7.無色透明
何がどうなっているのかよくわからなかった。
ここは私の部屋で、十年以上もの付き合いがあるにも関わらず一度たりとも訪ねてきたことのない男が我が物顔でやってきて、不遜な態度のままベッドに横たわる私の体を見下ろしている。
何故、オスカー様がここにいるの? この時間はまだ執務の時間のはずでは……?
困惑する私を他所に、アニーがベッドサイドに置いていった椅子に腰かけ彼が息を吐き出した。
ベッドにいる方の私は相変わらず眠ったままでピクリとも動かないし、オスカー様もそれを見下ろしたまま動かない。そして幽霊の私がそれを恐る恐る観察するというなんとも奇妙な光景が繰り広げられている。
何なのよ、これ。一体この人は何を考えているの? 何があって、どういう心境の変化でここに来たのか全く分からない。
聞きたくても声は届かない。それに、もし仮に届いたとしても本当のこと答えてくれるとは思えない。いつも彼はそうだった。にもかかわらず彼は今日、私を訪ねてきた。本当に意味が分からない。
もしこれが誰かに何かを吹き込まれたからという理由なら今度こそ発狂してしまいそうだわ。今まで私の言葉なんか一度たりとも聞かなかったくせに、他の人の言葉には聞く耳を持っているなんて。本当にどうにかなりそう。
相変わらず幽霊の私は見えていないようで目の前に浮いている私に視線を向けることはない。
もしここで、私が目を覚ましたらこの人は何を言うのかしら。なんて、出来もしないことを考えてみる。いつも侍らせている娘たちにかけるような甘い言葉を囁いてくれるのかしら。それともあなたの心の中心にいる子に向けるような優しい笑みを……。
眠っている方の私の体に手を伸ばす。手のひらは特になんの引っ掛かりもなくすり抜けてしまった。ああ、本当に。馬鹿なことを考えるものじゃないないわね。こんなことをしても虚しいだけだわ。
ため息と共に手を引けばオスカー様がゆっくりと口を開いた。
「ねぇ、なんで寝てるの? 早く起きなよ」
特別感情のこもっていない平坦な声だった。その言葉は眠る私に向けられたもの分かっていてもつい彼を見つめてしまう。けれど私とは視線が合うことはなく、彼はそれ以上何も言わずただじっと眠る私を見下ろすだけだった。
沈黙が流れる中、彼の手が伸びる。触れるか触れないかの距離まで近づいた指先がぴくりと震えたあと結局触れることなく力なく下ろされた。ベッドの上の私は目を覚まさない。幽霊の方の私は見ているだけしかできない。
オスカー様にとって私とは一体何なんだろう。
一度は目をかけてもらった。彼に欲しいと乞われて婚約者になった。けれど、身辺を整えた後の私には、彼は興味をなくしてしまった。
何がダメだったんだろう。オスカー様は、私の何が欲しかったんだろう。それはきっと、あなたへ嫁ぐために失った何かだったんでしょうね。何よ、それを奪ったのはあなたじゃない。私だって好きで失くしたんじゃないわよ。あなた気まぐれで、私は何もかも失ったのよ。
ぐるぐると考えて思考がどんどんネガティブになって行く。いつの間にか頬を涙が流れていて慌てて拭うけど次から次に溢れてきて止まらない。
幽霊でも泣けるのね、なんてしょうもないことを考えて少しだけ笑ってしまった。
どうしてこうなったのかしら。私が悪いのかしら。私が至らなかったせいなのかしら。わからないわ。もうずっと前から考えることも放棄してしまったもの。
考えたって無駄だもの。あの時こうしていればなんてそんな後悔ばかりの人生なんだから。必死に、現状に縋るしかなかったのよ。これ以上、何も失わないためにはそうするしかなかったの。それなのに。
オスカー様が立ち上がる。ああ、本当に執務の合間を縫って来たのね。きっとここに来たのも気まぐれに過ぎない。そうとわかっていれば、余計な感情に振り回されることもない。そう思っていたのだけれど、次に彼が放った言葉を私は理解出来なかった。
「また来るから。それまでに起きなよ」
その言葉は私にとって衝撃的で、何がしたいのかもどうして欲しいのかもわからず。
「え、待って。何を……」
思わず聞き返した声もやっぱり聞こえていないようで、身の前で扉が閉められてしまった。多分、今追いかければちゃんと追いつく。でも追いついた所でオスカー様は幽霊である私は見えないし言葉も交わせない。だから、何かを問いかけるとは出来ない。
いくら手を伸ばしたって、彼がこの手を取ることはもうない。それがなんだか無性に悔しくて。だから、そのまま見送ることしかできなかった。
半分放心状態の私を他所に、あの男が出ていった扉から今度はアニーが入って来る。
手にしていた花瓶をサイドチェストに置くと彼女は眠る私の身だしなみを軽く整えてくれた。
「こちらのお花、オスカー様がお持ちくださったんですよ」
優しい手つきで私の髪を撫でながらアニーが微笑む。
