25.君への追白
一歩ずつ、静かに、可能な限り上品に見える様に歩く。
もう何年も積み重ねて慣れてしまった動作だけど、習い始めた頃は本当に辛くてどうしようもなかった。でも今はあの頃よりずっと優雅に歩けるし、特に楽しくなくても笑顔を浮かべられるわ。
家庭教師に教わった通りに、背筋を伸ばし胸を張ってゆっくりと踏み出す。この国で貴族として生きていく為に、嫌でも身に付けなくてはならなかった作法や所作を一つ一つ確認しながら歩く。
埃一つない王城の廊下は特に目新しいものもなく、厳格で伝統を守った装飾に包まれている。以前は毎日の様に通っていた彼が利用している一画は、幽霊になっても通っていたのにこの一ヶ月ですっかり足が遠のいてしまった。
等間隔に並んでいる警備の騎士たちの前を誰にとがめられるでもなく進んで行けば、この先に通いなれたオスカー様の応接室がある。その扉はいつも通り閉じていたけれど、ノックをすればすぐに返事が返って来て中へと招かれた。
ゆっくり、落ち着いて扉を開ける。
背の低いテーブルを挟んだ向こう側のソファに、彼が腰を下ろしている。いつも隣にいた他の貴族の娘たちはいない。今日も彼は私を見て微笑んでいる。勧められるままに席に付けば、城のメイドが紅茶を用意して下がっていった。
暫くの間、紅茶の香りを楽しみながら無言の時間を過ごす。少し落ち着かない。オスカー様から送られて来たメッセージカードには話があるので城に来て欲しいとだけ書かれていた。
彼が、何の話があって読んだのか私は知らない。だから彼の言葉を待った。
カップを手に取り口元へ運ぶ。白い陶器の縁の向こう側に彼の姿が見える。そうしてカップを手に取って口元へ近付ける直前、オスカー様が小さく息を吐いた。
「今日、君を呼んだ理由はわかるかな?」
「さぁ? 私にはあなたの考えていることがわかりませんもの」
「おっと、意地悪を言われてしまったね」
一口紅茶を呑み込んで答えれば肩をすくめながらオスカー様が笑う。
私の知らない穏やかな表情で、いつもよりも雰囲気がずっと柔らかい。あなた本当はそんな風に笑う人だったのね。知らなかったわ。
それにしても……、意地悪だなんて心外にも程がある。本当のことを言っただけでしょう。私も貴方も、今までお互いをちゃんと見れていなかったんだもの。
「これからのことを話したいんだ」
そう聞いて思い出すのは三日前の夜会での会話。
今になってやっとお互いの気持ちを確認したけれど、何もかもが遅すぎた。既に私の心は決まっていたし、なんとなくこうなるだろうと彼も察していたみたい。
私たちはお互いにお互いが初恋の相手だった。惹かれ合ってはいた。でもそれはお互いに自分の中に作り出した相手への思慕だった。
オスカー様は初めて会った時のまだ何も知らないまま世界の綺麗な部分だけを見ていた私を。そして私はオスカー様を好きだという気持ちを、唯一他の誰のものでもない私だけの感情だと大事に抱え込んで目の前にいるはずのオスカー様も見えなくなっていた。
私がずっと苦しかったのは、この抱え込んだ気持ちと目の前にいるオスカー様の懸隔によるものだったのかもしれない。
彼が、私を見て笑った。改めてもう戻れないと自覚する。
「気持ちは変わらないみたいだね」
「はい」
オスカー様の言葉に素直にうなずく。彼はきっと私がどう答えるか最初からわかっていたのだろう。それでも直接言葉にして伝えて欲しいと思うのは、私の我がままだったかしら。
「正直な話をしよう」
私を見つめた後、ゆっくりと目を伏せたオスカー様が深く息を吸って長く吐き出した。
彼がこんなに緊張しているところを見るのはいつ以来だろうか。記憶の中にある限り初めてのような気がする。一体どんな話が飛び出すのか。身構えて次の言葉を待っていると、オスカー様が再び目を開いた。
覚悟を決めたような瞳に心臓がドキリと跳ねる。
「僕は君と別れたくはない」
それは、彼らしくもないなんとも格好の付かない言葉で思わず呆気に取られてしまう。
別れたくないと言われても困るのだけれど……。だって私たちの間には婚約破棄しかないじゃない。というかお互いにもう終わりだろうと思っているような雰囲気だったと思うのに。
それが別れたくはないってどういうことなのかしら。まるで私と一緒に居たいかのような言い方をされてもどうしていいかわからなくなってしまう。
「理由を聞いても?」
「たくさんあるよ。まずは手続きが面倒臭い」
ひっぱたいてやろうかしら。
いいえ、ダメよ。落ち着かなきゃ。思わず出したくなって手を握り込んで我慢する。
「君と別れたら父からも色々言わせるだろうね」
