29.長雨と灯光
雨音だけを共にページを捲る。
適当に手にした詩集はなんとなく広げているだけで特に読んでいるわけではないし、特に意味はない。
それにこの本だって別に好きなわけじゃなくて、家を出る時に紛れてきた物。有名な詩集でいくつかは教養の一つとして諳んじることは出来るけど、本当にそれだけ。
ぼんやりとした雨の日の午後。昨日の夜から降り続いている雨は今日の昼を回っても止みそうにない。外に出る用事もないしいいけれど雨季の長雨と言うのは少し肌寒い。窓の外の景色も輪郭がぼやけていて色味がないように見えた。
内容が頭に入っているわけでもないのに詩集のページをまた一枚、捲ってみる。
雨の時期は好きだった。
面倒で嫌な思いをするだけの社交の場もお休みのシーズンだし、誰にも咎められずに少し自分らしくいられた気がしたの。次の季節に使うドレスの採寸だとか、教養を高めるための勉強とかで、休みの日の過ごし方は上手ではなかったけど。
それでも。無理に笑顔を張り付けて、どの辺りが違うのかもわからない流行りの服や、コルセットで絞められて味のしない料理の話をしながら陰口を無視する日々よりはずっと気が楽だったの。
まぁ。もうそんな場所にも呼ばれないだろうし、気にする必要もなくなったわね。
そう、気負う必要もなくなったのよ。なのに、どうして気だるげ気分でいるかと言うと、原因は今朝届いた一通の手紙にある。
封には懐かしいレミントン男爵家の蝋印がされており、あまり見慣れない筆跡でお母様の名前が記されている。あの人、こんな字を書くのね。なんて、余計な思考をしている内は良かった。
手紙の内容は簡単に言うなら一度この家に来て話がしたいらしい。そしてそれに対する許可を求めるものだった。
来るのは構わないのよ。でも一体どんな顔をして会えばいいのかしら。そもそも私に会いたいと言ってきた理由もよくわからない。
第一に私は家を追い出されたような立場だし、婚姻前の娘が家を追われるって実質縁切りでしょう? この間教会でお話出来たのだって、ある意味お目こぼしを頂いたようなものだと思っていたのよ。だから今後はそういう幸運はないだろうって。
気にかけて頂いているのなら、それはとても有難いと思うわ。でも、この暮らしを辞めるよう言われるのかもしれないと思うと少し気が重い。
ここ数ヶ月で随分と私を取り巻く環境も心境も変わってしまった。
屋敷を出たのもそうだけど、郊外の一軒家でアニーと暮らすようになり身の回りの世話を自分でするようになったわ。
屋敷で伯爵令嬢をしていた頃は何もかも世話をしてくれるメイドたちがいた。でも今はそういうわけにはいかない。少しずつだけど自分で出来る様になってきて、大変ではあるけれどこれはこれで楽しいと思えるようになったの。
それが、お母様がこの家に来ることで変わってしまうかもしれないと思うと、憂鬱な気分になってしまう。
もちろん。このまま凝らしていてもアニーの負担が大きいのもわかっているのよ。簡単な掃除は出来るようになったけど、流石に料理は出来ないし彼女に頼りっきりになっている。
不安と言えば、暮らしていくにはお金についても考えないといけないわ。何もしないままではいずれ立ち行かなくなる。なんとかしなくてはという焦りもある。それでもこの家での生活が楽しいという気持ちも確かにあるの。だから、もう少しこのままでいたいと思う。
ことりと、テーブルの端にティーカップが置かれる。この香りは先日オスカー様に頂いたものね。
対して読んでいない詩集から顔を上げれば笑顔のアニーと目が合う。何だか嬉しそうに見えるのは気のせいかしら? 不思議に思いつつ礼を言って口を付ける。ふわりと広がる花の香りと温もりで身体の中が温まるのを感じた。
息を吐く。何を言うでもなく私の世話を焼くこの子は、この生活をどう思っているのかしら。
これは、興味本位ではなくて、今後について考えていくための必要な情報で聞いているのであって、別に何かを察してほしいとかそんな気持ちはで聞いているのではないわ。
お給金は家からもらっているとは思うんだけど、一応立場的にはアニーを預かっている身になるので本人の意思を確認しようってだけよ。そこに含みや下心的な気持ちはない。はず。
「ねぇ、あなたどうして私に付いて来る気になったの?」
タイミングはあったの。
私が幽霊になった時、デュランド伯爵家の爵位を返還した時。そして屋敷を出る時。いくらでも愛想を尽かして出て行ったって良かったのに、この物好きなメイドはこんなところまで付いて来てしまった。
さっさとうちと縁を切ってどこぞに嫁げばよかったのに。そうすればよくある幸せな家庭とやらも築けたでしょうに。
「私と二人で暮らすのはお嫌でしたか?」
「誰もそんなことは言ってないでしょう? 私はただ」
「じゃあいいじゃないですか。私がお嬢様と一緒に暮らしたかったって理由で」
物好きな子。なんて、心の中で悪態をついてみる。これはきっと照れ隠しね。
