失われるもの3
ふぅ、と、意識して長く息を吐く。
手の甲で額の汗を拭う。そのまま手を後ろにやって、高い位置に束ねていた髪を解いた。きりりと張り詰めていた感覚が少し緩む。首を緩く振って長い髪を揺すれば、少し遅れて開放感が来た。
自然と閉じていた瞼を、ゆっくりと上げる。
目の前にあるのは、見つけた時よりもかなり小さくなった魔素溜まり。大きさ的にはよくある宿の一室ぐらいか。光をのせた剣圧でかなり散らしたが、それでもこれだけは残ってしまった。
この先は、しっかり浄化の手順を踏むしかない。
「……リチェ、大丈夫か?」
最後まで残っていた、大蛇の一匹を倒したセシルが、長剣を振るい鞘に収めながら歩いてくる。
栗毛色の髪が、風に吹かれて視界の端っこで踊っている。自分の色に縁どられた視界に、目を細める。目の下辺りに蓄積した何かを感じながら、口角を上げた。
「大丈夫。さっさと終わらせちゃいましょ」
セシルは私の前で立ち止まり、何か言いかけて、やめた。
代わりに、ぽんと頭の上に手を置く。しばらくそのまま私の顔を見ていて、唐突に、わしゃわしゃと人の髪をかき混ぜるように乱暴に撫でた後、手を離した。
「ちょっと、何するのよっ」
慌てて手櫛で髪を直しながら文句を言えば、ふん、と鼻を鳴らされた。
まったくっ! と愚痴をこぼしながら睨み、こちらも鼻で息を吐く。肩が上下した。
「このサイズなら問題ないだろうけど、一応介助お願いね」
「あぁ、心得てる」
伸びてきた大きな手が、私の肩をぽんと一つ叩いて離れていく。私の左側、並ぶ位置で向きを変え、魔素溜まりをその黒い目が見つめる。その一連の動作を見守ってから、私は腰のポーチから小袋を出した。それをぽい、とセシルに放る。ぱし、と音を立てて彼の手が受け取った。
私は一度は鞘に収めた剣を、するりと引き抜く。右手で持った剣の刀身に左手を当てる。
「光よ、ここに」
ゆっくりと左手を細剣に這わせていく。愛剣は私の言葉を受けて静かに光を放ち……変貌した。
鈍く光る古めかしい錫杖頭にあるのは四つの遊輪。植物を模したような流線形の紋様が彫り込まれ、彫刻品のような美しさがある。
左手を元の位置に戻し、確かめるように錫杖の柄を握る。右手の位置をずらしてから左手を離し、錫杖を立てる。
とん、と、長い柄の先を地面に下ろせば、遊輪が揺れて、小さな音を立てた。
握り直すようにして右手で確かめる。
空いた左手を介助役のセシルに差し出した。さらさらと手のひらに呪い粉を盛られる。それが風で飛んでしまわないよう、軽く手を握る。
「あなたはここから、五歩ね。私はそこから更に三……かな」
「承知した」
数度、ゆっくりと呼吸を繰り返してから宣言する。その間に小袋をしまったセシルが頷いた。
返事を聞いてから、静かに踏み出す。
一歩、二歩、と、宣言した位置まで二人並んで進む。
そこで足を揃え、止まる。一度左に視線を送る。いつもと同じ切れ長の目がこちらを見ている。注意深く、全て見通していそうなそんな目だ。心配性だな、と、私は小さく笑う。
「始めるわ」
言って、姿勢を正す。
目の前の魔素溜まりから感じる、五感をざわつかせる感覚に一度目を閉じ、息を吸い込む。止め……。
瞼を上げる。しっかりと、見据える。
ほんの一瞬霞んだ視界に、目を眇める。もう一度だけ閉じてから開けば、いつもの鮮明な視界に戻っていた。
しゃん。
右手を軽く動かせば、錫杖の輪が澄んだ音を響かせた。
「――――……」
唇を開き、音を出す。
今の言葉ではない、今は意味を知る者もいない、歌。
司祭たちはその音を口伝で教わり、口伝で次の世代へと繋ぐ。
私は己の唇から発する音を耳で聞き、その響きが掠れず、そして揺れずに場を支配し始めるのを確認する。
その場で、もう一度錫杖を鳴らす。
しゃん。
ふわり、微風ではびくともしないマントが空気を纏い膨み、揺れた。
栗毛色の髪が、マントと一緒に舞い始める。
浄化のためにゆっくりと己の中の何かが周囲に溶け出し始めている。自分自身が大気と一体化していくような、何度感じても不思議な感覚が私を満たし始める。
しゃん。
歌を止めずに、私は一歩踏み出す。
肌がちりちりと何かに反応している。さっき戦闘開始時に感じたのと同じ、暗がりに触れたところから鳥肌が立っていく感覚。本能的な拒絶に一段階、体が重くなったような気がした。
しゃん。
もう一歩。一段階、視界が暗くなる。
ねっとりと瘴気が濃くなった。意識しないと呼吸が浅くなる。
何かに焦がされているような感覚に、体の至るところがざわざわとして落ち着かない。
寒さとは違う、なにか嫌なものを見てしまった直後のような、背筋が冷える感覚に、怖気づきそうになる。
しゃん。
逃げ出したくなるのを耐えて、さらに、一歩。
息苦しさを感じても、歌は止めない。
掠れようとする声を、下腹に力を籠めて支える。
生唾が溜まっていく感じに飲み込みたくなるのを必死でこらえる。乱してはいけない。正しく韻を踏まねば、呑まれる。魔素溜まりに。私自身が……。
しゃ、しゃん!
手にした錫杖で、力強く大地を二度、叩いた。
左手を振るい、呪い粉を撒き散らす。
私は、ほんの一瞬に息をしっかりと吸い込み、声を張る。
「――……
ここは生あるモノの場所。
風とめぐり、水に育まれ、
火に教えられ、地へと還るモノたちの場所。
闇に許され、光に守られ、
健やかなる命のための場所。
光よ、この地を照らせ。祝福を……!」
しゃんっ!!!
撒いた呪い粉を触媒にして、ぶわりと光が噴き出した。
圧をもった光にバサバサと私のマントが、髪が、聖騎士の騎士服がなぶられる。
眩しいのに、けして目を射ることのない、聖光。
暗く凝りその場に残っていた魔素が、その光に押しやられるようにして一気に霧散した。




