手の座を他の男に渡す気はない。
とはいえ、そんなふうに彼女が心底納得する試合ができるのは、年に数回のみだ。
だから、休日の彼女が予想を超えた可愛さで、試合では稀にしか見ることのできない笑顔に似た、崩れた表情をしていることに。俺は嬉しくてたまらないけれど、少々複雑な気持ちになった。
極めつけは、祭りの広場を出たあと、酒場に寄ったときのことだった。
広場のすぐ近くにあり、洒落すぎず、気軽に入れる雰囲気の店。店主夫婦の気配りが行き届いていて、酒だけじゃなく料理も美味しい。
騎士制服の俺たちを見た店主の奥さんは、「あら〜、いつもご苦労様」と言って、ちょうど空いていた特等席に案内してくれた。建物の端の席はテラスと繋がっていて、大きな窓を開放してあるため、半屋外のようになっている。暖かな店内で寛ぎながら、やや湿った春の夜風が流れてくるのが心地よかった。
向こうに、先ほどまでいた広場の喧騒が見える。日が落ちたばかりの空は藍色で、地平線はまだうっすら橙色。その背景に華やかさを添え、そして幻想的にも見せているのは、ライトアップされた桜の樹々。光にも似た、限りなく淡い紅色。その下を行き交う人々の影。
「……綺麗だな」
そう呟いたヴァイオラの横顔に見惚れていると、飲み物が運ばれてくる。
店主の奥さんに勧められるがまま、「季節のおススメ酒」を頼んだ。東国のコメで作った酒で、ニホンシュというらしい。細長いグラスに入った透明な液体と、そこに浮かべられた小さな花を前に、ヴァイオラは目を見張った。
「なんだこれ、桜が浮いているぞ。可愛いな……!」
…………可愛いのは君だ。
続いて彼女の切れ長の瞳がふにゃっと三日月を描き、桜なんて忘れてしまうような笑みがこぼれて、俺はもうぶっ倒れそうになった。同時に、妬けた。
彼女のいい練習相手でいられるよう、俺はずっと剣の鍛練を欠かさなかった。そうやって必死で食らいついて、毎度全力で試合に挑んで、何十回何百回に一回見られるかどうかという貴重な笑顔。それが、こう易々と……。もはや何に嫉妬しているのかわからない。異国の珍しい酒か、桜か。
なんだか落ち着かない気持ちをやり過ごすため、ついハイペースで酒を煽ってしまった。彼女は彼女で、「普段は酒も控えているから、なんか新鮮だ。酒って楽しいな!」と。たぶん、酔うと楽しくなってしまうタイプの人間だ。
それで…………気づけば翌朝、二人して一糸纏わずベッドの中。彼女からの「なかったことにしてほしい」宣言。
俺の長い長い片想いは、口に出す間もなく散ってしまったようだった。
* * *
「……はあ〜〜…………」
目覚めてとんでもない「やらかし」に気づいた日の晩、俺は酒場で盛大な溜め息を吐いていた。騎士団宿舎の裏手にある、前日のよりさらに気を張らない店だ。居酒屋という風体でありながら豊富な定食料理を出していて、場所柄、騎士団員の利用も多い。
グラスを片手に店の隅のテーブルへ突っ伏していると、隣に誰かが座る気配がする。視線だけを動かして見れば、同じ団に所属する先輩騎士だった。
「ラルフ、どうした? お前が飲んでるなんて珍しいな」
「いや、俺はもう酒は一生飲みません。これはオレンジジュース」
「はっ? オレンジジュースで酔い潰れられるって、お前すごいな。何かあったのか?」
「あったというか、ないことにされたというか……」
件の「なかったことにしてほしい」宣言のあと、俺が呆然としているうちに、ヴァイオラは平然と部屋を出ていった。昨日脱いだのであろう騎士制服を、下着から順番にきちんと着直してから。
途方に暮れた俺は、ひとまず普段どおりの生活を送った。というより、何も考えられなくて、それしかできなかったのだ。頭が働かない中、染みついた行動パターンが自動で繰り出される。シャワーを浴びて、軽食を取り、着替えて訓練場へ向かい……しばらく剣の素振りをしたところで気がついた。――訓練場にヴァイオラの姿がない。
