34.懐郷の夜光
手紙が来た。
何度かやり取りをした。私の身を案じるそれは不器用ながらも、確かに愛情を感じられた。
封をするのに使われている蝋印は全部レミントン男爵家のもの。そのほとんどが母からのものだったけど、一通だけ、違うものもあった。母の柔らかい筆跡と違い、少し固い、男性の文字。父の字だった。
何度中身を読み返しても変わらず、便箋の中に書かれているのはお父様と王家との間で交わされたオスカー様との婚約解消についてのやり取り。
デュランド伯爵家の家名の返還の経緯と、レミントン男爵家の家名を名乗ることについて。そして今回の件で両家の間に金銭的やり取りはなく円満に終わったこと。この辺りは、尽力してくれたオスカー様に感謝しかないわね。
堅苦しい言い回しで綴られた父からの手紙は、お前の考えがわからないと。今後の処遇について話がしたいと。そう記されていた。
いっそ突き放してしまえばいいのに。わざわざ屋敷に呼び戻さずとも、一方的に通達することだって出来たのにお父様はそれをしなかった。私とオスカー様がそうだったように、紙切れに名前を書くだけで他人にだってなれるのに。
それをしないのはお父様なりの優しさかしら? それとも何か別の考えがあるのか。いずれにせよ会ってみなければ話は始まらない。手紙の返信にイエスと書き記し返送したのはもう数日前になる。
その後はとんとん拍子に予定が決まって、屋敷に顔を出す日取りが決まった。迎えの馬車を出してくれるらしい。その、屋敷へ行く日が今日なわけだけど。
広げていた手紙を化粧箱に直し、それを引き出しの奥にしまい込む。
雨に紛れて馬のいななきが聞こえた。いくつも水滴が流れる窓を覗き込めば外には馬車が一台止まっている。時計を見れば調度約束の時間になったところで。
ゆっくりと息を整えて立ち上がる。扉を開け、見慣れてしまった階段を下りれば玄関でアニーが執事を出迎えていた。まだこちらに来てそんなに経っていないはずなのに、懐かしい気がする。彼は伯爵になる以前より屋敷に仕えていた執事だ。
「お久しゅうございます、お嬢様」
「ええ。久しぶりね」
まだ、そう呼んでくれるのね。ずっとお父様の傍にいるあなたに、再びそう呼ばれるとは思わなかった。彼が恭しく頭を下げるものだからつい苦笑してしまった。
彼が来てくれたということは、お父様はそんなにお怒りではないのかしら? てっきり縁を切られたと思っていたもの。いえ、少なくともあの時はそうしたいと思っていたでしょうけど。
なんの相談もせずにオスカー様との婚約を解消して、その結果爵位の返還に至ったわけだし。でも話がしたいってことは何かしら思うところがあるのでしょうね。
「それじゃあ、行ってくるわ」
「あの、やっぱり私も」
「大丈夫よ。留守をよろしく、アニー」
屋敷の方に顔を出すと伝えた時もそうだったけど、付いて来ると言ったアニーには残ってもらう。屋敷に戻るだけなのに、わざわざメイドを連れていく必要もないと思っただけ。
それに。私としてはちょっと屋敷の方に顔を出しに行くだけで、この家に帰って来ないつもりなんてないもの。それは、お母様とお話した時と変わらない。
執事の彼に促され雨音が響く扉の向こう側へと踏み出せば、御者がこちらへ傘を傾けてくれた。降り注ぐ冷たい雫から逃れながら馬車に乗り込めば、しばらくの間縁遠くなっていた手狭な空間が目の前に広がった。
執事が乗り込むのを確認して扉が閉められ、馬の鳴き声が一つ聞こえてから窓の景色が流れ始める。ああ、そうだったわ。馬車って揺れるんだった。これでも昔よりはかなり技術革新したらしいわ。まぁ、それでも長距離を歩くよりはマシという程度の乗り心地なのよね。
馬車の改良よりも道路の石畳を何とかした方がいいと思うのだけど、誰か言わないのかしら? 言わないでしょうね。石畳を引っぺがして敷き直すなんて途方もない財源と人材がいるもの。
そんなことを考えながら目を閉じて深呼吸をしていれば、あっと言う間に目的地にたどり着いてしまった。
屋敷の前に止まった馬車を降りると、足元の水たまりでぱしゃりと水が跳ねる。
約二か月振りに見上げた屋敷は特別変わった様子もなく、記憶のままの外観で迎えてくれた。
入り口までの短い距離を歩き終えると、中から一人のメイドが出てきた。荷物を預かろうとしてくれたようだけど、ほとんど手ぶらで来てしまっているし遠慮しておく。代わりに彼女が私の姿を見て納得したように頷いて、ゆっくりどうぞ、と微笑んだ。
執事の案内で応接室に入ると、そこにはお父様が座っている。
厳めしい表情をした、厳格という言葉が服を着ているような人だと思う。昔は、花を育てるのが好きな穏やかな人だった。今の姿からは想像できないわね。
デュランド伯爵になって皆変わってしまった。昔のように穏やかな顔もなりを潜め、いつだって切羽詰まったような心持ちでいた。では、肩書がデュランド伯爵からレミントン男爵に戻った今は?
