4.曖昧な幽明
さて、幽霊になって一日が経った。
こんな状態でもいつもと変わらず時間は進むし朝は来る。メイドたちが忙しなく動き出し、騎士たちが警備を交代する。私も、幽霊のまま変化があるわけでもなく一夜を明かしてしまった。
夜は特に何かあるわけでもなく、お腹も空くこともなく、幽霊って便利なんだか不便なんだかわからないわね。
昨日は一度屋敷の方に戻っては見たけど、相変わらず体の方は眠ったままだった。アニーが世話をしてくれているようだったけど、あの子のためにも早くどうにかなった方がいいのかしら。方法なんてわからないけど。
そんなことをぼんやりと考えている内にすっかり日が昇ってしまった。別に霊体だから体が凝り固まっている訳ではないのだけれど、なんとなく伸びをして緊張を解す。何も変わらない今日が来た。別に清々しくもなんともない朝だわ。
今日は何か予定はあったかしら。細々としたものがあった気がするけど、この姿で考えたってどうしようもないわね。必要ならアニー辺りがキャンセルの知らせを出して置いてくれるでしょう。
とりあえず私は何をしようかしら。大してすることが無いのよね……。いつもなら勉強や執務をしているといつの間にか一日が過ぎているのだけれど、今のこの状態じゃあ何にも触ることさえ出来ないもの。
なら、やることは昨日と同じかしら。今日こそあの浮気男を呪うための手段を考えるわ。
浮いたままの体で流れるように移動して壁をすり抜ける。昨日と同じ様に屋敷の壁から外へ出て通い慣れた王城を慣れない目線で向かう。
等間隔で並んだ警備の騎士たちの前を、見えないのをいいことに堂々と通り抜けていく。見えていたとしても咎められないと思うけど、そもそも気づかれないんだから関係無い話だけど。
それにしてもこうやって空を飛ぶというのはなかなか面白い感覚だわ。風を切る音もしない無音の空中遊泳。普段なら絶対にできない体験に少しだけ気分が良くなる。こういうのもいいものね。
幽霊になってからというもの、あまり疲れを感じなくなった。一晩中起きていても眠くならなかったし、どんなに移動しても浮いているから足が疲れない。生きるのって色々制限があって大変だったのね。
食事も睡眠も必要ないというのは味気がないけど今のところ人間の頃に戻りたいとは思えない。そんなことを考えながらするすると壁や天井を抜けてあの人のいる区画に入る。
相変わらず厳重な警備ね。まぁ、あれでも一応第三王子だしこれくらいの警備は当たり前なのかしら。
多分、この時間はまだオスカー様は応接室にはいない。だからあの人が良く女性を連れ込んでいる部屋をスルーして執務室に扉をすり抜けて文字通り顔を出す。
机に向かうオスカー様がいた。その表情は真剣で、思わずため息が漏れる。
手のひらを顔の前で振る。相変わらず見えていないらしい。ああ、やだやだ。嫌味なくらい整った顔をしているわね。この男が奔放な振る舞いをしても許されているのはこの顔と、やるべきことをやってから遊んでいるからだわ。
勉強も執務も要領よく出来て、空いた時間で浮気しているのが余計に腹立たしい。もっとどうしようもない人だったなら私も早々に諦めがついて楽だったのに。そうじゃないから今の今までズルズルと引きずってきてしまったのよ。
私にとって、彼は碌でもない人よ。私の人生をめちゃくちゃにした大嫌いな人。それがこうして目の前にいるというだけで不愉快極まりない。数日前までの私はこんな男のどこが良かったのか。自分でもよく分からないけど、とにかくムカつくことだけは確かね。
もう一つため息が漏れた。真面目な顔しちゃって、何なのよ。私の話を聞く時にはそんな顔見せたことなかったじゃない。
確かに執務を真面目に熟すのは大事なことだわ。国の運営にも関わる陛下から任された大切な仕事だものね。では私は? きっと私は、彼にとって優先度が低い存在になっていたのでしょうね。
