憧れるもの17
ごくり、と、唾を飲む音がした。
じっと見据えたまま動けなくなっていた私は、それで我に返る。
唾を呑み込んだのは他でもない自分自身。無意識の行動が、呪縛を切ってくれた感じだ。
下唇を軽く舐め、意識して長く息を吐き出す。
一度、ぎゅっと目を閉じて、無理矢理それを視界から追い出した。
「暁。他には? あれだけ?」
ぐる、と、肯定らしい唸り声が返ってきた。
自分を抱いていた左手を動かせば幾分か強張っている。随分と力が入ってしまっていたらしい。数回握り開きしてから、左に寄りそう暁の首筋に触れた。豊かな毛並みの奥にある確かな体温は、まるで命綱のように感じた。
「近づくよ」
言って、一歩、踏み出す。
ところが、すぐ横にいる銀狼がこちらを向き、ぐい、と鼻面で私を押し戻した。
間近にある金色の目が、確かめるように私を見ている。無言の圧を感じる。こちらと同じものを思い出していたのだろうことを、その強く美しい瞳がほんの僅かに揺れたことで私は察した。
「……」
「……」
互いに見つめ合ったのは、一瞬ではあったのだろう。でも、その眼差しに込められた思いに根負けして、私の方が先に目を伏せた。
「わかった。今は、あれには触らないし、近づくのも五メルテまでにする。それ以上は準備して、他の人も確保した状態にする。もしそれ以上近づきそうになったら、私を噛み付いてでも止めて。これでいい?」
暁の風を連れてきたのは、正解だったらしい。私は小さくため息をつく。吐き出す息と共にそう約束する。
「それでいい。それ以上はセシルがくるまでは許可しない。」
「なんで、そこであいつの名前が出てくるかな」
二の聖騎士の名前が出てくれば、つい苦い顔になる。すると、銀狼からは笑う気配が返ってきた。少し馬鹿にしているような雰囲気に、私は更に渋面になる。
そういえば、守護の狼たちを調査に連れて行くことを提案してきたのは二の聖騎士だった。
もしかして、私がこうして単身で突っ走ることを想定しての言葉だったのだろうか。
「知れたこと。それとも言葉にした方が良いか?」
「いらない」
なんだか腹は立つ。でも、今のやり取りで少し緊張がほぐれた。
確かに止められなかったら、後先考えずにすぐ近くまで近寄り、場合によっては触ろうとしていただろう。質量差をもって止めに来た暁の風の判断は正しい。
「改めて、確認だけど……暁、あれは、あなたの目には何に見えるの?」
「……なんだろう、な。モノ、には見えない。多分、目には何も見えていない。何かあるのは分かるが、見えない」
「……あなたらしくない答えね」
私がそう言えば、銀狼はふんと鼻を鳴らした。きっと、自分でも不本意だったところに私が指摘したのが面白くなかったのだろう。
「匂いもない。……あれからは音もしていない。風はあれを避けているように思う。異質なのは感じるが、なぜそう感じるかは分からない」
一度、ひく、と、鼻を動かした後に銀狼が続けた。音についていう前に、ふさふさの毛に覆われた銀狼の耳が確認するように少し前に向いた。
「……そう。ありがと」
礼を言ってから、私は改めて視線をあちらに向ける。
「私の目には、明かりの光を跳ね返してきらきらしているように見える。ただ、焦点を合わせようとすると、なぜか合わないような感じがして気持ちが悪い。暁がいうところの、ぞわぞわはここでは私も感じる。匂いや音は感じない。風は私じゃわからないわ」
目を細め、じっと観察してから銀狼と同じ順に口にする。触れたまま話をしているおかげで、こちらの言葉に相槌を打つような、彼の静かな呼吸が分かった。
「それじゃぁ、近づくわよ?」
「あぁ」
今度は大丈夫だと判断されたのだろう。
私はきらきらと光る何かを見据えたまま、ゆっくりと一歩踏み出す。右手は、いつでも抜けるよう、ずっと剣に添えている。
銀狼も私に合わせた速度でのそりと一歩進んだ。一度止まり、ちらりと目を合わせてから同じようにもう一歩、更にもう一歩、と、互いに無言のまま距離を詰めていく。
やがて、約束した五メルテまで来れば、立ち止まった。
近づくにつれて肌が泡立つような気配が強くなり、気がつけば呼吸が浅くなっていた。この距離まで近づいても、何かが、何なのかはさっぱり分からない。
私は口の中で呪文を唱えると、魔法の明かりを追加する。何かを囲むように合計六つ。
「……向こうが、歪んで見えるわね」
私の言葉に、ぐる、と銀狼が短く喉を鳴らして肯定した。
「でも、これでもまだ、あれが何なのか分からないわね」
見ようとすると、強制的に視線をずらされるような気持ち悪さを感じながら、私は言う。
ほんの少し、焚き火の上に出来る空気の揺らぎに似ているような気もするが、それよりももっと異質だ。歪んでいるとでも言おうか。ズレている、ブレている、そんな言葉が頭の中で浮かんだ。
何故なのか説明が出来ないのに感じる恐怖。あれはここの世界にあってはならないものだと、本能的に感じる。魔素溜まりに感じる恐怖に近いかもしれない。
「……暁。今回は、触らないし、これ以上近づかない。でも、せめて魔法をぶち込むか、何か投げ込むとかしたいのだけど」
ばふ、っと太い尻尾で背を叩かれた。




