3.昨夜未明
今まで見ることのなかった婚約者の後頭部を見下ろしながらため息を吐く。
改めて考えてみればなんというか、妙なことになってしまったなと思う。だってそうでしょう? 今まで自分が死んだ後のことなんて真剣に考えたことなかったわけだし。
つい衝動的にこの浮気男に取り憑いてやろうと思ったわけだけど、何をどうすればこの男を不幸にしてやれるのかしら。
どうせ取り巻きの娘たちをどうこうしたってとっかえひっかえするだけだろうし、あまりダメージを与えられる気がしない。というか、この男の為に色々悩むのもむかつくので私としてはもっと即物的にダメージを与えたいわけよ。
何が楽しいのか昼間っから応接室でべたべたと引っ付く男女の後頭部をひっぱたく。見えていないのをいいことに先ほどからやりたい放題しているのだけど、悲しいことに手のひらはすり抜けるだけで肝心のダメージを与えられていない。
あぁ、本当に。なんでこうなったのかしら。
思い返せばいつだって私はこの人に振り回されてばかりだった。昨日だってそう、何度訴えても応接室にどこぞの娘を連れ込むことをやめないオスカー様にいい加減にしてほしいと感情的になってしまった。
後になって思えば人前で泣き叫ぶような真似、少しはしたなかったと思うわ。でもそれもこれも全部あの人が悪いのよ。
だって私は以前から何度も「やめて欲しい」と訴えてきたもの。それをいつも笑って頷くだけで聞き入れてくれないから、それで私もつい声を荒らげてしまったの。
婚約者である私の前で、別の女性を部屋に連れ込むのはやめて欲しいと。これ以上同じことを繰り返すのなら、いっそのこと婚約を破棄してほしいと。だって私はその他多数の浮気相手でも、心の奥に住む本命にもなれなかったから。
自分でもみっともないとわかっていたけど、私の縋るような訴えにもあの人は一言、笑って「そうか」と言っただけだった。
それを聞いた時、もうダメだなと思ってしまったのよ。何を言っても、この人に私の言葉は届かない。きっと私が何を言ったところで彼の行動は変わらないんだろうなって。
周りに侍らせている娘たちですら本命でないのだから、ただ婚約者という役職であるだけの私の言葉なんて、オスカー様の耳に入っている訳がなかったのよ。
だからもう一度だけ婚約の破棄を申し入れてその場を離れたわ。その時の私はただ、無性に悲しくて仕方がなかった。どうしてこんなことになったのか。どうしてこんな人と婚約してしまったのか。そんな後悔ばかりが胸の中に渦巻いて、気づけば家に帰ってきていた。
そしてそのままベッドの上で泣き腫らして、気の向くままにクッションに八つ当たりして、目が覚めたら幽霊になっていた。
自分の身に一体何が起きたのか最初はさっぱり理解できなかったけれど、とりあえず死んだのだということはわかった。流石にショックだったわね。だって突然自分が死んでいるんですもの。
まるで眠っているような自分の死体に触れてみても、ただすり抜けるだけで体の中に戻れるわけでもなく。結局、家の抱えている医者曰くまだ死んではいなかったけど、このまま何もしなければ眠ったまま死んでいくらしい。
なんだかややこしいけれど、つまりは死ぬ一歩手前の様なものね。そう思ったら何もかもがどうでもよくなった。
煩わしいあれやこれやを全部放り投げて、自分の鬱憤を晴らすためだけに行動する。
なんて気が楽なのかしら。私のために泣いてくれたメイドのアニーには悪いけど、私今が一番気負わなくていい状態にいるのよ。
そう思ったら急に足取りも軽くなったし、実際に浮いて移動できるようにもなってしまった。心は持ちようなんて表現があるわね。死んでからの方が気分が晴れているなんて私ってば本当にどうしようもない人生を歩んできたみたい。齢十七にしてやっと気が付いたわ。
とにかくこうして私は自由になったわけだけど、ここで問題が発生した。
それは何かと言うと、今まで散々自由気ままに振舞ってきたこの男のことよ。まさかここまで女癖の悪い人間だとは思ってなかった。ハンス様との話が終わって部屋に戻ってみれば当たり前のように他所の貴族の娘とべたべたしていて本当に頭にきたわ。
正直、今までの人生で一番怒っているかもしれないくらいに腹が立ったから、思わず後頭部をひっぱたいちゃったのよね。
