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9.身上の弁明


「何やってるんですか」


 そう言ったハンス様は酷く不機嫌な顔をしていた。

 正直今は放っておいて欲しい。折角の門出なのだから水を差されずに旅立ちたかったわ。どうせ会ったところでお互いにいい思いをしないのだから、見て見ぬフリしてくれたらよかったのに。

 黒く短い髪に四角いフレームの眼鏡。険しい表情のままハンス様はそのままゆっくりと近付いて来る。


 何か用か、と。問いかけるのも億劫で黙ったままじっと見つめ返すと、彼は苛立たしげにため息を吐いた。相変わらず態度の悪いこと。

 そんな私の心の声が聞こえたのか、ハンス様は不愉快だと言わんばかりに眉を寄せて口を開く。あぁ、また嫌味でも言われるんだろうなあ。そう思っていたのだけど。次の瞬間、ハンス様から出た言葉は全く予想外のものだった。


「それ、どうしたんですか?」


 それ。とはどれのことかしら。特に何か……、いえ、まぁ色々と思うところはあったけれどそれももうどうでもいいことよ。大したことではないと言おうと、顔を上げればハンス様と目が合った。

 さらに眉間にシワを刻んで私を見下ろしている。そうしてゆっくりと私を指差し、口を開いたの。


「以前より体が透けてませんか?」


 視線を落とす。言われてから意識してみると確かに。少しだけ、薄くなっているような気がしないでもない。でもなぜ? 確かに幽霊になってからずっと、透けているなと思っていたけど体の透過度が変わることなんてなかった。

 考えられるとすればいつの間にかタイムリミットが来てしまったということくらいだけれど……。なんて思いながら自分の手を見下ろす。やっぱりいつもよりも向こう側がよく見えるようになっていた。


「……まるで消える前兆みたいね」


 ぼんやりと呟いた私を見て何を思ったのか、ハンス様は更に詰め寄ってきた。


「何があったんですか」


 その問いには答えられずにいると、そのまま手が伸びてくる。私の腕を掴もうとしたその手は、何も掴むことはなくすり抜けてしまう。何度か触れようと試行錯誤するハンス様の手を眺めつつもされるがままにしていると、ハンス様はさらに険しい表情になっていった。

 怒っているように見えなくもない。私が何も話そうとしないことに腹を立てているのかしら。でも話せないのよ。というより説明することが出来ないと言う方が正しい。だって自分でもよく分かっていないもの。

 しばらくすると諦めたようで、ハンス様の手が離れていく。それを目だけで追うと、彼は小さく舌打ちをした。……一体なんなのかしらこの人。不機嫌になるなら初めから聞かないで欲しいのだけれど。


「また、オスカー様ですか?」


 とても低い声だった。思わず肩を揺らしてしまう程に迫力のあるそれに気圧されて俯きつつ首を振る。確かにあの人を見かけはしたけど、そのせいで透けているわけではない、と思う。そもそも原因が何であれ、私はもうすぐ消えてなくなるわけだし関係ないじゃない。

 そう思って首を振ったというのに、ハンス様はまだ納得していないようだった。まだ何か言いたいことがあるらしく、こちらを睨み付けている。


「なにがしたいんですか」


 答えられずにいると、ハンス様は苛立った様子で頭を掻いて、それから真っ直ぐに私を向く。眉間に深く刻まれたシワ。不機嫌そうな瞳が私を見ている。


「なんで自分から傷付きに行くんですか」


 そんなつもりはなかったんだけど、ハンス様にはそう見えたらしい。そしてそれは多分間違っていない。私は別に、自分が傷付くために行動を起こしたわけではなかったはずなのだけれど。

 どう答えたらいいかもわからなくてただ黙って見つめ返すと、ハンス様はもう一度大きく舌打ちをした。


 だって、しょうがないじゃない。オスカー様のことは、多分好きだった。確かに踏み外すことで転がり落ちる恐怖とか、どんなに頑張っても評価されないことへの焦りもあった。別の誰かを愛していることへの嫉妬も、私の言葉を聞いてくださらないことへの悲しみもあった。

 でも、あの日。初めて会った時。私は確かにオスカー様に恋をしたの。

 好きだった。どうしようもなく。あの人の隣に並び立つために必死だった。もう無理だってわかっていても、少しでも私のことを見て欲しかった。


 視界が滲む。きっと今泣いているんだろう。だけど涙は零れていない。あぁ、なんだか可笑しい。

 ふわりと頬を撫でる風に顔を上げる。相変わらず眉間にシワを刻んだままのハンス様が私を見下ろしていた。


「……私、あの人のことが好きだったのよ」

「知っています」

「でも、あの人あんなでしょう?」

「……そうですね」

「だから、もうどうでもいいの」

「…………」

「もう、疲れちゃった」


 そう言って笑うと、ハンス様は何故か悲しそうな目をした。どうしてあなたがそんな顔するのかしら。私にはわからない。ただ、その目にどこか既視感を覚えた。いつか見たような気がするけど思い出せなかった。

 だけどすぐにハンス様は眉を寄せて、険しい表情をする。何かを言いたげにしてはいたけれど結局は何も言わないまま口を閉じた。

 それきり会話が途切れてしまい、沈黙が訪れる。風に乗って街の喧騒だけが響いていた。こんな話をするつもりじゃなかったのになぁ。そう思いながらそっと息を吐く。指先が、手足が、どんどん薄くなっていく。もう終わりみたい。


