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6.所在の分明

ハンス視点


 何がどうしてそうなっているのか、どうしたらいいのか、正直分からなかった。

 昔一度だけ話したことのある初恋の人が、幽霊になっているのを目撃した時のなんとも言えないやりきれなさを消化する方法を誰か教えて欲しい。

 向こう側が見える程に透けていて、言葉通り地に足も付いていない。長い髪をゆらゆらと泳がせる姿は、あの頃よりもずっと美しく成長していて。こんなはずではなかったのにという後悔ばかりが浮かんでは消える。

 唯一の救いは、幽霊になっても彼女、シャルロット嬢が元気そうにしていたことか。いや、亡くなってしまっているのだから救いも何もないのだが。


 何故、こうなってしまったのか。俺はただ、あの人に笑って暮らして欲しかった。それだけを願っていただけなのに。直接でなくともいい、どんな形でもいいから、彼女の生活を守れることが出来ればと。

 机の上に広げた書類に目を通しながら息を吐き出す。紙の上に踊るインクは小難しい報告を綴っていた。浅く息を吐き出して読み終わった紙切れに不備がないかを確認し仕訳けていく。

 決められたことを決められた通りに。物事とはそうあるべきと定められており、彼女もその中で生きていくと決めていた。だから俺も、その中で彼女の助けになれればと。全部、全部彼女のためだった。隣に立つことは許されなかったから、ならばせめて。


 目を閉じれば瞼の奥に現れるのはいつだってあの時の彼女だ。

 同年代の貴族の子女との顔合わせのために開かれたサロンで、庭園の片隅で膝を抱えて泣いていた幼い少女。静かに涙を流す彼女に声を掛けたのはほんの気まぐれのようなものだった。


「なぜ、泣いているの?」


 なんて聞いたところで答えてくれるわけもないと思っていたのだけれど、彼女は意外にもあっさりとその口を開いた。


「苦しいの」


 少女らしい高い声でそう言ったシャルロット嬢の頬は涙で濡れていて不謹慎であるとわかっていたけれど目が離せなかった。

 苦しくて悲しくて辛い、そんな感情を全て詰め込んだような声色に胸の奥の方がぎゅっと締め付けられる感覚を覚えながら、なるべく優しい声音を意識してもう一度問いかける。


「それは……どうして?」


 すると今度は少し躊躇うように視線を動かした後、ゆっくりとその唇を開いて言葉を紡がれる。

 自分はつい数週間前までは男爵令嬢であったこと。第三王子に見染められて父が伯爵の爵位を賜ったこと。そのせいか一変した周りの者たちの態度に戸惑っていること。自分よりももっと大変な思いをしている両親には迷惑をかけたくないから我慢していること。


 ぽつりぽつりと話してくれた内容を聞きながら、成程と納得する部分もあった。貴族社会というのは思った以上に面倒臭いことが多い。特に高位の貴族であれば尚更のこと。

 男爵と伯爵では常識が違う部分もそれなりにある。それに、第三王子の婚約者候補に名が上がるくらいなのだから、余計なことに巻き込まれないようにと周りが躍起になるのも仕方がない。

 きっとこの子は今自分が置かれた立場というものを理解しているのだろう。だからこそ、こうして人目を避けて一人で泣くしかないんだろう。


 小さな身体を震わせて泣き続ける彼女を見ているうちに、自分でもよくわからない気持ちに襲われた。どうにか力になることは出来ないかと思った。

 でも。そう思った当時の俺自身も、彼女とさほど年の変わらぬ子供だった。

 結局何かを言うことも出来ずに黙って見つめることしか出来なかった俺を見上げて、彼女が小さく微笑みを浮かべて見せたその時のことを今でも鮮明に覚えている。


 あぁ、そうだ。俺はこの時、確かに恋をしたんだ。

 あの時の小さく笑った顔が忘れられなくて、でも俺には彼女の状況をどうにかしてやれるほどの力もなくて。

 だからせめて、彼女の暮らしを守れるように。そのために俺は宰相をしている叔父に師事し、文官になったんだ。

 どんな微かなことでも構わない。彼女が笑って暮らしていられる国を作れたなら。そう思って努力してきたつもりだった。だというのに、なんだこれは。こんなはずじゃなかった。


 守りたかったはずの人は胸を張って「至って普通の幽霊だ」と言った。

 体は透け、伸ばした手も彼女の体に触れることはなかった。まだ死んでないと言いながら、同時に死んだようなものだと自嘲気味に笑うシャルロット嬢に頭の中が真っ白になった。


 見たかったのはそんな笑い方じゃない。手に入れることが出来ないならと諦めた結果がこれなのか。

 俺が勝手な思い込みで目を反らしていた間、ずっと彼女は一人苦しみ続けていたというのか。あの日のことを、彼女はきっと覚えていない。それでいい。彼女が笑って暮らしていけるなら。それでよかったはずなのに。

 死して尚、自分を苦しめた男の所に向かおうとする彼女に酷く苦いものを噛みしめる。


「あなたにとって、殿下は死んでからも気になる人なんですか?」


 聞かなければよかった。なんでこんなこと口にしてしまったのか。聞いたって、自分が苦しむだけなのに。

 消え入りそうな声で話すシャルロット嬢には見えないように拳を握りしめる。


 言葉の端々から、まだオスカー王子を想っているのが読み取れた。何故、こんなことを聞いてしまったんだろう。わかっていたはずなのに。

 憎々しいという態度を示しながらも、確かにシャルロット嬢は王子を愛していた。彼女は優しい人だ。例え一方的に決められた婚約でも、精一杯その勤めを、王子を愛そうと努力したのだろう。