そう、ひっぱたいたのよ。手を振り上げてそのまま勢いに任せて、思いっきり。まぁ、案の定。振りかぶった手のひらは音も出さずにオスカー様の頭をすり抜けてしまった。こういう時幽霊って不便ね。
もっとこう、わかりやすく即物的に不幸になってほしいというか、死ぬまで行かなくてもいいから目に見えて怪我や不調をきたしてほしいというか。人を呪うのってどうやったらいいのかしら。
私に気付くこともなく身を寄せ合う男女が恨めしい。いっそ呪い殺せれば話は早いのだろうけど、生憎とその方法を私は知らない。オカルトに傾倒する趣味はなかったもの。こんなことになるのならもう少し色々なことに興味を持てばよかった。
思い返してみればオスカー様の婚約者として相応しい振る舞いを、伯爵家の娘として恥じない教養をと。毎日勉強勉強で休む暇も、趣味を作る暇もなかった。他の貴族の娘たちは読書や刺繍を趣味にしていたようだけど、私にとってそれらは教養の範囲からは出なかった。だってそれが貴族の娘としての嗜みですもの。
もちろん恋愛小説を読んだことがないわけではないわ。でもそれだって、私にとっては社交の場に相応しい話題作りの一環にすぎなかったのよ。
生前に碌な思い出がないわね。……でも、私はきっと恵まれていたわ。多くを学ぶ環境も、貴族社会に溶け込むための環境も、与えられてきたもの。
お父様とお母様が必死になってその環境を整えてくれたから今の私がある。娘の死に特別心を動かした様子もなかった。それでも感謝はしているのよ。
私にとって家族とは、両親とは交流が希薄なものだったし、そのことで今更不満もない。私が死んだ後のことを考えれば色々と面倒をかけるとは思うけれど、今までだって何とかなったんだしこれからだって何とかするでしょう。
こんなことを考えているようじゃ、私もあの人たちのことを言えないわね。我がごとながらなんて薄情なのかしら。まともに人とコミュニケーションを取ってこなかった弊害ね。
もし、戻れたら。生き返ることが出来たなら……。ダメね。想像できない。
仲良し家族なんて柄でもないし、今のお父様とお母様がにこにこしている姿なんて想像つかないし、そんな環境私にとっても居心地が悪すぎる。
昔はそんなこともなかった気がするけど、今の私にとってお父様は厳めしい顔で厳格ぶっていて、お母様はツンと澄ました表情をしているものなのよ。それが私たち家族の在り方なの。
だからまぁ、きっと。私が生き返ったとして、もう一度家族と話す機会に恵まれたとしてもその関係は変わらない。多少は私から話しかける回数が増えるかもしれないけど、それだけのことよ。
尊敬はしている。でもそれ以上の感情を抱くことはない。今まで二人が必死に家を守ってきたことは知っている。私がいなくなってもそれは変わらない。私が死んだって、養子なりなんなりで家を守っていく手段はいくらでもあるもの。
だから戻る必要もない。そもそも戻る方法もわからないしね。
さて、話を戻しましょう。 目の前で身を寄せ合う二人を見て私はまたやっているのかと苛立ちを覚えた。人が珍しく感情的になってぶつけた言葉もこの人には響かなかった。どれほど繰り返しても、私の訴えをオスカー様が聞き入れてくれることはなかった。
自分ではそんなつもり全然なかったんだけど、それがショックで死んでしまったなんてちょっと笑っちゃうわよね。私自分はもっと我慢強い女だと思ってたのに。
でもまぁ、死んでしまったものは仕方がないわ。というかこの人、私が死んだって知らないのよね。お父様は隠したがっていたし、しばらくは報告も上げずに今後の作戦を練っているのかしら。
そうなると余計に腹が立ってきたわね。私の状況も知らずにいつもの様に他所の女と逢引きして。
まったく、よくもまぁそこまで堂々とできるものだわ。こんな男のせいで死んでしまった自分が惨めになるじゃない。それもこれもこの男が不誠実な真似ばかりするからいけないのよ。
そうだわ。どうせもう死んでいるのだし、思いっきり嫌な思いをさせてやろうかしら。そうね、そうしましょう。そうしないと気が済まないわ。そうと決まればこの男に復讐してやらないと。
でも何をしようかしら。考え始めた私は気が付いた。
試しに彼の頬をつねってみた。相変わらず手応えはないし、感覚があるようなないような、酷く曖昧な状態だ。これでどうしろと?
