30.愁雲に斜光
今日はお母様が家に来るので、朝から準備を進めていた。
相変わらず天気は曇りで少し肌寒いかもしれないし、羽織れるものを傍において置いたり。後、決して高価ではないけれどちょっとした茶菓子を取り寄せたり。
何を話すかある程度考えているし何を聞かれるかもなんとなく予想は出来るのだけども、いざとなると緊張してうまく話せない気がする。
準備を終えて一息ついた頃玄関のベルが鳴る音が聞こえた。
椅子に掛けていた上着を軽く羽織りながら扉を開ければ、そこには同じ屋敷に暮らしていた時よりも少し痩せたお母様がいる。気苦労が多いのでしょうね。その原因が自分だとわかっているから余計に申し訳なくなる。
どうぞ中へ入ってもらい、アニーがお茶を用意している間ソファーに座ってもらう。紅茶の入ったカップが私とお母様の前に置かれた。アニーには悪いけれど、話をしている間はキッチンの方に控えてもらう予定。
私達の間に沈黙が流れる。お母様は何を話したらいいのかわからない様子だし、私の方もこれと言って話題がない。
恐る恐る近況を話すことから始まった奇妙な親子の会話はなんともぎこちないものだった。
「この間も聞いたけど、ちゃんと暮らしいるのよね?」
「ええ。アニーもいますし、少しずつですが周りに目を向ける余裕も出て来ました」
私の言葉を聞いたお母様は安心したような表情を浮かべる。心配を掛けてしまっていたみたいだわ。それから私が今どんな生活をしていて、どんなものを見聞きしているかをなんとなく話していく。それにお母様も、覇気こそないものの相槌を打ちながら聞いている。
そんなに気にしなくてもいいのにオスカー様やハンス様が定期的にカードを送ってくれたり顔を見せに来てくれたりしていること。少しずつだけどこの生活にも慣れてきたこと。近況はそんなところ。
「ねぇシャルロット」
お母様が私を真っ直ぐ見ている。
少し不安そうな、切羽詰まったような顔で。多分次に出てくる言葉が今日お母様がここに来た理由なんでしょうね。
「屋敷に戻っておいでなさい」
「お母様」
「心配なのよ。あなたがちゃんと暮らしているのはわかったけど、ずっとここで暮らすなんて出来ないってあなたもわかっているでしょう?」
お母様のお言葉は最もだわ。
今すぐに、と言うわけではないけれど、いずれ必ず立ち行かなくなる時が来る。ずっとこのままというわけにはいかない。そんなのわかっている。
心配してもらえるのは有り難いと思う。でも、それをもう少し早く向けて欲しかったなんて理不尽な感情を抱えてもいる。どうして私ってこんなにも何もかもが遅いのかしら。
「あの人には私から話をするわ。だから」
わかってはいるのよ。私たちの根本にあったのは皆同じだったって。お互いを守りたいだけだったんだって。それなのにいつの間にかそれが歪んでしまった。
お父様も話せばきっとわかってくれるはず。そういう風に、私も願っていたわ。でも今まで出来なかったのに、今になって突然出来る様になるわけないもの。
ゆっくりと息を吸う。お母様の仰ることもわかってはいるのよ。ばらばらになってしまった今までを後悔しているのも。自分たちなりの方法で守ろうとしていたことも。
でも。話し合いで戻れるほど近い距離にはもういない。
「ごめんなさい、お母様」
私の返事を聞いて、お母様はとても悲しげな顔をした。
そんな表情をしてほしくなくて、それでもこの決断を変えるなんて出来ないから苦しくて申し訳ない気持ちになる。
私だって戻れるなら戻りたい。けれどあの頃に戻るには遠すぎる。
「屋敷に帰るつもりはありません」
「……どうしても、なのね?」
「はい。すみません」
お母様が手を伸ばして私の頬に触れる。私の知っている頃よりもずっと細く小さくなってしまった手は、あの頃と変わらず優しい温もりをしていた。私の頬に自分の手を添えたお母様は優しく微笑む。少し胸が痛くなる。
いつだって戻りたかったのはまだ何も知らなかったあの頃。目に映るもの全てがきらきらと輝いていた。
そう、確か。あの頃住んでいた家は、この家くらいの大きさだった。大人二人と子供が一人暮らすには十分な大きさで、通いで来る執事とメイドが一人ずつ。家の周りにはほんの少し土いじりが出来るような庭があるだけの貴族が住むようなお屋敷とは程遠いような家。
華やかさはなかったけれど、とても幸せだった。
それが、私たちの失ったもの。そして見栄や虚勢の末に残ったのが、同じものを大切にしていたはずなのにバラバラになってしまった今の姿なのだから笑えない話だと思う。
「ねえ、シャルロット」
お母様の声に意識を引き戻す。私を見つめるお母様の目はどこか寂しそうだわ。
「なんです? お母様」
問い掛ければ困ったように笑う。言い淀んでいるお母様の言葉を私はただ待っている。
つい数ヶ月前まではこんなふうに話をしようなんて思いもしなかった。話しかけたってきっと……いいえ、やめておきましょう。今はもうそうじゃない。
こうして穏やかに会話が出来ている。今はそれだけでいいじゃない。
「あなたは、やりたいことがあるのかしらと思って」
「……どうしたんです急に?」
「いえ、この間言っていたでしょう? 何か、始められそう?」
「そう、ですね。今はまだ何も」