この娘は変わらない。他の色々なものが変わっても、ずっと私に使えている。もちろん感謝がないわけではないわ。でもこの娘の幸せを願うのなら、手放してやった方がいいとも思うのよ。幸せって何なのかよくわからないけど。
「ずっと、ここにいるわけもいかないでしょう」
そう言えばアニーは一瞬目を丸くして、その後仕方がないなぁという風に笑った。
「私、ちゃんとシャルロットお嬢様のこと好きですよ?」
「なんの話よ」
何でそうなるのよ。やめて頂戴。
そんな風に言われたら、まるで私が催促したみたいじゃない。
「パミラさまにお嬢様を任されたのもありますが、ちゃんと自分の意思でここにいます」
「いくらお母様相手でも、断れたはずよ」
「そうじゃないですって」
アニーは少し困ったように笑う。
事実、彼女がいてくれて助かっている。この子がいるから家の中でも不自由なく過ごせていると言ってもいいでしょう。けど、私の暮らしのためにずっとこの子を縛り付けるべきではないとわかっているの。
きっと私がそう考えているのをこの子はわかっていないようね。よくて今の状況を負い目に感じている程度と認識しているのでしょう。だからそんなに軽く笑えるんだわ。
「確かにお嬢様はお言葉こそ厳しいですけど、酷いことはしないじゃないですか」
ちょっと面倒臭いところもありますが、なんて言うアニーに呆れて肩を落とす。言うじゃない、あなた。なんて、考えながら今朝届いた手紙の内容を思い出す。
お母様が何を話したくてこの家に来たいのかはわからない。けれどもし、屋敷の方へ戻れというのなら。そうする方がアニーの負担は減らせる。
そうやってぐるぐる考えている私を他所にアニーは彼女は笑った。
「理不尽じゃない。それだけで十分私には使える理由になります」
「あなたちょっと判定が緩すぎない?」
苦笑いを浮かべるしかない。でもまあ、それが彼女らしいのかもしれない。
雨が降っている。窓を叩く雨脚はどんどん強くなっていて、まだまだ降りやむ気配はない。アニーが私を見つめて笑った。
「逆にお嬢様はどうなんです? この暮らし、楽しんでいますか?」
「楽しいわ、とても」
「ならいいじゃないですか。この先は楽しいことばかりじゃないかもしれない。でも、折角二人で暮らすんです。不安も全部楽しみましょうよ」
そう言って微笑まれてしまうと、もう何も言えなくなってしまう。私は少し視線を下げて肩を落とした。
この暮らしはとても楽しい。叶うならずっとと願ってしまう。だからこそこの暮らしを続けていくための方法が思いつかない現状に焦りもするし、また何かの拍子に日常が壊れてしまうんじゃないかと不安にもなる。
けれどこの子はそれをも楽しめと言う。一体どれだけ図太くて不遜なのかしら? それともただの能天気? どちらにしても羨ましい限りね。
「お嬢様は何をしたいですか?」
早速、とばかりにアニーが問いかける。
何と言われてもすぐには思いつかない。少し前までならオスカー様との婚約の解消だったのだけど、それを達成した今、これと言ってやりたいことも思いつかないのよね。
制限がないからなんでもできる。だからこそ何にも出来ない。目的も時間の潰し方もわからないでいる。そういう自由は、案外退屈な物だって幽霊になった時に気が付いたはずなのにね。どうして後でどうするかをちゃんと考えておかなかったのかしら。
オスカー様の様に、やるべき仕事や願いがあるわけではない。教会で会ったエルザさんたちの様に、興味を惹かれるものに目を輝かせるほどの純粋さも失われてしまった。
ハンス様は……、どうなのかしらね。あの人は私に何かを求めない。自分の中で完結してしまっている。外からの変化を求めていない。独りよがりで、酷い人。
私は何をしたいのか。何が出来るのか。変ったものはたくさんある。変わらないことも確かにあった。……変えたくなかったこともあったわね。
雨の音が響いている。しばらく考え込んでいたにもかかわらずアニーはそこで待っていてくれた。
「今朝の手紙のことなんだけど」
お母様の手紙の内容はアニーにも伝えてある。
「お母様と会ってみようと思うわ」
「はい! じゃあ精一杯おもてなししましょう!」
お父様とお母様のことは嫌いではない。ただどうしていいかわからないのよ。もうずっとまともな会話をしてこなかったもの。
お互いに一杯一杯になっていたのはわかっている。お互いを見えなくなるくらいには。だから。会って、ちゃんと話してみたいと思った。
会ってお母様がどうしたかったのかを伺ってみたいと。どうして欲しいかったのかを知りたいと思ったの。
そして私が望んでいたこともお話しできればと。
全部が全部上手くいくわけじゃないだろうし、元に戻るなんて出来るわけがないのかもしれない。
私と同じ様に、遠い記憶の中にしかない日々をお母様も惜しんでくれているのなら。
思い出話くらいは出来るかもしれないから。




