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36.遥昔の閃光

オスカー視点


 雲が厚い。

 例年通りならそろそろ雨季も開けるだろう。降水量の増加による河の報告もない。秋には兄上の祝儀もあることだしこのまま大きな天災が起こらなければいいのだが。

 自分とシャルロットの婚約解消の一件で国内を騒がしてしまったし、せめて兄さんの婚儀が終わるくらいまでは平穏であってほしい。


 息を吐きだして馬車を降りる。今日の分の執務は終わらせたし、シャルロットの様子を確認して教会の方にも顔を出そう。令嬢たちの様子も聞いておきたい。

 なんとも言えない古めかしい音のベルを鳴らす。取り換えを勧めたいところだが、さすがにそれは差し出がましいだろうな。

 シャルロットに付いて来たメイドに迎えられ、彼女と会う。何度か訪れた応接室もない一軒家はやはり手狭で、でもシャルロットにとっては十分な大きさらしい。


 手土産を渡していつものようにリビングのローテーブルを挟んだソファに向かい合って座る。話す内容なんて変わらない。近況だとか他には漏らせない愚痴のようなもの。

 次兄が異国で自分の店を持ったらしく、恐らくこちらにはもう帰らないつもりなんだろうとか。長兄と婚約者殿は上手くいっている。何もなければ秋には正式に婚姻するだろうとか。そんな、取り留めのない感情の吐露をするのに、随分と大きな対価を払ったような気がする。

 本当はもっと上手くやれていたら、何も失わずに済んだんだろう。彼女とも婚約者のままこうして向かい合って話す未来もあったかもしれない。全部、都合のいい妄想に過ぎないけど。


「君はどうだい? 何かあった?」


 そう言えば、彼女は少しだけ困ったように笑っていた。


「何か、というほどではないですか、この間屋敷の方に顔を出して来ました」


 両親と会い、話をして、完全にではないものの理解を得られて。お茶を飲む彼女の表情は穏やかだった。

 意図したものなのか、それとも無意識か。気にはなっていたが彼女はこちらに移って以来、生家を実家と呼ばなくなった。もう帰るつもりがないのかもしれない。

 彼女がそう決めたのなら僕が口を出すつもりもない。困りごとがあるなら公共事業の範疇でなら手を差し伸べることが出来る。個人的に手を貸せる関係には、もうない。


 それからは他愛無い話をしながら二人でゆっくりと時間を過ごす。

 彼女は変わったと思う。自分と婚約していた頃とは違い、自分が恋した頃でもない。そうしたのは多分。


「ハンスとは、よくやっているのかい?」


 僕の言葉に彼女は一瞬きょとんとした目を向けて微笑む。彼女にとってハンスは、とても大切な人になったんだろう。少し前までならば、この質問に対する答えはきっと否だっただろう。それが今は肯定になっている。

 ふっと息を吐き出す。どうしてこうも心がざわつくのか自分でもよくわからない。ただ漠然と、嫌な気持ちになった。


 気付きたくなかったな。これでよかったはずなのに、やっぱりどこか後悔が残っている。目の前にいる人もいつかはと思っていたけれど、実際にその鱗片を見せられると胸が軋む。

 彼女に大事な人が出来て、その人のものになる覚悟を決めている。それでいいじゃないか。シャルロットが幸せになれるのなら、祝福すべきだ。

 綺麗な人間ではないと思ってはいたけど、自分自身の中にある醜い感情に嫌悪する。


「例えば。僕がもう一度、君を好きだといえば振り向いて貰える?」

「ないわね。あなたも、それを望まないでしょう?」

「知ってた」


 わかってるよ。君のことをずっと見てきたんだから。思わず伸ばしそうになる手を握り込む。

 マリアベルの言う通りになったな。シャルロットを想う別の男が現れたら。彼女は、最初から僕ではなくハンスを応援していたということか。僕ではシャルロットを幸せにできない自覚はあったが、もう少し手心を加えて欲しかったな。


 シャルロットが好きだった。

 どんな形でも守りたかった。拙い恋だったと思う。いや、彼女に甘えていたのかもしれないな。もしかしたら、やり直せるんじゃないかと期待をしていた。……そんなわけ、ないのに。

 それからまたしばらく話して、シャルロットの家を出る。外は相変わらずの曇天だ。

 馬車を引く御者に一声かけて歩き出す。なんとなく、歩きたい気分だった。何かを察したのかいつもついてきている護衛は無言のまま少しだけ後ろをついて来る。余計な気なんて回さないでくれよ。情けないところを見られたくないんだ。


