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32.望楼と月光


 随分と単純と言うか、扱いやすいというか。ちょっと自分で自分が心配になっているんだけど、数日前にエルザさんと話して以来とても気分がいい。

 わかってはいるのよ? 今まで苦手意識を持っていた相手に貰った言葉でこんなにも気分良くなっているのは、ちょっとどころかかなりちょろいんじゃないかって。

 今までなら言葉尻をとらえて、何か裏があるんじゃないかって勘ぐっていた。今だってその性格が治ったわけじゃない。でも彼女の何気ない言葉に子供みたいに安心している私がいるのも確かなの。

 大丈夫だと、言ってもらえたようで。この気持ちもきっと報われると、信じてもらえたようで嬉しかったの。ある意味無責任で根拠のない言葉ではあったけど、そういうものがずっと欲しかった。


 向いていないのはわかっていたわ。それでもハンス様の言葉を借りて自棄になってみたかったのも、きっと背中を押して欲しかったのだわ。あと一歩が踏み出せない臆病な私の手を引いて欲しかった。

 なんて、ちょっと他力本願が過ぎるわね。もっと自分で出来ることを増やしていかないといけないのに。


 アニーと二人、朝から家中を掃除して一息つく。

 部屋が二つとキッチンリビングしかない小さな家の掃除は二人で手分けすれば事足りる。当初の予定よりも来客が多く意識して掃除の頻度を上げているせいもあって、こちらに来てすぐの時よりもずっと掃除の手際も良くなってきた自覚がある。

 今日だって、この後ハンス様が来られるというからリビングを中心に掃除をしたところで。あいにくの天気で洗濯は出来ないけど、クロスだけでも変えてしまおうかしら。


 この生活には慣れてきたわ。でもこの先どう生きていくか、やりたいことはわからないでいる。

 オスカー様は遠回しながら、働く方法というか道を示してくれている。それは福祉事業の一環でしかないと言えばそれまでだけど、社会的枠組みとして私にも対応出来る受け皿を作くろうとしてくれているのには感謝すべきよね。

 隣に立つ存在としてはお互いに至らないところもあったと思う。その上で私のことを考えてくださっているというのもわかっているの。でも今の私が、それを受け入れられるかと言われればまた別の話で。私は結局、自分のことで精一杯なのよ。


 まぁ、そういった複雑な感情はあるのは確かね。でも今はそこまで悪い感情はないのよ。時々ちょっとイラっとしたりするけど。

 でもそうね。以前よりもずっと話せるようになったのだから、そういうところも含めて、今までとは違う関係をオスカー様と築けていけたらいいなとは思うわ。


 リビングのソファに座り込んでそっと息を吐いた。窓の外では朝からずっと小雨が降り続いている。この間の晴れ間が嘘みたい。

 せめて、ハンス様が来られる間ぐらいは雨脚が弱くなってくれればいいのに。すぐに使うはずのタオルは玄関に用意してある。少し肌寒いし、すぐに暖かい紅茶をお出しできるようにアニーに頼んでおきましょう。

 それから。


 これ以上考えるのはやめておきましょう。なんだかハンス様が来るのが楽しみで浮かれているみたいじゃない。持て成す側だしあれこれ考えておくのは普通のはずなのに、そういう気持ちがあることを自覚した瞬間思考にストップがかかってしまった。

 ああ、嫌だわ。こういうところなのよ私。こう、色々と考えている時にふと我に返ってしまうの。そうして一人で冷静になって、勝手に気持ちが醒めてしまう。こういうところが、私が自棄になるのも恋をするもの下手な原因なんだわ。


 以前はどうしていたかしら。そう考えかけて、あまり当てにならないことを思い出す。

 確かに私はずっとオスカー様が好きだったわ。それしかないって必死に思い込んでいたに過ぎなくても。比べたって仕方がないとわかっている。それにしたって少し感情の起伏が幼過ぎ気もするけど。

 でも確かに恋だった。恋焦がれていた。それだけは真実だったと思いたいの。


 他のどんな感情が作られたものでも、その気持ちだけは確かに私の中に生まれた唯一だったはずだから。そう信じて、思い込まなければいられなかった。

 その時の感情と、今ハンス様に向けている感情は確かに違う。違うから、この気持ちが恋だとか愛だとか、そういう類のものであると言い切れないでいる。いいえ。そう言い切ることで、また間違えた時に苦しむのが嫌なだけだわ。

 何度も言葉が欲しいと望んでしまうのも、きっとそのせいね。一度は直ぐに答えられないなんて言ったくせに、今更手を引いてもらえるのを期待している。繰り返し自分が好きなだけだというハンス様に、あの時の様に私を望んでほしいと。

 本当はわかっているくせに言い訳ばかりが得意な自分に嫌になる。どうなりたいのか、どんな関係を望むのか。本当は全部わかっているくせに。その気持ちを自分が肯定するためにあの人から言わせたいだなんて、欲しがりが過ぎるわ。