お母様は少し残念そうな表情をしている。
心配してくれているのはわかるけど、今すぐと言われても特に何も浮かんではこない。そもそも、この暮らしもまだ始めたばかりなんだから。
「無理だと思ったらいつでも戻っていらっしゃい」
お母様は優しい声で諭すような口調で言う。
「私もあの人も、あなたに幸せになってほしいだけなの」
多分きっとこれは本心。
私もそうだった。お父様とお母様にまたあの頃のように笑ってほしくて、自分が一つ間違えば二人を道連れに転がり落ちてしまう世界にいるのが恐ろしくて。ただ、家族に幸せになってほしかった。
あぁ、本当に笑えない。
もう戻れないのに。
「正直、今までとは勝手が違い過ぎて戸惑うことは多いし、アニーに負担をかけてばかりだと思います」
「だったら」
気持ちが分かる、とは言わない。でもお母様が本当に私を想ってくれているのだけは理解できる。
だからこそ。
「私は、戻りません」
戻るべきではないのよ。
こうやって話が出来るのも屋敷を出て自分のことも、お母様のことも考える余裕が出てきた。今屋敷に戻ってしまえば、きっとうまくいかなくなってしまう。意地を張らせてほしいの。
「私の幸せを願うのなら、どうか今はこのまま見守っていてください」
お母様ことは大好きよ。でも一緒にいてもきっと苦しいだけだわ。だから、違う道で幸せになりましょう。
そのためにもう少し方法を探す時間を頂戴。
「家族が一緒にいられないのは不幸なことだわ」
お母様は俯きながら呟く。そうね、少し前の私ならきっとそうだと頷いていたでしょう。でもね、今の私は違う幸せの探し方を知ってしまったの。
あまり好きになれない人だったけど、何もかも遠ざけて時間を置く方法を提示してくれた人がいたのよ。彼女は彼女なりの方法で幸せになろうとした。その結果を私は知る術はないけれど、あの人のおかげで名前を付けることの出来た感情は多い。
悲しそうな顔をする目の前にいる人に今度こそちゃんとした笑顔を向ける。
「私ってそんなに不幸せそうに見える?」
今の生活を私は悪くないと感じている。お母様がこの気持ちを理解してくれるかはわからない。いっそ理解されなくても構わない。私だってお母様の全部を分かっている訳じゃないもの。
「私は、」
言葉を探しあぐねているお母様を見る。お母様から見た私はどんな姿なのかしら。
きっとお母様が想像しているよりもずっと私は自分勝手に生きていると思うわ。でも、もう少しだけここにいたいのよ。
「大好きよ、お母様」
「私もよ、シャルロット」
結局。お母様はあまり納得しないまま、それでもそれ以上屋敷に戻る様に言わずに帰っていった。
玄関から見送ったお母様の乗る馬車はどんよりと重い曇り空の街に消えていく。少し肌寒くて、気分が落ちるような空だ。
「ねぇアニー。これでよかったのかしら」
ずっと控えてくれていたアニーに声をかければ、彼女は難しい顔を作った。
「わかりません。わかりませんけど……こういうのって、答えはないものだと思います」
「そう。そういうものなのね」
小さく息を吐いた。
きっと彼女の言う通りね。お母様の言っていたように、屋敷に戻らないと私は決めたのだから。
ほんの少しだけ寂しい気持ちもある。けれど私はこれを選んだ。お母様が屋敷に戻ってほしいと願っているのを知りながら。
そう言えばお母様は私が不幸に見えるかって質問には答えてはくれなかったわね。
幸せって何なのかしら。私は別に不幸せではないつもりなのだけど、言い淀んだということはそういう風に見えていたのかもしれない。
周りの人間にどのようにみられているかなんて、もうとっくに諦めていたし、よく見られようなんて思っていなかった。何をどうやっても悪くとらえる人の方が声が大きいし、貴族社会なんてそんなものだと思っていた。
でもやっぱり、お母様にそんな風に思われているというのは少し悲しい気がした。
お母様はこの後どうされるのかしら。お父様には、なんと話されるのかしら。色々考えても仕方がない事ばかり頭に浮かんでくる。
「紅茶、入れなおしましょうか?」
「そうね。お願いしようかしら」
ゆっくりと息を吸い直して頷く。
お母様に不幸せそうに見えているというのは少し悲しいけど、悲しいだけね。それ以上でも、それ以下でもない。
アニーがキッチンへ向かう。私は椅子に座り、窓の外を眺めた。雨が降っていないだけまだマシで、あまりいい天気ではない。この家にきてひと月以上経つけど、まだ慣れたとは言い難いわね。長い間伯爵令嬢として育てられてきたせいもあってか、何もかも自分でするという生活がよくわからなかった。
掃除や洗濯、料理といった家事全般に、買い物、食事の準備。屋敷の方では多くのメイドたちが分担して行っていたことを今は私とアニーの二人きりで行っている。それが少し大変だと感じる時もあるけれど、悪くないと感じている私がいる。
トレイにティーセットを乗せたアニーが帰ってくる。
テーブルに置かれたカップに手際良く琥珀色の液体が注がれていく。湯気の立つカップから紅茶の香りが部屋の中に広がる。
厚い雲に覆われた気分を振り払うようにまだ熱い液体を喉の奥へ流し込むと、気持ちがブレないように少しだけ気合を入れて息を吐き出した。