それは、まぁ。陛下に置かれましては爵位を与えてくださったりと、手を回してくださった恩もあるのだから申し訳ないわね。とはいえ私にはどうにもできないのだけど。
「新しく婚約者を宛がうために見合いなんかもしなくちゃね」
……そうよね。私がいなくなった後のことも考えなければいけないものね。でもそれならそれで、別の方とお付き合いしたらどうかしら。例えば、いつも侍らせている貴族の娘たちの内の誰かとか。と、言うのは流石に性格が悪いかしら。
応接室は紅茶の香りに包まれている。オスカー様はいつも通りの穏やかな顔で私を見ている。ふと視線を落とすと、テーブルの上で組まれた彼の手が微かに震えていることに気付いた。ああ、そうか。あなたも、怖いんでしょう? そんな意味を込めて彼の名を呼ぶ。
「オスカー様」
「僕はまだ、君が好きなのに」
小さく呟かれた声は、どこか悲痛な響きを帯びていた。
息を飲む。あなたも同じなのね。オスカー様と同じ様に私の指先も震えているのを感じる。本当は私も怖くて仕方がない。でも、今更引き返せない。
「大丈夫、わかっているよ。もう一緒にいられないって」
私の心を察したように彼はそう言って寂しそうに微笑んだ。
わかってくれているのは嬉しいけど、そんな顔をされたら泣きそうになるじゃない。ずるいわ。本当は言いたかった言葉が沢山あったはずなのに胸が苦しい。
「もっと、別の道はなかったのかしら……」
「君がそれを言うの?」
「……ごめんなさい」
自分で彼と離れると決めたくせについそんなことを考えてしまう。だって、こんなことになるなんて思わなかったんだもの。
私もオスカーもずっと前からお互いに好きだったのに、ずっとお互いの気持ちに気付かなかった。本当はずっと隣にいたかった。彼の手を取りたくて、彼と笑い合いたかった。
「良いよ、許してあげる」
その言葉は優しくて甘すぎるくらいで、なんだかとても泣きそうだ。
オスカー様は相変わらず笑っている。ずっと、この笑顔を向けられるのは私じゃなくて、マリアベルさんなんだと思っていた。
「私、ずっとあなたはマリアベルさんが好きなんだと思っていたわ」
「彼女は……まぁ友人だよ。そんなのじゃない」
「でも、他の誰よりもあの人と近かったわ」
「確かに気安い関係ではあったよ。でもお互いを好きにはならない」
羨ましかったのよ、彼女が。私よりもずっと正直で自信に満ちていてきちんと自分の気持ちを伝えられる人だった。だから私はマリアベルさんに嫉妬していたし、同じ様にオスカー様のお傍に気兼ねなく居座れる他の貴族の娘たちのことも気に入らなかったわ。
まぁ、あの娘たちのようになりたいとも思えなかったし、何の行動も起こさなかったのは私自身だけど。
「他にも貴族の娘たちを侍らせていたし」
「君だっていつの間にかハンスとの仲を縮めていただろう?」
「それは、そうかもしれないけど……」
なんで口ごもっているんだろう。
先に浮ついた心を持ったのはオスカー様の方なのに。私とハンス様は何にもないはずなのに。つい言い淀んでしまったのは、口にするのは憚れる感情が私の中にあるからなのか。
「結構ショックだったんだよね、君とハンスが並んでいるのを見るのは」
あなただって、と言いたかったけど言えなかった。あんまりにも優しい顔で私を見ていたから。
「彼のことが好き?」
聞きながら、少しだけ不安そうな表情を浮かべている。そんな顔をされると、調子が狂ってしまう。なんとも言えない沈黙が降りてきた。
しばらくの後に、彼がゆっくりと息を吐いて、私を見る。その瞳は何かを決意したようで、同時に迷ってもいるようだった。どちらにせよ、きっと答えは変わらない。だって、私たちに同じ未来はないのだから。
「……わからないわ」
「それはどうして?」
「あなた以外を好きになったことがないから、この気持ちもそうだとは言い切れないの」
そう答えると、彼は驚いたような顔をして私を見た。何よ、そんなに意外だった? 私だって、あなたが好きだったのよ。
オスカー様はいつも余裕たっぷりに振る舞っていたし、私ばかりが翻弄されているような気がしていたから少しだけ優越感を覚える。
思い返してみれば、随分とこの気持ちに固執していたように思う。
私の持っているものは全部借り物や与えられたもので、それが当たり前だった。皆が持っているものも持っていないし、唯一私の中に生まれたあなたが好きだという感情にずっと縋って生きてきたの。これしかないと思い込んでいたの。
ああ、きっとこういうのが一方通行の原因なのね。でも、一つだけわかることがあるわ。それは、オスカー様へ向けていた好きという気持ちと、ハンス様に抱いている感情は少し違うということ。