緊急事態だ。彼女が理由なしに訓練を休むなんて考えられない。昨日だってそわそわしていたし。もしかして体調でも悪いのか? いや、待て……それって俺のせいじゃないのか? だって、昨夜……
俺は慌てて宿舎に戻った。彼女の部屋の扉を叩く、が、返事はない。留守か、居留守か。訓練場にいれば会えるかもと思い直し、再び剣を振りながら待っていたが、結局彼女は現れず。いろいろな想いを抱えきれなくなっての今である。
といった事の顛末を、俺は話さなかった。彼女の尊厳もある。だが何らかを察した先輩は、突っ伏したままの俺に肩を組んで絡んでくる。
「色気のある話か? 驚いたな。ラルフは、顔よし、家柄よし、剣の腕もある、というのに浮いた話が全然なかったから。でもそうか、お前にもやっとそういう話が……」
「…………」
「でもまあ、皆いろいろあるよな。そういえばついに、あのヴァイオラだって縁談が纏まったみたいだし。あいつは結婚せずに騎士を続けるのかと思っていたが」
「――ヴァイオラ?」
先輩の絡みが面倒で聞き流していたが、決して流すわけにはいかない話題が飛び込んできて、俺は勢いよく顔を上げた。
「ああ。今日、正装したお父上と一緒に、ドレスを来たヴァイオラが王宮を訪れていたって噂になってたぞ。あの家は婿を探していたから、無事見つかって、王家の承認を得に行ったんじゃないかって」
「知らなかった……」
――「なかったことに」って、そういうことか。縁談が決まっていたから、別の男との一夜の過ちはあってはならないと。
そもそもヴァイオラの縁談事情をまったく知らなかったことに、俺はさらに落ち込む。
彼女は恋愛や結婚には興味がないと決めつけて、同僚の立場にあぐらをかいていた。剣の好敵手でいれば、ずっとそばにいられると思って。
こんなことなら早く伝えればよかった。結婚したら、彼女は騎士を辞めるのか? あの笑顔も、誰かのものになってしまうのか。
彼女を思うなら、言われたとおり、昨夜のことについては口をつぐむべきだ。というか俺には何の記憶もない。せめて覚えておきたかった……いやそうじゃない、そうじゃなくて。
ずっと想ってきたんだ。彼女と対等にやり合えるようにと、それだけを考えて剣を磨いて。あの笑顔が見たくて。誰にも渡したくなくて。
「……なかったことになんか、できない」
俺が急に立ち上がったので、座っていた椅子が、がたんと音を立てて倒れた。呆気に取られる先輩にオレンジジュースの代金を押しつけて、店を飛び出す。
騎士団の要職に就くヴァイオラのお父上は、王都に屋敷を持っている。彼女が宿舎にいないということは、今日はそちらへ帰ったのだろう。俺は馬を借りて、屋敷までの道を急いだ。
夜分突然の訪問に、屋敷の使用人たちは当然驚いていた。が、おそらく俺の必死の形相や、騎士の身分などを見て、ひとまず玄関ホールに通してくれる。
「旦那様に確認してまいりますのでお待ちください」と言われたが、確認に行った使用人が戻るより前に。騒ぎを聞きつけたのか、ホール正面にある大階段から屋敷の住人のひとりが下りてきた。
「ラルフ? どうしたんだ、こんな時間に」
「ヴァイオラ……」
彼女は柔らかそうな白のブラウスと、ゆったりしたベージュのワイドパンツを身につけていた。長い黒髪は無造作に、普段より低い位置で結ばれている。
俺は階段下まで駆け寄って、堪えられず、口を開いた。
「聞いた、ヴァイオラが結婚するって。だからその前に伝えたくて。昨夜のことは、言われたとおりなかったことにするから、だけど」
昨夜のことはいい。……だけど、何年間も積もらせてきたこの想いは。
「君が好きだ。ずっと前から。それは、なかったことにできない」
ヴァイオラは静かにこちらを見上げていた。そして少しの沈黙を挟んでから、彼女にしては珍しく、歯切れの悪い答えを返してくる。
