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35.雨花と散光


 正直どうやって帰ってきたかよく覚えていない。

 屋敷でお父様とお話しして、その後お母様とも少しだけお茶をしてそれから。雨も止まないし泊っていくかと聞かれたけど、アニーを安心させたかったし馬車を出してもらって帰ってきたのよ。


 リビングのソファに座り込み一息付く。思いの外、気疲れしていたらしい。クッションに沈み込んだ体がなんとなく重い。

 さっきまで一緒に居てくれたアニーはキッチンで紅茶を入れている。すっかり見慣れた家のリビングはやっぱり落ち着く。目を閉じて息を漏らせば鎮まることのない雨の音と、扉一枚挟んだ向こうでアニーがティーセットを準備する微かな音が聞こえた。

 気分的にはこのまま夢の世界へ旅立ってしまいたいけれど、折角アニーが温かい紅茶を準備してくれているんだからもう少しだけ起きていないと。離れたくなくて愚図る瞼を何とか押し上げぼんやりと視線を彷徨わせる。

 扉が開く音がした。トレイを抱えたアニーがリビングに入ってきて、目の前のローテーブルに並べてくれる。


「お疲れですか?」

「そうね。少ししたら休むわ」


 体を起こして紅茶の注がれたティーカップに手を伸ばす。雨のせいもあってか冷えた体に温かい液体は心地よかった。砂糖一つ分の甘さに口元を緩めれば向かい側に座ったアニーが小さく笑う。


「何?」

「いえ。お嬢様がいらっしゃるなって」

「何馬鹿なこと言っているのよ」


 おかしなことを言うアニーに笑いかける。私が思うより、この子は私を思ってくれているらしい。今日実家に行くのだって最後まで自分も行くと言っていたし、もしかしたら帰ってこないかもと思っていたのかもしれない。

 余計な心配なんてしなくていいのに。本当に馬鹿な子ね。


「お父様と色々話してきたわ」


 私の言葉にアニーの顔が強張る。ああもうそんな顔しないでよ。大丈夫、何もないわ。その証拠にちゃんとこの家に帰ってきたじゃない。本当にただ話をしてきただけよ。

 私がどうしてオスカー様との婚約を解消したのかとか、屋敷の方に戻らない理由とか。そんな大事ではあるけど、とりとめのないこと。

 正直もうちょっと色々と言われるかと思っていたのだけど、お父様はすんなり受け入れてくださった。多分きっと、あの人もこのままじゃいけないとわかっていたのかもしれない。

 いつだって気持ちは同じはずだった。家族が幸せになれるように、傷付かないように。皆虚勢を張って必死に取り繕ってきた。せめて家族という枠組みさえ守れていたら、きっと何とかなるのだと思い込んでいた。でも、それだけじゃ幸せにはなれないと思ったの。


「時間はかかるかもしれないけど、きっとわかってくれるはずよ」


 言いたいことは全部言えたもの。多分大丈夫。

 私が、物理的にも精神的にも距離を置いてゆっくりとかみ砕けたんだから、お父様たちもきっとわかってくれる。それぞれ別の方法かもしれない。でも今度は、きっとちゃんと幸せになれる。

 紅茶を一口飲み込んで息をつく。雨の音だけが聞こえる静かな空間。ふとした拍子に時計の秒針の音が耳に残るくらいで、いつもなら聞こえてくるはずの声や生活音も今は聞こえない。


「そうですね……。お嬢様ならきっと大丈夫です!」

「ありがとう」


 不安げだったアニーの声が明るくなった。彼女の言葉に頬が緩む。

 本当は少し怖かったの。結局また何も出来ないんじゃないかって。

 叱られて、諭されて、それでおしまいなんじゃないかって。でも、二人は私の考えを受け入れてくれた。もちろん、否定したい気持ちもあっただろうけど、それでも私が二人の傍から離れていくことを理解してくれたように思う。


 全部が全部納得してもらえなくても構わない。でも、お父様もお母様も、そして私も。皆同じ様にお互いの幸せを願っていたことだけはわかっている。望んだ先の幸せが、違う形になってしまっただけ。だからいつか、きっとわかり合えると思いたい。

 そのためにも、私はここで自分の未来を考え直さなくては。

 やりたいことをするためには、なりたいものになるためには。ここで暮らしていくためには。見つめ直して、動き出さないといけない。今までの私には見えていないことが多すぎた。


「ねぇアニー」

「どうされましたか?」

「幸せになるには何を努力すればいいのかしら?」


 漠然と、このままではいけないと思って動き始めたけど、正確な着地点は決まっていないまま飛び出してしまったのよ。改めて考えればとても無謀だとわかる。でもそんなこと考える余裕もなかったの。

 あのままオスカー様の婚約者を続けるのはお互いに苦しいままだと思った。屋敷で暮らし自分たちを偽り続けるのも皆辛いと思った。全部現状を否定することから入ったものだから、まずは目に見える目標や理想なんかを決めるのがいいと思うのよ。