そう言えば幽霊って人に取り憑いたりするんじゃなかったかしら。じゃあ、このままこの男の身体に憑依すればいいのね。出来るかどうかは別として、手っ取り早くこの男を不幸にするにはそれがいいかも。
さっそく実行しようと試みるものの、一向に上手くいかない。何度か挑戦しているうちに頭がくらくらしてきた。これは無理ね。
ため息と共に手足を投げ出して楽な体勢を取る。すっかり空中浮遊にも慣れたけど、感覚的にはバスタブに浮かんでいる感じに近い。
なんだか疲れた。
結局、私は生前と変わらず何も変わっていないのね。出来ることなんてほとんどない。見ていることしか出来ない。
どうせならもっと派手に死んでおけばよかった。そうすればもっと周りを巻き込んで、大きな騒ぎになって、この浮気男もほんの少しくらいは私に興味を持ったかもね。
なんにしても中途半端な状態でこうして彷徨う羽目になっているのだから本当に困った話だわ。いっそ、このまま消えてもいいのだけど、どうしたら消えることが出来るのかも分からないのよねぇ……。
肉体の方が完全に死んだら、この私も消えるのかしら? それともこの幽霊の方の私はずっとこのまま?
なんだっていいけど自由って案外つまらないものね。殆どの人に見えていないからなんだってできる。でも誰とも話すことは出来ないし何にも触れない。唯一私のことが見えて話しが出来る男は野暮天だし。この先どうしようかしら。
オリバー様の肩に付いていた埃を指先で弾く。半透明に透けている指先は埃一つ満足に払えずにすり抜けていった。思わず苦笑が漏れる。これじゃあ、ただの嫌がらせも出来やしない。
こんなことならちゃんと生きている内に嫌がらせをしておいた方が良かったかもしれないわ。別に生き返りたいわけでもないけど。そもそも生き返り方とかわからない。
でもこうなってしまった以上、私はこれから一体どうしていけばいいんだろう。生き返り方を探すのか、幽霊のままで生きていくのか。
そこまで考えてなんだか馬鹿らしくなってしまった。なんで私死んでまでこの先のこと考えているのかしら。幽霊になったのだからあとはもう好きにすればいいじゃない。お腹がすくわけでも、これ以上死ぬわけでもないんだから。
だったらもう、後は当初の目的に戻ってこの浮気男を不幸にするために取り憑いてやるだけね。今まで私の人生を散々なものにしてくれたんだから、これからは私が嫌がらせをしてすっきりさせてもらう番だわ。
そう急に気分も軽くなった。ならここは景気付けというやつをやるべきかしら。
軽く深呼吸をして、目の前にある後頭部を目掛けて右腕を振りかぶる。
勢い良く振り回した手のひらは、案の定音もなくすり抜けた。