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帰還のカデンツァ

喫茶「黒紅館」。

静謐な日常の香りに包まれたその場所で、レオンは“過去”から目を背けて生きてきた。

だがロンドが置いていったオルゴールは、眠っていた旋律を呼び覚ます。

組織「アルペジオ」の異変。崩壊の兆し。

そして、黒紅館の灯を一度背にしたレオンは、再び“奏者”として歩き出す――。

 夜気は薄く冷え、街灯の周りにだけ色が残る。

 胸ポケットの内側で、古いオルゴールがかすかに当たり、金属の乾いた感触が伝わる。


 交差点を曲がった時だった。

 空気が一瞬だけ波立ち、耳鳴りのような高音が走る。歩道の植え込みの葉が、何者かの指揮に従うようにざわめいた。

 ――軽い“周波攪乱(しゅうはかくらん)

 レオンは指先で空を弾く。短いスタッカート。音の波が切れ、夜が(なら)される。


「……やはり、お戻りになられたのですね」


 声の主は、街灯の下に立っていた。

 黒のコートに身を包み、冷静な瞳に確かな熱を宿している。

 シンフォニー――アルペジオの戦略参謀であり、理想を支え続けた一人。


「……久しいな、シンフォニー」


「はい、奏導(そうどう)

 おかえりなさい――この言葉を、ようやく口にできます」


 軽口のようでいて、その声音は揺るぎない敬意に満ちていた。

 視線はレオンの胸元――オルゴールに注がれている。


「ここで立ち話は危うい。基準が乱れています。拠点へ」


 二人は並んで歩く。

 シンフォニーは、途切れがちな声で現状を報告した。

 指揮者が沈黙し、“声”だけが残っていること。

 全域で小さな攪乱が頻発していること。

 そして――組織の心臓部、調律器(チューナー)が失われたこと。


「失われたのか、奪われたのかは断定できません。ただ確実なのは、負荷が個々に積み重なり、奏者同士が調和できなくなっている……」


「……ロンドは?」


「輪舞の結界で現場を修繕していますが、消耗が激しい。……奏導、彼女は無理をしています」


 ビル影の小さな出入口――旧練習室の扉を開くと、埃っぽい地下への階段が現れた。

 昔のままの匂い。狭い室内には譜面台と壊れたメトロノーム、そして空の台座がひとつ。


「ここに、調律器が置かれていた」

「はい。基準音A。全奏者を束ねる柱です。……今は空席のまま」


 レオンは台座に指を触れる。冷たい石が、指紋をじわりと奪っていく。


「盗まれたな。壊すのなら、一緒に粉砕するはずだ。……誰かが“利用”するために持ち去った」


「その通りです。問題は、誰が何の目的で」


 シンフォニーが端末を操作すると、壁面スピーカーから微かなノイズが走った。

 やがて、あの声が流れる。


 《……諸君。調律は問題ない。作戦を続行せよ。規定通り、二番街区の共鳴点を――》


 レオンは耳を澄ませた。

 揺れない抑揚、呼吸のない間合い。

 合成音声の気配。


「――これは、指揮者じゃない」


 音が途切れる。

 地下室に、吐息だけが戻る。


「偽物に従い、皆が動いている。負荷は増え、攪乱は拡がる……崩壊の旋律は、もう始まっている」


「だから戻ってきてくださったのでしょう?」

 シンフォニーは静かに目を伏せた。「再び、私たちを導くために」


 レオンはオルゴールを取り出し、ゼンマイを軽く回す。

 流れる旋律に、花の意匠が重なる。


「……白百合。“清冽”。非殺傷を最優先に――。

 小節は二。『二番街区』と符号する」


「つまり、誰かが偽の“声”をすり抜け、奏導に直接手掛かりを残している」


「そうだ。だが調律器を取り戻さなければ、全員が正しい音を奏でられない。まずは“基準”を戻す」


「奪還作戦を?」


「ああ。すぐに動く。二番街区の共鳴点は囮。本命は搬送経路だ。調律器は重い。必ず痕跡が残る」


「承知しました。ロンドに合流を要請します。私は外周を抑えましょう」


 シンフォニーが踵を返す。

 その背に、レオンは短く呼びかけた。


「シンフォニー」


「はい、奏導」


「戻ったのは、理想のためだけじゃない。黒紅館を――守るためでもある」


 彼女は振り返らず、手のひらを胸の高さでひらりと振った。

 その仕草には、忠誠と理解が込められていた。


「……日常を守れない理想は、独りよがりですから」


 静かな言葉が、足音と共に消えていった。

夜の地表に戻ると、風が高音を運んできた。

遠くで、誰かが奏でるピアノが一音外す。それでも曲は進む。


黒紅館の灯は、心中で小さく揺れている。

必ず戻るべき日常の象徴。

だからこそ、まずは基準音を取り戻すのだ。


レオンは歩き出した。

足取りは確かに、次の小節へ進む拍を刻んでいた。

――調律の前奏は、もう始まっている。

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