私がオリバー様の婚約者となった時、両家の間にどのようなやり取りがあったのか私は知らない。けれど。あの日から私の人生は劇的に変わってしまった。両親も、私を取り巻く環境も全て。
穏やかだったはずの私の人生を変えてしまったくせに何の責任も取らずにのうのうと浮気しているんだから、罰が当たればいいのよ。具体的には上質紙で指を切るとか、棚の角で小指を打つとか、そういうのが積み重なっていけばいいと思うわ。
こうやって言い続けるのも一種の呪いみたいなものかしら。少しずつ不幸になっていってほしいわ。
ふよふよと浮いたままそんなことを考える。採光のために大きく設けられた窓からはよく晴れた空と城下の街並みが広がっている。のどかね。この時間帯に何にもせずに過ごすのっていつぶりかしら。
ただ空中に浮かんで窓の外を見るというのは存外暇なもので何かないものかと視線が彷徨う。いくらかの間そうしていると、部屋の中にノックが響いた。
「執務中失礼します」
低く、簡潔な物言い。静かな室内に押し入ってきたのは、昨日少し話したばかりのハンス様だった。
手には紙束や本を抱えていて、用事の内容は薄々察することが出来る。今日も元気にお仕事しているようで何よりだわ。
「こちらが頼まれていた物です」
「早かったね」
書類と、何かの文献を渡すハンス様と目が合う。一々こちらを確認しなくても文書の内容を覗き見たりしないから安心して頂戴な。オスカー様の背後から少しだけ離れてなお、何か言いたげなハンス様に肩を落とす。
分かったわよ、外に出ていればいいんでしょう? 言われなくても流石に執務の邪魔はしたりしないわよ。
するりと二人の間を抜けて部屋の外へ出る。幽霊だからどこからだって出ていけるのだけど、生前のくせかつい扉の方から出てしまう。
さて。追い出されてしまったわけだけど、この後どうしようかしら。応接室でも占領する? それとも城の中を少し散策してみるのもいいかしら。
どうしたものかと考えていると、用が終わったのかハンス様が執務室から出てくる。お手本みたいな礼をして扉を閉める姿に妙な関心を覚えた。律儀な人ね。
別に興味があるわけじゃないけどやることもないのでその動作を眺めていたら振り返った彼と目が合った。
途端に眉間にシワを寄せられて少しイラっと来た。私だってそんな反応される謂れはないのだけど。そのままじっと見つめていると、あちらも諦めたのか小さくため息を吐いてから口を開いた。
「まだ、幽霊をやってるんですか?」
「私の勝手でしょ」
あなたに関係ないわ。今まできちんとしてきたんだからたまには幽霊ライフを謳歌したっていいじゃない。
そんな気持ちで言葉を返してみたけれど、この男はそれで引くような殊勝な性格はしていないらしい。呆れたようにまたため息を吐かれた。
苛立ち紛れに睨むと、面倒くさそうな顔を返されて更にイラッとする。無言のまましばらくお互いを見合っていたけど、折れたのは向こうだった。再びため息をこぼしてから私をどこかへ誘導するように歩き出した。
ついて行く義理は無いのだけど、特にすることも無いので大人しく従うことにする。一体どこに連れて行かれるというのかしら。
なんて思ったのもつかの間、辿り着いたのは昨日と同じ埃っぽい倉庫だった。内緒話には最適だけど、もう少しどこかないのかしら。
「戻る意思は?」
開口一番、単刀直入な質問をぶつけられる。
相変わらずの上から目線な態度に腹が立つけどここで突っかかっていても仕方がない。口を開かずにいると、彼は言葉を続けた。
「いつまでもそうしている訳にはいかないでしょう」
「……」
そんなこと私が一番良く分かっているわよ。けれど戻ったところで何になるというの? 私はもうほとんど死んでしまっている状態なのよ? 仮に戻れるとして、今更どの面下げて生きろというの?