対等でありたいようなそうでないような。もっと知りたいような、知ってほしいような。
この感情に名前を付けて分類してしまうのは簡単だけど、これもそうなのかはわからない。何せ愛情なんてもの、両親と目の前の人に対してしか抱いた覚えがないんだもの。サンプルが少なすぎて判断できないのよ。
オスカー様は相変わらず笑っている。ゆっくりとオスカー様の手が伸びてきて、途中で止まった。私に触れずに戻っていく指先をまるで一つの儀式の様にじっと見つめる。
「別れようか」
「いいの?」
「そうしたいんじゃなかった?」
「そうだけど……」
オスカー様はそれでいいんだろうか。
私はこの人に何かできていただろうか。
この人には求めるばかりだった気がする。
「好きだよ。愛してると言ってもいい」
「オスカー様……」
「だから、これが精一杯」
なんとも力ない笑みだと思った。
彼が取り出したのは私たちの婚約時に作成された書類と、それを破棄するための書類がいくつか。手を伸ばしざっと書面を見渡せば、爵位に関する記述もある。
「面倒じゃ、なかったんですか?」
「面倒だよ。今からでもこの書類を破り捨てたいくらいには」
でもね、と続ける。その声色は穏やかで、その表情は柔らかい。
彼の中でどんな変化があったのかはわからないけれど、その心の中には確かな決意があるようで。
「君を変えてしまった責任を取りたかったんだけどね」
「私はそう気負わずに接してほしかったですよ」
差し出されたペンを受け取り、必要な個所に自分の名前を書き記していく。少し震えた文字になってしまったのは見逃してほしい。
これで私たちは他人に戻るのだ。思わずため息を吐く。なんだかずっと乗っていた肩の荷が下りた気分だった。
彼と過ごした日々を思い出す。良い所探しというわけじゃないけど、全部が全部ダメだったとは言いたくない。いつか無駄じゃなかったと言える日が来るかしら? まぁ、苦しいことの方が多かったのは間違いないわね。
「父上に渡しておくよ」
「はい」
さっきからずっと心臓が落ち着かない。緊張している。
オスカーも、そうなんだと思う。私以上に強張った表情をしている。
「聞いてもいい?」
「うん?」
「あなたは私に、何をしてほしかった?」
この前、私が私でいてくれるならそれでいいと言っていたけど、その言葉の本当の意味を教えて欲しい。幼いあの日のままでいて欲しかったのか、それともまた違う願いがあったのか。
そんな何気ない雑談をするくらいの時間なら、まだ許されるはずよね?
「僕の理解者になってほしかった」
そう言った彼はどこか寂しげで、諦めているようにも、何かを羨ましがっているようにも見えた。
「上の兄さんは早々に義姉さんって言う理解者を見つけていたし、次兄も気の知れた侍女と一緒に国外留学して好きにやってるみたいだしね」
義姉さん、というはこの間の夜会の主賓のことね。彼の上のお兄さんの婚約者の明るくはつらつとした女性で、私から見ても二人はとても仲睦まじい様子だった。
下のお兄さんに付いては私はよく知らないけれど、彼の言う通りならきっと良い関係を築いている人がいるのでしょう。
そしてオスカー様は、私とそういう関係になりたかったと。
「僕もそういう人が欲しかった」
酷い人ね。一言そう言ってくれれば、私だってもう一度変われたかもしれないのに。お互いにもう少しだけ、胸の内を話せればそうなれたかもしれないのに。そうなればいいとお互いに望んでいたはずなのに、何もかも遅くて、かみ合わなかった。
「私、最後まであなたのことをわかってなかったわ」
「それは僕もだよ」
「もう、戻れないのね」
「そうだね」
オスカー様が机の上に並べられた書類を一枚ずつ丁寧に拾っていく。
その全てに私と彼の名前が書き記されていて、後は彼の父である国王陛下の承認を得られればこの関係は終わる。そう思えば、酷く脆い関係なのね。婚約者って。
全ての書類を拾い上げ、端をそろえたオスカー様と目が合った。どちらともなく、自然に口角が上がる。
「さよなら。僕の初恋の人」
「ええ、さよなら。私の愛した人」
そうして、私と彼の初恋は紙切れに記したサインによって呆気なく終わった。
読んでいただきありがとうございました!
取り敢えず二部完結です。三部でやっと状況が変わる予定ですが、三部で完結するかは未定。
またある程度話が固まり次第、連載を再開していきます。
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