置き土産
リチェの姉、エマ視点。村でのワンシーンです。
「エマ、後、どれぐらい残っている?」
夜も更け、人もまばらになった食堂で片付けを始めていた私に、養父、リドルフィがたずねた。
見れば、いつもの瓶を持ち上げ、残った琥珀色の液体を眺めている。
見上げるほどに大きかった体も、この数年で随分と枯れた。何でも掴めそうなほどだった手も肉が削げ、皮と骨が主張する。それでもまだ大きいと感じる手の中にあるのは、薬酒の瓶。彼の最愛の妻が残した、置き土産。
「えぇっと、確かもう残り一瓶だったような…… ちょっと待ってね。見てくるわ」
「あ、あぁ、いい。そこまでしなくて」
低く穏やかな声が厨房横の貯蔵室に行きかけた私を呼び留めた。
すまんな、と、いつもの優しい口調で添えられる。
使っていたお皿などを洗い終わっていた私は、厨房から出てきてカウンターの養父の横へと行く。
養父は手にした瓶を掲げて残りを見せてくれた。割と大きな瓶の底に、私の小指の長さほど。漬けたハーブの一部も瓶に入ったままだから、実際に飲める量はもっと少ない。養父が持つ手を揺らせば、瓶の中で優しい琥珀色が、ちゃぷんと音を立てた。
「そうか。もう残り一瓶だったか」
「……私が漬けたので良ければ、おかわりも用意してあるよ」
「ありがとう、エマ」
目尻の皺を深くしてお礼を言ってくれたけれど、きっとグレンダさんが漬けたもの以外は飲まないんだろうなぁ、なんて分かる。それぐらいにリドさんにとってはグレンダさんは特別だったのだ。
彼は毎日毎日本当に一舐めするぐらいの量、愛妻が残した薬酒を飲む。嗜む量は、飲み始め、棚いっぱいに瓶があった頃から変わらない。自分が長生きすると知っていたかのように、初めから大事に大事に楽しんでいた。村の者が味見をしたいと言っても、これだけは絶対に譲らん! と言って誰にも分け与えない。彼の妻が生きていた頃の溺愛っぷりは、村の皆が知っている。頑なに独り占めするその様子すらもなんだか微笑ましくて、皆が揶揄っても本気で貰おうとはしなかった。
「きっと、そろそろいい歳なんだから禁酒しろってことなのだろう。あいつは心配性だからなぁ」
ほら、ね。思わず私は苦笑を浮かべる。こんな風に言われたら、私が用意した薬酒なんてもう勧められない。
グレンダさんが教えてくれたレシピで作ったもので、彼女が亡くなった翌年には漬け始めたから、熟成期間を考えてもさほど味が変わるとは思えない。それでも彼は、こっそりすり替えようものなら言い当てそうな、そんな確信があった。多分、村の誰に訊いても、それはバレるよと言うと思う。
「そうだねぇ。グレンダさんなら今飲んでいるのも、そろそろやめなよって言ってお茶に取り替えそう」
「そうだな」
言いつつ、養父は瓶のコルクを抜き、小さな小さなグラスにほんの一滴だけ注ぐ。そうして大事そうにコルクを戻した。瓶を私に預け、己の親指ほどの小さなグラス鼻先に持っていく。いつも通り、まずは目を閉じて香りを楽しむ。
村のハーブをふんだんに強い酒に漬け込んだ、そんな薬酒だ。酒というよりハーブの香りの方が強い。それが何十年も熟成しているのだから人によっては嗅ぐだけで咽るかもしれない。
それを、愛しい人への想いを隠す様子もなく、黙ったまま静かに幸せそうに楽しみ、そして風景の一部に溶け込んだ頃、惜しむように時間をかけてグラスを傾ける。
聖女が亡くなった後、毎日繰り返されるその光景が、私はなんだか愛おしくてつい見守ってしまう。
多分、この場にいる皆も、それぞれにその光景を見守っているような気がする。
「ご馳走様。……あぁ、そうだ、エマ、一つ頼まれてくれるか?」
「構わないけれど、どうしたの? リドさん」
空になったグラスと、まだ中身の残る瓶を受け取って、私は首を傾げる。
養父は大したことじゃない、と笑む。その見慣れているはずの笑みが、なんだかちょっと引っかかった。
「もしも、その酒が余ったらな。勿体ないからリチェたち聖騎士にでも飲ませてやってくれ」
捨てたり墓に持ち込んだらグレンダに蹴飛ばされる、と、養父が笑う。
言われた言葉に、私は顔をしかめた。
「そんな縁起でもないこと言わないで、全部飲み切っていってください。こんな強いの、きっとリドさんしか飲めないし、グレンダさんも飲み切って欲しいって思ってるわ、きっと」
「そうだな」
怒った口調で言えば、ははっと明るい笑い声が返ってきた。
「それじゃぁ、おやすみ」
「おやすみなさい」
年老いても大きな体が、己の体を労わるようにゆっくりと立ち上がる。九十になった今も背は曲がらず、少し前には夫のデュアンたちと一緒に森から山の方へと散策にも自分の足で出掛けていった。私は詳しくないが、今でも養父は剣をとって戦うこともできる、打ち合いでは引き分けが多い、と、妹のリチェも言っていた。
それでも歳をとったなぁと時折じんわり沁みるように感じる。この歳なのだから感じて当たり前ではあるのだけども。
「……リドさん」
食堂から館へと戻っていく後姿に、気が付いたら声をかけていた。
「ん、どうした、エマ」
ゆったりした仕草で養父が振り返ったことで、私は我に返る。
「ううん、なんでもない。良い夢をね」
「あぁ、エマも良い夜を」
昔と変わらぬ優しい笑みを見送って、私は、何故声をかけてしまったのかとしばらく立ち尽くしていた。
以前に書いた番外編:譲れないもの(薬酒)のお話も良ければどうぞ。
番外編のシーンから更に十年後とかですね。
https://ncode.syosetu.com/n9890ju/28
当時は週に1回ちょっとした量を飲んでいますが、途中から毎日一滴なんて方針に変えたようです。
それでも消費ペースはきっちり同じなんだろうなぁ(汗)