 ぼんやりとしながら歩く。雨は降っていないが、晴れてもいない。薄暗い雲に覆われた空を見上げて息をつく。

 いつの間にか足を止めていたようで、馬車は既に見えないところに行ってしまっていた。自分の中に渦巻くどろりとした想いに自嘲しつつ、小さく笑って再び歩き始める。

 これは、なんだろうな。頭ではわかっているはずなのにうまく呑み込めない感情がある。


 シャルロットが好きだった。

 本当に、好きだった。


 初めて見た時は世界の全ては素敵なものに満ちているというような瞳で僕を見つめ返してくれた。

 次に会った時には、その瞳に輝きはなくて。それを奪ったのは僕で。

 守らなければと思った。僕の我儘で彼女の世界を壊してしまった。だからせめて彼女を守らなくてはと。結局、僕の空回りだったんだけど。


 ゆっくりと歩き難い石畳行く。

 街路の補修工事の提案書も何度かあげているけど、正式に議題に上がるのはまだ当分先になるんだろうな。予算の問題もあるが大規模計画になれば予定も組み直さないといけない。秋にある兄さんの婚姻までに、なんて到底無理だ。

 教会まであと少しというところで、見知った顔をこちらへ歩いて来る。


「御機嫌よう、オスカー様。教会へ向かわれるのですか?」

「やぁエルザ。君は帰りのようだね」


 可能な限り落ち着いた声色を心掛ければ彼女は笑顔で答えた。

 確か先日あった時には、彼女は自分のブランドを立ち上げたいと言っていたな。教会の孤児たちと話す内に、刺繍から転じて服飾に興味が出たのだとか。


 孤児たちを通じて、やりたいことや興味を惹かれるものを見つけてくれたのならよかった。シャルロットはこの方法ではだめだった。

 彼女たちの社会復帰への対応が、孤児たちへの社会福祉のついでのような形になってしまったが、まともに議案を出しても一蹴されるのだから自分の発言力不足を悔やむしかない。


「何かありましたか?」


 不思議そうに首を傾げる彼女に苦笑する。そうだな、エルザはよく人を見ているんだった。


「お話ならいつでも聞きますよ。いつも助けていただいていますから」


 これは純粋な善意だ。

 彼女たちが自分に恋情を向けることはない。そういうのを最初からちゃんと話していれば馬鹿な自分に呆れずに済んだだろうか。それが出来なかったから今があるんだが。

 応接室にエルザたちを集めて話をしていたのは彼女たちに孤児院での様子や近況を聞き取るため。それをシャルロットに話さなかったのは……。自分でも不合理で幼稚だとわかっている。それでも、嫉妬して欲しかったんだろうと思う。本当に馬鹿なことをしたものだ。


 つい先ほどのシャルロットの様子を思い出す。

 最近彼女はよく笑うようになった。それは喜ばしいことだと思っているが、同時に複雑な思いもある。自分はもう必要のない人間なんだと思い知らされる。

 自分といた時よりもずっと自然に笑みが零れて、楽しげにしている彼女を見ると胸が痛くなる。

 彼女が幸せになってくれるのを望んでいたはずなのに、いざそうなると複雑になってしまうのは何故なのか。自分の中の醜い部分が顔を出す。僕と彼女の間には、もう何もない。何かが音を立てて崩れていく。


 エルザが少しだけ心配そうな表情を浮かべる。どうやら自分は相当浮かない顔でもしているらしい。

 あぁ、うん。それにしても、何かあったか。何か、あったのかもしれないな。


「悲しいことがあったんだよ」

「まぁ」

「失恋ってやつかな」


 「ない」と言われてしまった。

 呆れたようなシャルの声が耳にこびりついている。彼女には届いていなくても、恋心や執着はあったんだけどな。

 シャルロットは自分のものだと、自分が庇護する対象なのだと。みっともなくハンスを威嚇したこともあった。あれは、きっとハンスにも伝わっていたんだろう。あの時の彼の視線は忘れられない。


 シャルロットもハンスを気に入っていたし、ハンスもシャルロットを大事にしていた。お互いに惹かれ合っているのは傍から見ていてもよくわかった。だから、二人の間には何もないって信じたかったし自分に言い聞かせていたんだ。

 エルザは目を丸くして、そして微笑んだ。


「素敵な方だったんですね」


 嫌だな。本当に、僕の周りにはある意味で利口な女性が多すぎる。

 わかっているくせに言わないでいてくれるのは有り難いが、それはそれで惨めになるんだよ。溜息を吐きたくなる気持ちを抑えて、肩をすくめる。

 これ以上醜態を晒す間に、さっさと教会への聞き取りを終えて執務室に戻ってしまおう。何かに集中していればこの気持ちも紛れるだろうから。


 とはいえ、エルザと別れてからも教会への道のりはもう少しだけ続く。歩いて向かうなんて言ったことを早々に後悔した。

 これじゃ、マリアベルをどうとか言えないな。

 本当に手に入れたかったものは手に入らない。いつか交わした友人との会話を思い出しながら歩き難い石畳の上で足を動かす。

 曇天は、どこまでも続いていた。


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