「そうですね……」


 私の問いかけに、アニーは少しだけ眉を寄せて視線を彷徨わせた。


「お嬢様にとっての幸せとはどんなものでしょう?」


 そう、言われると少し悩むわね。昔はいつか素敵な王子様が現れて、その人と一緒になってお姫様みたいな幸せな生活をなんて夢見ていた気もするけど、そうはなれなかったみたいだし。じゃあ今はと言われると、今一思いつかないわね。

 あんまり参考にならないと思います。なんて言いながら、アニーが至極真面目な顔をして口を開いた。


「私、ご飯食べている時すっごく幸せなんですよ」

「そうなの?」

「ええ。その後暖かいシャワーを浴びて綺麗な布団で眠れたら言うこと無しです」

「それは……素敵な日常ね」


 何ともありきたりな日常風景に思わず笑いが漏れる。

 確かに美味しいご飯を食べたり、温かいお風呂に入ったり、ふかふかなベッドで眠るのはとても気持ちいいし、そういう幸せもあるのね。


「痛いのとか苦しいのとかも嫌いですけど、お嬢様はそんなこともしないし」

「それは私もいやね」


 何だかアニーの物言いが妙に子供っぽく思えてしまって小さく笑う。


「幸せって人それぞれですし、まずは毎日を楽しく過ごすことから頑張ればいいんじゃないですかね?」


 にこりと微笑まれて、一瞬ぽかんとしてしまった。

 そうよね。幸せの形を決めてしまう必要もないのかもしれない。まだ、全然何も決めていないんだもの。これから見つけていけばいいじゃない。

 確かに明確な目標があればそこにたどり着くための行動が出来るけど、幸せって決め込むものでもないのよね。そうだわ。また繰り返すところだったかもしれない。


「それに、お嬢様は一人じゃないです」


 雨が窓ガラスを叩く音と秒針が時を刻む音が響く。そんな中、不意にアニーが口を開いた。

 彼女はいつものように優しく笑っていて、その笑顔を見てふっと肩から力が抜けた気がした。ああ、もう。この子はいつだってこんなことを言う。私が別に何かをしたわけでもないのに、どうしてそう簡単に心を寄せられるのかしら。


「私もそうだし、ハンス様もいらっしゃるじゃないですか」


 彼女の言葉を聞いて胸が小さく疼いた。

 そう、ね。そうなるわよね。あの時彼女はキッチンの方にいたし、多少話が聞こえていてもおかしくないわよね。うん。別に、隠しているわけではないけれど、わざわざ報告するほどでも無いような気がしていたのよ。だって、ねえ?

 別に隠したいとか、否定したいわけではないの。それに一応こういう関係になったのはこの間で、お互い今は婚約者もいないし何もやましいことはない、はずなのよ。

 やっぱりこう、なんというか、気恥ずかしいのよ。大体、私自身そういう話をオープンにするタイプではないし。


 確かにね、私だってそれなりに年頃だからそういう意味での将来を考えたりもするわよ? でも、それを誰かに話したり、ましてや人に聞かれるのは、何というか、ちょっと、気後れしてしまうのよ。

 でも、まあ、結局は私の問題よね。私が受け入れさえすればそれで済む話で、つまり私がもう少し大人になれば良いだけなのだけど。

 貴族の娘であるからそれなりにね、殿方との婚姻について夢を見るのはやめにしていたはずなのよ。オスカー様とのこともあったし、そういうものだって言い聞かせて、素敵なことばかりじゃないってわかっていたつもりなの。


 でもどうしてかしら。ハンス様のを考えるとついふわふわとした、まるで子供に読み聞かせるおとぎ話みたいな空想ばかり浮かんできて落ち着かない。

 早くいつものように冷静になりたいような、そうやってまた踏み込めない自分に戻りたくないような。


「応援していますよ、お嬢様」

「そう、ありがとう」


 照れ隠しに少し冷めた紅茶に手を伸ばす。なんだかとても喉が渇くのは何故なのかしら。少しだけ口に含んで息吐くと隣に座ったアニーが嬉しそうに笑うのが見えた。その顔やめなさいよ。

 何だかそれが少し気まずくて、今度はゆっくりとカップを戻してからテーブルに戻す。


 窓の向こうに目を向ければ相変わらずざあざあと降り続ける雨が見える。これはしばらく止みそうに無いわね。

 明日もこの調子だと嫌だなぁ、なんて思いながらもう一度視線を戻すと、こちらを見つめる彼女と目が合った。

 その視線が妙に暖かく感じられて、頬が熱くなるのを感じる。何だかいたたまれない気持ちになってしまって慌てて視線を逸らす。彼女がまたくすりと笑う声を聞いた。

 ああ。いっそ、紅茶の中に放り込んだ角砂糖の様に溶けてしまいたい気分だわ!


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