「……さようなら、ハンス様」


 最期の挨拶を告げれば、ハンス様の唇が小さく動いた気がした。しかしそれが音になることは無く、私の体は空気に溶けるようにして消えていった。



 消えていったはずだった。

 急に視界がクリアになる。先ほどまで目の前にいたハンス様も街の景色もどこにもない。広がっているのはなんだか懐かしい見慣れた天井だった。

 体が重い。首だけを動かして辺りを見渡せばどうやらここは私の部屋で、私自身はベッドの上にいるらしい。

 手のひらに触れているシーツを握り込む。ちゃんと触れることが出来る。のたのたと体を起こせば代り映えの無い私室がそこにあって。何ならあの日八つ当たりしたクッションも枕元に転がっている。


 戻って来た。どういうわけか、戻ってきてしまったらしい。

 あぁ、最悪。なんで今なのよ。全部諦めてどこか遠くへ行こうとしていたところだったのに。なんでこう、締まりがないというか上手くいかないのかしら。あんな風になったら消えるものだと思うじゃない。なんで体の方に戻って来てるのよ!

 意味がわからなかった。でもわかったところでどうにもならない。消え損ねたという事実は変わらないのだから。


 そういえば、最後にハンス様は何と言ったのだろう。聞こえなかった言葉が少し気になる。聞きたくても聞けないというのが現状だけれど。あんな別れ方しておいてどんな顔して会えって言うのよ。私完全にもう二度と顔を合わせないつもりで話してたわよ。

 大きくため息をつく。自分の手のひらを見下ろしても透けている、なんてこともなく。その手のひらで顔に触れてみてもすり抜けたりはしない。


 どうしよう。本当に帰って来てしまったみたい。

 これからどうしたらいいかわからず途方に暮れていると、控えめなノックの音が部屋に響く。扉の方を見る。返事をする前にゆっくりと開いていくドア。その先に立っていた人物が私を見てぽかんと口を開いている。


「何をしているの。早く入りなさい、アニー」


 そう声をかければ、彼女は落としそうになっていた替えのシーツを慌てて抱えなおし駆け寄ってくる。


「お嬢様!」


 嬉しそうな声を上げて抱きついてくる彼女を受け止めつつ、私は小さく笑って見せる。はいはい、私はここに居るわよ。残念なことにまだ消えずにこの世界に存在している。


「よかった、本当に良かった……」

「心配かけたわね」


 抱きしめ返しながら優しく頭を撫でると、腕の中で彼女が首を横に振る。ごめんね、ありがとう。口には出さないまま心で呟いて彼女の肩越しに部屋の中を見渡す。

 部屋を出た時と変わらない。まぁ、言ってしまえば私が幽霊になっていたのは四日間だけだったし大して変わり様もないのだろうけど。


 しばらくそうしていて、やっと落ち着いたのか顔を上げたアニーが色々なことを教えてくれる。皆心配していた、とか。私が目覚めたことを伝えればきっと喜ぶ、とか。

 バカな子ね、ちゃんと全部わかっているわよ。隣で見ていたもの。心から心配してくれたのはあなたぐらいだって。

 あとは、あの人。オスカー様がお見舞いに来てくれたってことも。それは本当だったわね。なんの意図があって来たのかもわからないし、次の日には本命の所に行っていたけど。

 でもそうね。あの人が見舞いに来たことで一番焦ったのはお父様だったんじゃないかしら。私が起きないことを出来るだけ隠そうとしていたし。後で話をした方がいいかもしれないわね。


 それにしても本当に何だったのかしら。

 幽霊になったこともそうだけど、突然また体の方に戻って来て。一体どうなっているの?

 考え事をしながらもアニーの話に相槌を打つ。ひと段落ついたところで、そういえばとアニーが私の顔を見つめる。


「すみません、私ばっかり話して……もう体調は大丈夫ですか?」


 改めて聞かれて思わず苦笑する。そうよね、普通はそういうこと気にするわよね。

 重力を感じないような幽霊から、実態のある体に戻って来たのだから少し体が重い気がするけど、ただそれだけ。

 熱も無いようだし、体の調子自体は悪くはないと思う。そう答えてみれば、アニーは安心したように微笑んだ。


「よかった。でも念のため今日一日は安静にしましょうね。それから、明日にでも先生に診てもらいましょう」

「そうね」


 まるで小さな子供に言い聞かせるような口調で言う彼女に、私は素直にこくりと一つ肯く。大人しくベッドに戻った私の手を、アニーはぎゅっと握ってくれた。温かい手。生きている人間の体温。その温もりに改めて、戻ってきてしまったのだと実感する。

 何もかも投げ出してしまおうと思ったのに。引き戻されてしまった。折角諦めがついたと思ったのにまだここで生きていかなくてはしけないらしい。


 にこにこと、アニーが嬉しそうに笑っている。ねぇ、アニー。私本当は、消えてしまいたかったのよ。そんなことは言えないから、代わりにもう少しだけ強く握り返す。

 すると彼女は嬉しそうに笑ってくれる。あぁ、駄目ね。やっぱり私はあなたを悲しませることは出来なさそうだわ。


 他にも仕事があるアニーを部屋から送り出し肩を落とす。また、ここで生きていくのね。今までと変わらない生活が待っているのだと考えるだけで憂鬱になる。

 オスカー様とももう一度ちゃんと会わなければいけないわよね。そういえば一方的に叩きつけた婚約破棄もきちんとした手続きをしないと。

 あの人がどう思っていようと、これ以上はムリだと思ってしまった。お父様とお母様には申し訳ないけれど、そのことも話さないといけない。きっとあの人、私の言葉なんて本気にしてないだろうから。


 窓から外を見る。相変わらずの晴れとも曇りとも言い切れない空が広がっている。

 あぁ、本当に。何もかもうまくいかないわ。


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