花瓶に生けられたバラは燃えるように赤く綺麗で。一体なんのつもりなのかしら。今までそんなことしたことなかったじゃない。
「よかったですね、お嬢様」
何にも良くなんか無いわ。私が言いたいのはそういうことじゃ無いの。ねえ、聞いている? 私の声が届かないのは知っているけれどどうしても口にせずにはいられなかった。
あの男、早く起きろとだけ言って出て行ったのよ? 別に心配してほしかったわけじゃないけどもう一言位あったって良かったんじゃないの?そもそも、本当に見舞いに来たのかどうかすら怪しいわ。
困惑する私を他所にアニーは嬉しそうに笑うばかりで、そして何故かとても楽しげにしている。ちょっと、笑っている場合ではないのだけど。
第一何なのあの言い方。まるで私があの人の望む通りになると思っているような言い方じゃない。……まぁ、多少は聞くわよ? でもそれは地位や権力的な背景があるからで私が望んでやっていることではないわ。断じて。
なのに、勝手に決めつけて。挙句にあんなことを言われて。あぁもう、腹立たしい。
それにしても本当に一体どういう風の吹き回しなのかしら。今まで私に興味なんて全く無かったのに。どういう心境の変化なのよ。今までの態度の理由も分からないし。何もかも分からないわ。
「オスカー様のためにも早く良くなってくださいね」
やめてよ、あなたまで。アニーはとても優しげな顔をしていて。ああ、そうね。この子はいつもこんな感じだったわね。
私と違って素直で真っ直ぐで、いつも一生懸命で、明るくて元気で。使用人の中でも若い方でまだ幼さが残っていて、失敗ばかりしているけれどそれを補えるくらいに頑張り屋さんで努力家で、本当は凄く優しい子。
……本当に。あなた早いとここの家から脱出しなさいよ? この家に碌な人間なんていないんだから、長居したって割を食うだけよ。私、あなたのことは嫌いじゃないの。だから出来れば幸せになって欲しいと思っているのよ、これでもね。
視線を彷徨わせれば嫌に目を引く赤いバラ。そこに大した意味なんてない。あってもお見舞いだから花でも送っておけという程度でしょう。
そういえば昔はお父様もバラを育てていたわね。アニーが来た頃にはすっかり今みたいな人だったから知らないかしら?
お父様も昔はとても穏やかで、庭仕事が好きな人だったのよ。お母様の為に花に包まれたガーデンテラスを作るんだって張り切っていた頃もあったの。今はすっかり、二人共そんな素振り見せないけどね。
あの頃は何もかもが輝いて見えたわ。私まだ幼かったし、見るものすべてが目新しかった。お母様が話してくれるおとぎ話も、お父様が育てる季節の花々も。毎日が素敵な物で溢れていた気がする。
家族三人と、執事とメイドが一人ずつ。きらきらしたドレスや宝石なんてなかったけど、そんな慎ましやかな生活が好きだった。
もちろん今のお父様とお母様も、今の家のことも否定するつもりはないけど、時々懐かしくなるの。あのままの暮らしが続いていたらどうなっていたんだろうって。
でももう戻れないのよね。だって全部壊れてしまったのだもの。壊したのは私たち。そのきっかけになったのはあの人。
あの日、あの人が私を見つけなければ、きっと私は何も知らない男爵令嬢でいられた。そんなこと考えても仕方がないことだってわかってはいるのよ。
オスカー様が持ってきたというバラはとても優しい香りをしている。そういえばあの日、オスカー様に何かを聞かれたんだったわ。
何かを問いかけられて、それに私も答えて……。何を聞かれたんだったかしら。遠い記憶だから上手く思い出せない。でも笑って答えていた記憶があるから、多分悪い質問じゃなかったんだと思う。
確かにあの時は笑っていたの。今考えると、私の人生で一番幸せな時間のような気さえするの。もう二度と手に入らないことがとても悲しくて、苦しくて。
ため息を付いてもベッドの上の私は眠ったまま。視線を上げれば換気のために窓を開けるアニーの後ろ姿。外には青空が広がり、花壇ではお父様ではなく庭師が手入れした色とりどりの花が咲き誇っている。
目を閉じて、瞼の裏に浮かぶのはあの小さな屋敷の庭でお母様に連れられ庭仕事に精をだすお父様の背中を眺めた幼き日々。永遠に失われてしまった私の大切な。
「ねえ、お嬢様。私はずっとシャルロットお嬢様の味方ですから」
彼女が振り返る。ベッドで眠る私に近寄って微笑みかける。
「だから安心して起きてくださいね」
そっと眠っている方の私の頬に触れる手はとても優しくて。だから少し泣きそうになったなんて誰にも言えない。
あの男に言われた言葉はやっぱり腹立たしいけれど、アニーの言葉は素直に嬉しい。ああ、そうだわ。そうね。ゆっくりでいいから、また一緒にお茶を飲みましょう。
相変わらずどうすれば戻れるのかはわからないままだけど、もう少しだけ考えてみることにするわ。時間は少ないかもしれないけれど何かしらの方法を探してみる。
だから、起きたらあなたの話を聞かせてね。