「お久しぶりです。お父様」
「ああ。掛けなさい」
勧められるままに向かい合って座れば、静かにメイドが紅茶を配膳してくれる。お父様は私を見て一瞬眉根を寄せたあと、手元にあったカップを手に取り、紅茶を一口飲んだ。
お互いの間に沈黙が訪れる。この屋敷の使用人はお茶の準備を終えたらすぐに退席してしまった。お父様と二人きり。本来なら気まずいはずの状況なのに、不思議と居心地の悪さは感じなかった。
「元気そうだな」
先に切り出したのはお父様の方。
久しぶりに会った娘にかける言葉にしては随分素っ気なく聞こえる。まぁ、私が屋敷を出る前と何も変わらないわね。
いえ、違うわね。少し痩せたかしら。
元々肉付きが良い方ではなかったけれど、今の彼は以前よりもずっと細く見える。目の下に隈が出来ているのは寝不足のせい? それとも仕事が忙しかったのかしら。どちらにせよ。私のせい、かしらね。
「お前は何がしたいんだ」
それは責める、というよりは本当に困惑に近い声色だった。
何が、と言われると少し困ってしまう。全くの無計画というわけではないけれど、目指す場所が決まっているわけではなかった。ただ、わからなくなったの。
確かに、お父様たちと同じことを願っていたはずだった。取り巻く環境がどんなに変わっても、家族が幸せを願っていた。幸せを、願われていた。
それと同時に、オスカー様にも私は私のままでいて欲しいと。ダメ押しの様にハンス様には笑っていて欲しいと願われた。
なんだか、よくわからなくなったの。たくさんのことを願われて、私自身が本当は何を願っていたのか。一体どれが本当の願いなのか、わからなくなってしまった。
「オスカー様との婚約の解消は、お互いの感情が同じではないと気付いたからです」
最初は他の貴族の娘を侍らせているオスカー様が憎くて、でも本当は私じゃない私をずっと見ていた人で。
何なら他の貴族の娘たちの未来のことも真剣に考えていた人で。オスカー様は私の大嫌いで大好きだった人。
「ハンス様とはずっとオスカー様のことを相談にのっていただいていたんです」
私に笑ってほしいと願ったハンス様は、口下手で、余計なことは言うのに本当に言って欲しい言葉は中々言ってくれない人だった。
けど。あの人に話を聞いてもらっていたおかげで、自分が本当に思いに気付けたし、多分今の私に一番必要な人。
「この屋敷に戻らないのは、私が思う幸せと、あなたたちが思う幸せが変わってしまったから」
嫌いになったわけじゃない。今でも大切に思っている。でも、あのままじゃ私だけじゃなくお父様とお母様もきっと苦しいままだわ。
全部、私のことを大切にしてくれていて、それがわかって、嬉しいのだけど。それだけじゃダメなのよ。
「それが、お前の考えか?」
「はい」
お父様の顔は、相変わらず険しいままだった。
厳しい顔をしているのに、どこか心配そうな色が滲んでいるようにも見えて。こんな時なのに、不謹慎かもしれないけど、嬉しくなってしまった。お母様も優しいけど、ずっと不安そうなお顔ばかりされていたわ。
大きなため息を一つ吐き出して、お父様は紅茶に手を伸ばした。それに倣うように口を付けたティーカップの中の液体はすっかり冷めており、そういえば家で出る紅茶は少しだけ覚まして出されていたのを思い出した。そういえば、お父様は熱いのが苦手だったわね。
「パミラから聞いたが、あの家で暮らしていくつもりなのか?」
「はい。私なりの方法で幸せになってみます。だから、お父様とお母様も別の方法で幸せになってください」
そう告げると、お父様は苦虫を噛み潰したような表情でまた一つ大きく溜息を吐いて、わかった、と小さく呟いた。
よかった。これで、もう大丈夫。お父様は渋い顔のままだけど、きっと何とかなるはず。だって、お父様は本当はとても優しくて素敵な人だから。
本当は少しだけ寂しい気持ちもある。でも屋敷に戻ってきても、本当に戻りたかった場所はもうない。幼いあの日には帰れない。だから、きっとこれでいい。
ここ数ヶ月でいろんな人を見て、いろんな考えを知った。それでいいと思えた。恋とか愛とか幸せとか。実はまだちゃんとわかっていない部分もある。でも、今度はちゃんと飲み込んでいける。
幼い頃に夢見た幸せな暮らしとは少し違うかもしれないけど、きっと幸せになれる。
そんな根拠のない自信を胸の中に携えて、大好きなお父様に向けて心配させないように笑いかけた。