黙り込んだままの私に何を勘違いしたのか、彼は鼻を鳴らしてから腕を組んだ。何だか嫌味な仕草だわ。この男は本当に人の神経逆撫でするのが上手よね。きっと私に対しても同じことを思っているのだろうけど。
眉間に刻んだシワを隠そうともせず、ハンス様は私に問いかけてくる。
「黙り込むのは良くないですよ。それとも言えないんですか?」
意地の悪い言い方にムッとくる。言わせておけば随分と偉そうね。そもそも貴女がこんなところに連れ出したんじゃないの。文句の一つも言ってやりたくなる。どうして私のことを唯一見える人間がこの男なのかしら。もっと他にもいたでしょう。
苛立ったままの表情で彼を見上げる。昨日も思ったけど本当に無神経で野暮な男ね。ずかずかと人の事情に踏み込んできて、鬱陶しいことこの上ないわ。
息を吸う。それから目を細めて、出来る限り冷たく言い放つ。
「言ったところで何も変わらないわ」
「そんなこと──」
「あるのよ」
遮るようにそう言うと、ハンス様は口を閉じた。
本当は言いたいことは沢山あった。けれど、それをぶち撒けた所で何になると言うの? こんなこと言ったってしょうがない。言った所で何も変わらない。だから、私は何もかも飲み込んでしまえばいいと思った。
言って何か変わるなら、私はこんなに苦しんでいない。私はこんなところにいない。私は……。
溢れそうになるものを出来る限り丁寧に飲み込んでゆっくりと瞬きをする。眼鏡越しのハンス様の視線とかち合った。
わかっている。大丈夫。私は、大丈夫。
「私の意思なんてあってないようものだもの」
なんとなく重くなる胸の奥を無視して吐き出した息に音を乗せる。
これは無視していい感情。じっと耐えていれば、きっと苦しくなくなる。
こんなものを相手にしてしまったから、一昨日の私は苦しくなってしまったのよ。
今までの私は呑み込んだものをうまく吐き出す方法が分かっていなかったけど、これからは違うわ。全部全部あの人が悪いの。だからこの感情も全部オスカー様に向けて返すだけ。
何度も言い聞かせて、何度も納得させる。大丈夫、ちゃんとわかっている。
「オスカー様の婚約者なんて立場だけど、私には何もできないのよ」
これでも一応身の程というものを知っているの。伯爵家の一人娘で第三王子の婚約者。なんて仰々しい肩書だけど、本当はそんなものじゃない。必死に取り繕っているだけ。
色んな事が重なってなんだか仰々しい肩書を押し付けられることになっただけの小娘に過ぎない。そのおかげで恵まれた暮らしをさせてもらってはいたけど、それ以上にぐちゃぐちゃな感情を抱えるはめになってしまった。
ダメね、もっとしっかりしなくちゃ。言ったって何も変わらない。私の意思なんて合ってないような物。貴族の子女は家に、そして国に付き従うもの。そう言い聞かせて今まで生きてきた。
幽霊になった今、それらから解放されて自由に振舞えるわけだけど、すっかり根付いてしまった考え方をすぐに変えるのは少し難しい。
いつの間にか落ちていた視線を上げればハンス様が眉間にシワを寄せている。
その反応に、やっぱりおかしな事を言っていたかしらと心配になったけど、どうやらそういうわけでもない気がする。薄いレンズ越しの彼の瞳には同情の色が浮かんでいて、少し居心地が悪くなった。
余計なお世話よ。と言いたかったけど、結局私がいくら頑張っても何にもならないもの。
「あなたも知っているでしょう? 私のこと」
ハンス様は何も答えない。なんだか険しい顔でこちらを見るばかり。あぁ、嫌だわ。こんなことを言うつもりじゃなかったのに。本当に嫌な性格をしているのは私の方だったわね。
自分で選んだはずなのに、いざその時になると酷く心がざわつく。それでも、ここで引いても仕方がない。息を一つ吐いて口を開く。もう後戻りはできない。
何度も影で囁かれて来た言葉を、今日初めて自分の声で口にする。
「私はハリボテの令嬢なのよ」
何が気に入らないのか眉間のシワをさらに深くしたハンス様に思わず口元が緩む。意外と感情豊かなのね。
そう思ったらなんだかおかしくて、とても息苦しかったはずなのに少しだけ笑ってしまった。