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33.塞鴻に旭光

ハンス視点


「あなたのことが──」


 そう言いかけたあの人の顔は酷く歪んでいて、今にも泣きそうだった。

 思わず手を伸ばしたくなる衝動を堪える。触れてはいけない。触れる資格なんて無い。

 雨の音がやけに大きく聞こえる。雨足が強くなって、風も出てきた。窓を叩く雨粒は大きくて、空は暗い。


 悲しげにも見える笑顔で、見ているこっちまで苦しくなった。

 そうじゃない。そんな顔をしてほしいわけじゃないんだ。見たいのは泣き顔なんかじゃなくて、俺はただ彼女に笑っていてほしくて。そのため俺は今まで得意でもない事務仕事に精を出して、彼女が笑って暮らせるように陰ながら支えられればいいと思っていたのに。

 彼女が言いかけたその言葉はまるで……。ダメだ、それはいけない。

 彼女の今の暮らしは俺が唆したからだ。彼女は本当なら自分ではない誰かの隣で、幸せになっているべき人だった。俺がそれを壊してしまった。結局、俺はいつも同じ過ちを繰り返す。このままでは俺はまた、彼女を傷付けてしまう。


「……すみません」


 絞り出すような声で、やっとそれだけ言った。

 どうして謝られたのか、きっと彼女にはわかっていないだろう。それでもいいと思った。彼女が困ったような顔をしている。

 これは俺のせいなんだ。俺のせいでそんな顔をさせている。もう終わりにしよう。これ以上はダメだ。この人にはもっと相応しい相手がいるはずだ。


「俺のことは気にしないでください」


 ただ彼女が好きだった。それだけでよかった。


「もう、ここには来ないようにします」

「私のこと、嫌いになった?」

「あなたに迷惑をかけたくないんです」

「そんなこと思ってないわ」


 雨はまだ止みそうもない。

 ずっと、考えていた。俺はただ、あの人に笑って暮らして欲しかった。それだけを願っていただけなのに。隣にいるのは自分じゃなくてもいい。俺と居るより、別の誰かと一緒の方がきっとこの人は幸せになれるんじゃないか。

 シャルロットが嬢好きだ。この気持ちは変わらないし変えられない。幸せになってほしいとも思っている。以前一度、彼女の境遇に耐え兼ねてつい無謀にも口に出してしまったが、自分はこの人を幸せに出来るのかは定かではない。


「ねぇ、ハンス様」


 名前を呼ばれてはっとする。考え事をしていたせいか、少し反応が遅れてしまった。


「ハンス様は、私を好きでいてくれているのよね?」

「……えぇ、まぁ」

「じゃあ、どうして距離を置きたいというの?」


 真っ直ぐにこちらを見る瞳が眩しくて、思わず目を逸らす。

 穏やかに、笑って暮らしてくれればそれでよかったはずなのに。シャルロット孃と話す機会が増えて欲が出てしまった。何度も自分に言い聞かせたはずなのに、それ以上を望んでしまった。話が出来るだけで、満足していればよかったのに。


「あなたと、生きたくなってしまった」


 自分でも驚くほど、声が震えていた。

 少し前までならそう望むことすら許されなかった。だから、あの人が笑ってくれるまで。その間だけでいい。お傍で支えようと、聞き分けのいいフリをしていようと思っていた。

 今まではそうして、いくらでも諦めるための言い訳が出来た。でも今は、触れることが許される場所に彼女がいる。触れてしまえる距離に彼女がいる。


「あなたに、触れたい」

「……」

「でも、できない」

「どうして?」


 理由なんて簡単だ。自信がないんだ。

 一方的に思うだけでいいと思っていた。その先なんて望んでいなかったから、あなたを幸せにする自信がない。そんな未来創造したこともなかった。


 実際俺よりも、婚約を破棄した後のオスカー様との方がずっといい関係を築いているだろう。目の前でそんな二人の関係を見せられて、自分がと言い出せるほど思い上がってもいない。

 あの時ずっと抱えて生きていくつもりだった感情を口走ったのは、オスカー様がシャルロット孃を顧みなかったからだ。だから自分がと思った。けれど二人の関係が改善されたなら、もう、自分の付け入る隙なんて無いだろう。

 だから。


「俺では、あなたを幸せにできないんです」


 正直に告げた。

 これで終わりにしよう。俺はただ、あなたの笑った顔が見られればいい。そのためなら何でもしようと思っていた。もしこの気持ちを否定されるならそれはそれでよかった。でも彼女はそうなかった。


「ハンス様」


 シャルロットは、静かに俺の名前を呼んだ。そして俺を見据えると、どうしようもないものを見るように、まるで子供に向けるかのように微笑みかけた。

 彼女は変わったと思う。よく笑うようになった。以前のような無理をした笑顔じゃなくて、もっと自然な、それでいて柔らかな。それはいいことだ。そうなって欲しいと願っていたんだ。