 ソファの背持たせに体重を預けて伸びをする。雨はまだ降り続いていた。

 そろそろかしらと思って玄関に向かえばちょうどベルが鳴る。扉を開けるとそこにはハンスの姿があって、思わず笑みがこぼれてしまった。

 いつも通りのしかめっ面。眉間のシワはもう戻らないんじゃないかなんて、失礼なことを考える。


「雨、平気だった?」

「そこまで強くはなかったので」

「そう」


 タオルを差し出しつつ、ハンス様を見上げる。一見して不機嫌にも見える表情が別に怒っているのではないのは承知済み。愛想もなければ、おしゃべりが得意なわけでもない人だけど、悪い人では無い。

 リビングに案内して、アニーにお茶を用意お願いする。座る場所はいつもと同じリビングのソファ。慣れた様子で向かいに座るこの人に、いつも以上に変な気分になるのはさっき変なことを考えていたせいね。

 向かい合って座って、紅茶の香りを楽しんで、雨の音を聞いて。話すのはいつもと同じような近況の報告。


「雨ばかりで気が滅入るわね」

「雨はお嫌いでしたか?」

「嫌いってほどではないけど、晴れていた方が出来ることも多いでしょう?」


 今日だって晴れて入れば洗濯も出来たもの。そう言えば彼の眉が少しだけ上がった。

 まぁ、自分でも以前なら考えられないことを言っている自覚はあるわよ? 少し前まで伯爵令嬢をしていたのに、洗濯ものを気にして天気の話をしているんだもの。彼にとってはおかしなものに見えるでしょうね。

 彼の知る私のほとんどは伯爵令嬢の私だったのだから。それでも彼は、爵位が男爵へと下がっても、この家に移った時でさえ態度が変わらなかった。多少負い目には感じているようね。


「ねぇ。別にもう謙った話し方しなくてもいいのよ?」

「そういうわけには」


 そう言うと、また困ったような顔をされてしまった。

 無理に口調を変えなくともいいけど、子爵子息の彼が男爵令嬢の私に敬語を使うのは余り普通ではないと思うのよ。私の感覚では友人同士であっても、他の者たちがそれをどうとるかはわからない。友人ではない別の関係なら、その限りではないけど。


「俺にとってあなたは」


 ハンスの声は、雨音に紛れてしまいそうなくらい小さい。

 私は彼を見つめて続きを待つ。何を言い淀んでいるのかしら。何かを迷うように視線を彷徨わせていて視線が合わない。

 話して欲しいとは思う。無理に言って欲しいわけじゃないわ。彼が言っていいのか悩んでいるのなら、言いたくなくて公平しているのではないのなら。話してくれるというのであれば聞きたいわ。私はきっと、それがどんなことであれ聞かせてくれるのなら。


 少しの間、沈黙が流れる。ハンスは相変わらずこちらを見てくれない。ただじっと見つめて待っていると、諦めたかのように息を吐いてゆっくりと口を開いた。

 とても、小さな声だった。


「……俺は、あなたが好きなんです」

「うん」

「だから、そんな風に言わないでください。そうじゃなきゃ、まるで……」


 その先の言葉をハンスは口にしなかったけれど、何を考えているのかはよくわかる。わかっていて言わせようとしている。自分からは言わないくせに。本当に酷いのは私の方ね。

 やっと目が合ったハンス様はとても苦しそうな表情をしている。あなたがそんな顔するから、私はつい期待してしまうのよ。


「ねぇ、ハンス様」


 もし、もしよ? 私が乞えば、あなたは応えてくれるのかしら。

 自分自身を棚に上げて何を言っているのかって思われるかもしれない。でもまた繰り返すのは怖いの。思い込んでいなきゃ自分を保てないのは辛いの。今度は間違えない様に、確かな言葉が欲しい。


「私は、あなたのことが知りたい」


 踏み込めば、きっと何もかも変わってしまう。今のままじゃいられない。変えてしまいたい。この人となら、いつか失くした何かを取り戻せるかもしれない。

 ハンスは何も答えないまま、ただ私を見つめている。今、自分がどんな表情でいるのかはわからない。不安なのか期待しているのかそれとも、また別の表情なのか。

 静かに降り続ける雨の音だけ嫌に耳に残った。


「あなたが何を考えていて、何を感じているのか」


 本当はとても怖い。冗談だって言って、からかったふりをすればこの人は笑ってくれる?それとも、私を遠ざけてしまうのかしら。一度口から出てしまったら、取り返しなんてつかないのにそんなことばかり考えてしまう。

 震える指先を握りしめて息を吸う。


「教えてください、ハンス様」


 早鐘を打つ胸を中を無視して見つめた彼は、相変わらず眉間にシワを刻んだまま。

 ねぇ、その表情は何なの? 拒絶? それとも呆れられているの? あぁ、お願いだから何か言ってほしい。あなたが何も言ってくれないと、私が言わなきゃいけなくなっているのよ?

 坂道を転がり落ちる石って、きっとこんな気持ちなのね。止まりたいのに 止まれない。今止まってしまったら余計辛い。


「私、多分きっと」


 息が詰まる。

 無理矢理呑み込んだ空気に音を乗せるのはとても苦しくて。何度も肺の中に戻りそうになるのをやっとの思いで押し出した。


「あなたのことが──」


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