 出来る限りゆっくりと深呼吸をして手のひらに入っていた力を抜く。やめた方がいいとはわかっている。それでも、つい口を出してしまう。


「あなたは、それで良いんですか?」


 いい訳ないだろう。それで彼女が苦しんでいるのに。何もできないくせになんでこんなことを言ってしまったんだ。

 答えを聞くのが怖かった。ただ一言、嫌だと、そういう理由だけで良かったのに。聞こえてきたのは、困ったような彼女の声だった。


「あなたって本当に野暮な人ね」


 呆れたような、どうしようもないものを見るような目で俺を一睨みして彼女は踵を返す。

 それ以上、何も出来なかった。離れていくシャルロット嬢とその背に棚引く長い髪を眺めることしか。

 自分の無力さに唇を噛んで、情けない自分に苛立って、もう戻らない過去のことばかり思い出す。俺には、彼女を救う術がなかった。それは今も昔も同じことだ。だけど、もし、もしも俺にもっと力が有れば。何かを変えられたのだろうか。


 あの日伸ばすことも出来なかった手のひらは、今は薄い紙の束を持っている。

 日々の繰り返しだ。決められたことを決められたように。紙の上で起こっているあれやこれやを仕訳けて必要な所に持っていく。単調で代り映えの無い作業。いつもと同じ、変わらぬ執務風景だ。


 同僚に声をかけて少なくない紙の束を持ち立上がる。

 俺個人がどんな感情を抱いていても変わらず仕事はあるし、どんなに会いづらくても仕事上顔を合わせなければならない相手もいる。この場合俺が勝手に抱え込んで会いづらくなっているだけだから自業自得だ。

 最初から、余計なことを考えずあの人の幸せを願うだけにしておけばよかったのに……。


 警備の騎士たちの前を通り抜け不本意ながら通いなれてしまった一画へ。この時間なら、まだ執務室にいらっしゃるだろうか。

 扉をノックすると中から返事があり、静かに開けて中に足を踏み入れる。視線を上げたオスカー様と目が合った。今日は、幽霊になったあの人はいないらしい。


 要件を伝え手にしていた紙の束を彼に渡す。

 正直、オスカー様のことはよく分からない。自身がやるべきことに関してはとても真摯に取り組まれる方だ。ただプライベートとなると、些か奔放過ぎる嫌いがある。多分今日も、やるべきことが終わったらいつもの様に女性を自身の応接室に招くのだろう。

 本当に、この人はシャルロット嬢のことを愛していたのだろうか。幼い頃の彼女は見染められたと言っていたが、その愛情は今も……。


「ご存じですか?」


 やめておけばいいのに、つい余計なことを言ってしまう。直した方がいいとは思って入るのだが、もうそういう性格なのかもしれない。

 書類に目を落としていたオスカー王子がこちらを向いた。真っ直ぐに私の目を見つめてくる瞳を見返しているうちに、今更のように後悔する。今すぐ撤回したいが、多分逃がしてはもらえない。

 可能な限りゆっくり息を吐いてから、言いようもない胸のもやもやと共に言葉を吐き出した。


「シャルロット嬢が伏せているそうです」

「へぇ」


 返って来たのはなんとも短い言葉だけだった。

 もっと他にもあるだろう。どうしてとか、どこで聞いたかとか。聞かれても答えられないのだが仮にも婚約者だろう。気にはならないのか。やはりもう、彼女のことは。


「それだけですか?」


 思わず聞き返した俺に、王子はさぞ不思議そうな顔をして見せる。

 一体何を言っているのかわからないという表情だ。どれだけ言葉を尽くしても響くことはないかもしれない。……この人はやはり彼女を傷付ける存在でしかないのだろうか。

 じっと俺を見つめた後王子がゆるゆると表情を変える。


「何を勘違いしているのか知らないけど、アレは僕のだよ」


 にこにこと人好きのする笑みで王子は言う。言葉の意味を理解するまで数秒かかった。

 理解して、衝動的に動き出しそうになった手のひらを握り込む。駄目だ。これは良くない。彼女はきっと望まない。わかっている。わかっているんだ。


 王子は相変わらず笑顔のまま。何が楽しいんだろうこの人は。彼女はあんなにも苦しんでいるというのに。

 でもここで俺が感情を吐き出したところでどうなる。どうにもならないだろう。

 喉の奥が酷く乾く。ぐっと奥歯に力を入れる。自分が、じゃなくてもいいと思っていた。彼女が心穏やかに過ごしてくれるなら。その隣にいるのが俺じゃなくてもいいと。


「……そう、ですか」


 掠れそうになる喉を酷使しやっとの思いで吐き出す。

 失礼します、と。頭を下げ踵を返す。これ以上ここに居たくない。後ろから声はかからなかった。廊下に出て、早歩きで進む。無性に一人になりたかった。

 結局俺は、何もできなかった。出来ることと言えばこうして逃げ回ることぐらいで、どうしようもなく無力で。初恋の人の幸せを願うことしか出来ない。

 地位も力もない自分にはどうしようもないことだと分かっていても、この想いを捨て去ることが出来ない。


 あぁ本当に、自分が嫌になる。


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