「えっと、そうか。それは、なんというか……ちょうどよかった」
「…………ん?」
「明日、ラルフのご両親のところへ行く予定だ。それで、お前に求婚する許可を得るつもりだった」
「キュウコン……求婚? 誰が、誰に」
「だから私が、お前に」
「え……、だって、それじゃあ、あの“なかったことに”っていうのは」
「お前に求婚するためには、いろいろクリアにしておくべき問題点があった。だから、一旦なかったことにとそういう意味だったんだが……。その一言をそんなに気にさせてしまったとは知らず、すまなかった」
ヴァイオラの説明によると。
今朝俺の部屋で目を覚ました彼女は、「責任を取らなければ」と思ったらしい。なぜ女性のヴァイオラがそんな男前思考に至るのかとツッコみたいところだが、それは一旦置いておく。
しかし一方で、彼女の家が婿を探していたのは事実だった。彼女には男兄弟がいないので、長女として婿を取り、家督を継ぐ予定だったと。それでお父上が婿探しに奔走していたが、話はなかなか纏まらなかった。
「剣ばかり振るっている私と結婚したい者などいないだろう」と彼女は言ったが、そんなことはないと声を荒らげそうになった。あとたぶん、縁談が纏まらなかったのは彼女のお父上が怖いとか、お父上が「軟弱男にヴァイオラはやれん」と言ったとか、なんかそういう画が浮かんできたが、黙っておいた。
それなら早く俺に声をかけてくれれば……と思ったが、俺は端から対象外だったそうだ。王家の近しい親戚の、公爵家の三男に縁談を持ちかけられるわけないだろう、と。
そう、好き勝手やっているせいで時々自分でも忘れそうになるが、俺は一応公爵家の息子だ。とはいえ現代の我が国において身分はさほど厳格ではないし、ゆるく育てられた三男なのでいつでも婿に行ける。もちろんヴァイオラ以外のところに行く気はないが。
ともかく、ヴァイオラはこの休暇を利用して、俺に求婚するまでの問題点をつぶしていくことにした。
まずは、婿探しをしてくれていた父親に詫びる。次に、格下の家から公爵家へ縁談を持ちかけることについて、王家へ伺いを立てる。それから俺の両親へ、と、礼儀正しい根回しの道筋が描かれていた。
彼女がそれほど真剣に俺との結婚を考えてくれていたということに、胸がいっぱいになる。
「あの、じゃあ、もしかしてヴァイオラも俺のことを……」
「私が色事に疎いのは知っているだろう。正直、よくわからん」
うん、想定内だ。傷つかない。
「でも、今朝初めて結婚相手にと考えたとき、お前がずっと私のそばにいるのはすごく自然なことに思えた。それじゃ駄目か?」
いいや駄目じゃない、全然駄目じゃない。十分すぎるくらいだ。………………。
「……おっと」
ついに、俺の情緒は決壊した。周りの視線とか場所とかそんなものは全部目に入らず、ヴァイオラを抱きしめる。
彼女は小さく驚きの声を上げながらも、俺を受け止め、優しく背中を撫でてくれる。
「あと一応言っておくが、昨夜、私たちはたぶん何もしていない」
「……え?」
「医師の診断を受けた。といっても、ちょっと話をしただけで終わったが。妊娠したとしたら、剣の稽古はよくないかと思ってな。でも、そんなにすぐわかるもんじゃないし、初めてなのに体に一切の違和感がないというのはさすがに考えられないと医師が……」
「わー! いい、いい、詳細な説明はいいから。ってことは、ヴァイオラも何も覚えてないのか?」
彼女があまりに赤裸々に話をするので、俺は使用人たちの存在を思い出し、慌てて遮った。
「なんとか思い出そうとしたんだ。昨夜気づいたらラルフの部屋で、お前が床で寝ていたから、寝るならベッドで寝ろ、と私が言って。で、お前が制服のままベッドに入ろうとするから、制服は騎士の誇りだ、ちゃんとハンガーにかけろ!と……私も酔っていたから、なんかそのまま全部脱がせたような……?」