 彼女はゆっくりと俺の名前を呼んだ後、そっと息を吐きだすように口を開く。


「難儀な人ね」


 おかしなものを見るように。聞き分けの悪い子供を諭すように、彼女は笑った。


「悩みとばかり付き合っていないで私と付き合いなさいよ」


 彼女の言葉の意味がわからなくて、何も言えなかった。シャルロットは少し呆れたような顔をしている。

 何を言っているんだろう。あなたは俺にこたえるつもりがないんじゃなかったのか。なのに、どうして。俺が戸惑っていると、彼女は小さくため息を吐いた。その言葉の真意を知りたくて、思わず彼女を見る。彼女の表情はどこか悲しげで、それでも口元は柔らかく弧を描いていた。

言葉が出てこない。何か言わなければと思っているのに、喉の奥が詰まったようで上手く音にならない。



「ねぇ、あなたから見ても私が不幸せに見える?」

「いえ、そんなことは……」


 なんとか絞り出すようにして、吐き出した言葉はなんとも情けないものだった。

 確かにシャルロット孃は以前より表情豊かになったと思う。だが、以前よりは不都合の多い生活を強いられているのは確かだろう。

 その全てが悪いことかと言われればそうではないのかもしれないが、外から見る分には彼女の言う通りに見えてしまうのかもしれない。そしてそう彼女が言うということは、そういう言葉を誰かに投げかけられたか。


「だって、私が幸せじゃないって決めつけてるでしょ」

「それは、俺ではだめだと」


 彼女の俺を見る目は、相変わらず優しいままだ。


「私、待っていたのよ。あなたがもう一度この手を取りたいって言ってくれるの」


 何も考えずに、その手を取ってしまいたかった。

 そんな言葉、投げかけられるわけがないと思っていた。確かに俺と彼女は他の、彼女を遠巻きに見ていた貴族たちよりは近い位置にいるといってもいい。

 でも、だが。彼女は。俺の気持ちには答えられないと言っていた。それがなぜ。どういう心境の変化なのか。

 俺との話をする中で、何か変わるものがあったのか。なんて、自惚れてしまいそうになる。


「でもあなたは言ってくれなかった」

「言えないでしょう。そんな無責任なこと」

「私に自棄になるのを勧めたくせに?」

「それは……すみません」


 素直に謝るとシャルロットがくすりと笑い声を漏らした。どうやらからかわれたらしい。


「ずっと考えていたのよ。もう一度あなたが私を求めてくれたら、私の中にあるあなたへの感情が何なのかわかるんじゃないかって」


 穏やかな口調で彼女は囁く。心臓がどきりと大きく音を立てた。

 勘違いしてしまいそうだ。自分に都合のいい夢を見ているのではないかと錯覚しそうになる。だが同時に、嫌な予感もしていた。シャルロットがこちらを見て、優しく微笑む。

 駄目だ。その先は言わせてはいけなかった。きっと今ならまだ引き返せる。だから。お願いだから、それ以上俺を喜ばせるようなことを言うのは止めてくれ。


「私だって、まだ心が決まったわけじゃないわ。不安もある。でも、あなたに手を取ってほしい」


 そう言ったシャルロットは、少し照れくさそうに笑う。

 どうしようもなく愛おしいと思った。俺はあなたの隣にいてもいいのだろうか。あなたが望んでくれるなら、俺は。胸が熱くなる。思わず手を伸ばしたくなった。けれど、伸ばしてもいいのかわからなくて、結局中途半端に腕を上げたところで止まってしまう。


「もう一度言うわ」


 俺の様子を見た彼女は苦笑交じりに呟いた。


「あなたのことを教えて?」


 雨の音が嫌に耳に付く。静寂に包まれた部屋で、彼女がじっとこちらを見つめていた。

 あなたが好きだと思う。多分出会った時から。

 あなたの隣にいたいと思う。これからもずっと。許される限りは。

 あなたが俺を選んでくれて嬉しい。あなたが俺の言葉を聞いて笑っていてくれるのが幸せだ。


「あなたが思っていること、感じていることを私も知りたいの」


 その手を取りたい。取ってしまえば自分はもとより彼女がどうなるのか。その先で、彼女は笑えるのか。自分に彼女を幸せに出来るのか。けど、でも。

 叶うのなら、願うのなら。あなたとずっと一緒に。

 白く細いシャルロット孃の手がこちらに向けられる。この家に移ってから増えたであろう水仕事に少しだけ荒れた指先が痛々しい。でも彼女がこの傷さえも肯定して、俺に手を伸ばしてくれるのなら。


 息を飲む。自分のものとはまた違う温もりがそこにはあった。

 ローテーブルの上に乗り出して中途半端に腰を浮かした俺を見て、シャルロット孃がおかしそうに笑った。


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