「…………」
「で、私も寝るなら制服をちゃんとしないと、その前に風呂だと思って脱いで、その次の記憶はもう朝だ」
もはやどこからツッコんでいいのかわからないし、男としていろんな意味で情けないことこの上ない。
「じゃあ、責任を取るっていう必要もないんじゃ……」
「ああ、ラルフがそれでいいなら縁談も取り下げるぞ」
「いやいい、どうかそのままで! 俺はヴァイオラと結婚したいです!」
「そうか?」
彼女は試合前のような不敵な笑みを浮かべて、こちらへちらりと視線を寄越す。それが、ふっと綻んで。
「何もないとわかってからも縁談を進めていたのは……もしかしたら私も、お前と結婚したかったのかもしれないな」
再び彼女の身体を強く抱きしめ直す――どうか、それだけでなんとか踏みとどまった俺を褒めてほしい。
彼女の黒髪が、ふわりと俺の鼻先をくすぐった。石鹸のような香りがして。玄関ホールのシャンデリアの灯りを映し、紫に艶めく輝きはオーロラみたいだと思った。きっと、しっかり手入れがなされているのだろう。剣のことしか頭になさそうなのに、こういう女性らしい部分にはどきりとしてしまう。
それに、よくわからんとか言いつつ俺の気持ちを受け止めてくれる、男前なところも。もう、全部全部大好きだ。
しばらく経ってから顔を上げると、玄関ホールには野次馬が増えていた。皆少し離れた場所から、何も見てないですよ、という体ではいるのだが。
そして、その野次馬の中にはヴァイオラのご両親の姿もあった。階段上の柱に隠れているが、丸見えである。お父上の厳しい顔つきに、俺は息が止まりそうになった。
だがお父上は別に、怒ってはいらっしゃらなかったようで。
「どうせ明日君のご実家に伺うのだから、このまま泊まっていったらどうだ? ヴァイオラの部屋で一緒に寝ればいい」とかとんでもないことを言われたが、それは丁重にお断り申し上げた。
*
ヴァイオラのお父上の屋敷を出たあと、ゆっくり馬を歩かせて、宿舎までの道を行く。
途中に桜の樹があった。昨日みたいにライトアップされてはいないが、暗闇に浮かぶごく淡い色合いは、それ自体が光だ。
今日は風が強く吹いていたからか、散りはじめている。しかし不思議なのは、それすら愛おしいような気持ちになってくること。来年も一緒に桜を見に行こう、そう彼女を誘ってみようかと、次の季節も楽しみにできるから。そう、次も、その次も。この先もずっと、隣にいることを許されたのだ。
結婚しても、彼女は騎士を続けるつもりだと言う。また、お父上がまだまだ現役というのもあって、家督を継ぐのはゆっくりでいい。結婚式や子供に関することも、二人のタイミングで決めていいと言われた。
そんな話をお父上から受けている傍ら、ヴァイオラ本人は。「二日も剣を握っていないから腕が鈍った。ラルフ、明日の挨拶が終わったら訓練場に行くぞ」、とか言うから笑った。
零れゆく花あかりを見ながら、昨日彼女が喜んでいた桜の酒を思い出して。つい先ほど「酒は一生飲まない」と誓ったけれど、ほどほどになら、それに彼女と一緒のときならいいかな、と思い直した。
そんな俺を笑うように、ざあっと音を立てて風が吹きつけて、花びらがくるくる弧を描いて舞った。
夜闇の中、きらきらと笑って。巡る季節を祝福するように。
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お読みいただきありがとうございました。
◎コロン様主催『酒祭り』企画参加作品です。
◎4/21 ひっそりと、活動報告ページにおまけSSを載せました。「やらかし」時と、数日後の、ヴァイオラ視点エピソードです。よろしければどうぞ。
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